第3節:二十年分の独自世界——解析開始
扉が、音もなく開いた。
入ってきたのはエリカ・ダルジェントだった。
廊下の明かりを背に、焦げ茶色の髪が揺れる。部屋の中を見渡し、床一面の術式陣に目を見張り——それからマルクスに気づいた。
「先生……?」
足が止まる。
「なぜ、行政局に——」
「来たか」
マルクスはメモ板から視線を外さずに言った。
「早かったな」
「トマーシュ班長に、『行政局から呼び出しが来た、すぐ行け』と言われて来たんですが」
エリカが一歩、室内に踏み込む。重い石扉が軋みながら閉まった。
「先生が呼んだんですか」
「そうだ」
「……理由は」
「条件を出した。外部の技術者を一人連れ込む、と」
沈黙。
「……私が、その一人ですか」
「軽量フレームワークの開発者だ」
マルクスが振り向いた。
「既存システムの解析と最小限の修正には、あの技術が要る——と判断した」
エリカの目が、かすかに揺れた。
「……はい。やります」
「お前と並んで動くのは初めてだ」
「はい」
「足を引っ張るなよ」
「——はい」
緊張と、何か別のものとが混じった返事だった。
(アストラル商会では、トマーシュ班長がエリカの背中を押した。行政局の名前が出た時、彼はほとんど迷わなかった——「行ってこい。こういう経験は、大手にいるだけでは積めない」)
*
二人で、部屋を見渡した。
地下の管理室。天井を照らす青白い光。床一面に広がる術式陣。壁を埋め尽くす、走り書きの略号。
マルクスは腕を組み、中央から全体を眺めた。
「……すごいな」
「先生」
「二十年分の仕事が、全部この部屋の中に閉じている」
かすかな感嘆だった。見下しではない。どこかに畏敬が混じっている。
エリカが周囲を確かめながら言った。
「文書は——本当に、ないんですか?」
「ペトルの頭の中が文書だ。あの壁のメモ以外には、何もない」
「……二十年間、本当に一人で」
「ああ」
エリカが、青白く光る床を見下ろした。
「どこから手をつければいいんでしょう」
「それを調べるところから始める」
マルクスが右手を持ち上げた。
*
真理視——マルクスの固有スキルだ。
術式の構造を透明な線として可視化し、干渉点・欠損・異常を直接知覚する。術師ならば術式の流れを感じ取ることはできる。しかしマルクスの真理視は、それとは次元が異なる。まるで設計図が目の前に浮かび上がるように、術式の全体像が「見える」。
展開した瞬間、空気が変わった。
床一面の術式陣が、幾重にも重なった層として分解されて見える。主軸となる太い幹から無数の枝が派生し、それぞれがまた枝分かれし、末端の葉まで繋がっていく。どこまで追っても、構造の底が見えない。
(……複雑だ)
ひと目で分かった。
一枚の設計図に乗っているのではない。二十年分の改修、拡張、パッチ、独自の最適化——それらが層の上に層として積み重なり、全体像を把握しようとすれば、どこまでも深みにはまっていく。
真理視が処理を始める。しかし——
(重い)
マルクスの額に、汗が浮いた。
真理視は「見えているものすべてを同時に解析する」。規模が大きいほど、術者への負荷が増す。通常の調査案件では、対象は個人の魔導書か、せいぜい工房規模の術式群だ。しかしこれは——連邦行政の根幹を二十年かけて積み上げた、基盤インフラだ。規模が桁違いだ。
「先生」
エリカの声が、隣から飛んでくる。
「……顔色が」
「問題ない」
「でも——」
「続けろ」
それだけを言い、正面に向き直った。真理視を維持しながら、構造の輪郭を追う。
(設計そのものは——悪くない)
むしろ。
(この規模を、一人で保守していたのか)
商業スキルを分解して再構築した形跡がある。市販の標準部品を、一から手直しした跡がある。誰かが「余計なことをするな」と止めれば、こんな独自システムにはなっていなかっただろう。それを二十年間、誰にも止められずに続けた——腕のある職人の、孤独な蓄積だ。
「……どんなに腕がよくても、一人は一人でしかない」
呟きが、ほとんど独り言になった。
「だが、一人で抱え込んだのが問題だ」というのは——自分への言葉でもあると、マルクスは承知していた。
*
「先生」
数分後、エリカが声をかけた。
「入札処理に使う術式群を、大まかに特定しました。……この端の一角だと思います」
マルクスは真理視を維持したまま、視線を向けた。エリカが指した一角——確かに、全体の構造から独立した纏まりが見える。本幹から延びた枝の、末端に近い部分だ。
「それを解析してくれ。入札処理の流れを把握するのが、まず優先だ」
「はい」
「俺は全体構造と認証系を当たる。二手に分かれる」
「分かりました」
エリカが術式陣の一角へ移動した。マルクスは中央で、真理視を維持しながら認証系の構造を辿り始める。
ペトルの独自認証——市販の認証スキルを分解して再構築した、完全カスタム品。しかし——
(裏口がある。あるはずだ)
どんなに完璧なシステムを作っても、職人は緊急時の逃げ道を用意する。それは性だ。マルクス自身も、そうする。
壁のメモ板。あの略号の中に、何かが隠れているかもしれない。
*
エリカは術式陣の端に膝をつき、入札処理術式群を精査していた。
近くで見ると、設計がよく分かる。一つ一つの術式は小さく、単純だ。凝った構造ではない。ただし——最適化が丁寧だ。無駄な負荷がほとんどない。古い型式の焦点具でも動くように、処理を削ぎ落として、削ぎ落として。そこまで煮詰めた設計だ。
「……これ」
思わず声が漏れた。
「何だ」
マルクスが、中央から訊いた。
「この術式群——私のフレームワークと、似た設計思想です」
少し間があった。
「どういう意味だ」
「古い焦点具でも動くように最適化する、という考え方です。私が軽量フレームワークを作った時の——どんな環境でも、最小限の負荷で動かすという方針と同じで」
「……ペトルも古い世代の技官だ」
マルクスの声は変わらない。ただ、考えながら話している感じがある。
「高性能な装備が手に入らなかった時代に、工夫で補った。君の軽量フレームワークと根は同じだ」
「……そうか」
エリカは術式陣を見つめたまま、止まった。
「この人も——限られた環境で、最善を尽くしていたんですね」
「ああ」
「ただ——一人で、だった」
答えはなかった。しかし沈黙は肯定だった。
エリカは作業に戻りながら、頭の片隅で別のことを考え始めていた。
(——同じ設計思想。ということは)
(私のフレームワークを、先生の真理視に組み合わせられたら——?)
まだ漠然とした発想だ。確信もない。方法も分からない。だがペトルのシステムを解析しながら、その考えが静かに根を張り始めていた。
処理範囲を広げる代わりに、精度を落とす。
先生の真理視は精度が高すぎる——だから、このシステムの広さに対応しきれない。
ならば——
(第3節 了)




