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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第5章:「一人しか知らない」

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第3節:二十年分の独自世界——解析開始

 扉が、音もなく開いた。


 入ってきたのはエリカ・ダルジェントだった。


 廊下の明かりを背に、焦げ茶色の髪が揺れる。部屋の中を見渡し、床一面の術式陣に目を見張り——それからマルクスに気づいた。


「先生……?」


 足が止まる。


「なぜ、行政局に——」


「来たか」


 マルクスはメモ板から視線を外さずに言った。


「早かったな」


「トマーシュ班長に、『行政局から呼び出しが来た、すぐ行け』と言われて来たんですが」


 エリカが一歩、室内に踏み込む。重い石扉が軋みながら閉まった。


「先生が呼んだんですか」


「そうだ」


「……理由は」


「条件を出した。外部の技術者を一人連れ込む、と」


 沈黙。


「……私が、その一人ですか」


「軽量フレームワークの開発者だ」


 マルクスが振り向いた。


「既存システムの解析と最小限の修正には、あの技術が要る——と判断した」


 エリカの目が、かすかに揺れた。


「……はい。やります」


「お前と並んで動くのは初めてだ」


「はい」


「足を引っ張るなよ」


「——はい」


 緊張と、何か別のものとが混じった返事だった。


(アストラル商会では、トマーシュ班長がエリカの背中を押した。行政局の名前が出た時、彼はほとんど迷わなかった——「行ってこい。こういう経験は、大手にいるだけでは積めない」)



 二人で、部屋を見渡した。


 地下の管理室。天井を照らす青白い光。床一面に広がる術式陣。壁を埋め尽くす、走り書きの略号。


 マルクスは腕を組み、中央から全体を眺めた。


「……すごいな」


「先生」


「二十年分の仕事が、全部この部屋の中に閉じている」


 かすかな感嘆だった。見下しではない。どこかに畏敬が混じっている。


 エリカが周囲を確かめながら言った。


「文書は——本当に、ないんですか?」


「ペトルの頭の中が文書だ。あの壁のメモ以外には、何もない」


「……二十年間、本当に一人で」


「ああ」


 エリカが、青白く光る床を見下ろした。


「どこから手をつければいいんでしょう」


「それを調べるところから始める」


 マルクスが右手を持ち上げた。



 真理視デバッガー——マルクスの固有スキルだ。


 術式の構造を透明な線として可視化し、干渉点・欠損・異常を直接知覚する。術師ならば術式の流れを感じ取ることはできる。しかしマルクスの真理視は、それとは次元が異なる。まるで設計図が目の前に浮かび上がるように、術式の全体像が「見える」。


 展開した瞬間、空気が変わった。


 床一面の術式陣が、幾重にも重なった層として分解されて見える。主軸となる太い幹から無数の枝が派生し、それぞれがまた枝分かれし、末端の葉まで繋がっていく。どこまで追っても、構造の底が見えない。


 (……複雑だ)


 ひと目で分かった。


 一枚の設計図に乗っているのではない。二十年分の改修、拡張、パッチ、独自の最適化——それらが層の上に層として積み重なり、全体像を把握しようとすれば、どこまでも深みにはまっていく。


 真理視が処理を始める。しかし——


 (重い)


 マルクスの額に、汗が浮いた。


 真理視は「見えているものすべてを同時に解析する」。規模が大きいほど、術者への負荷が増す。通常の調査案件では、対象は個人の魔導書か、せいぜい工房規模の術式群だ。しかしこれは——連邦行政の根幹を二十年かけて積み上げた、基盤インフラだ。規模が桁違いだ。


「先生」


 エリカの声が、隣から飛んでくる。


「……顔色が」


「問題ない」


「でも——」


「続けろ」


 それだけを言い、正面に向き直った。真理視を維持しながら、構造の輪郭を追う。


 (設計そのものは——悪くない)


 むしろ。


 (この規模を、一人で保守していたのか)


 商業スキルを分解して再構築した形跡がある。市販の標準部品を、一から手直しした跡がある。誰かが「余計なことをするな」と止めれば、こんな独自システムにはなっていなかっただろう。それを二十年間、誰にも止められずに続けた——腕のある職人の、孤独な蓄積だ。


「……どんなに腕がよくても、一人は一人でしかない」


 呟きが、ほとんど独り言になった。


 「だが、一人で抱え込んだのが問題だ」というのは——自分への言葉でもあると、マルクスは承知していた。



「先生」


 数分後、エリカが声をかけた。


「入札処理に使う術式群を、大まかに特定しました。……この端の一角だと思います」


 マルクスは真理視を維持したまま、視線を向けた。エリカが指した一角——確かに、全体の構造から独立した纏まりが見える。本幹から延びた枝の、末端に近い部分だ。


「それを解析してくれ。入札処理の流れを把握するのが、まず優先だ」


「はい」


「俺は全体構造と認証系を当たる。二手に分かれる」


「分かりました」


 エリカが術式陣の一角へ移動した。マルクスは中央で、真理視を維持しながら認証系の構造を辿り始める。


 ペトルの独自認証——市販の認証スキルを分解して再構築した、完全カスタム品。しかし——


 (裏口がある。あるはずだ)


 どんなに完璧なシステムを作っても、職人は緊急時の逃げ道を用意する。それはさがだ。マルクス自身も、そうする。


 壁のメモ板。あの略号の中に、何かが隠れているかもしれない。



 エリカは術式陣の端に膝をつき、入札処理術式群を精査していた。


 近くで見ると、設計がよく分かる。一つ一つの術式は小さく、単純だ。凝った構造ではない。ただし——最適化が丁寧だ。無駄な負荷がほとんどない。古い型式の焦点具でも動くように、処理を削ぎ落として、削ぎ落として。そこまで煮詰めた設計だ。


「……これ」


 思わず声が漏れた。


「何だ」


 マルクスが、中央から訊いた。


「この術式群——私のフレームワークと、似た設計思想です」


 少し間があった。


「どういう意味だ」


「古い焦点具でも動くように最適化する、という考え方です。私が軽量フレームワークを作った時の——どんな環境でも、最小限の負荷で動かすという方針と同じで」


「……ペトルも古い世代の技官だ」


 マルクスの声は変わらない。ただ、考えながら話している感じがある。


「高性能な装備が手に入らなかった時代に、工夫で補った。君の軽量フレームワークと根は同じだ」


「……そうか」


 エリカは術式陣を見つめたまま、止まった。


「この人も——限られた環境で、最善を尽くしていたんですね」


「ああ」


「ただ——一人で、だった」


 答えはなかった。しかし沈黙は肯定だった。


 エリカは作業に戻りながら、頭の片隅で別のことを考え始めていた。


 (——同じ設計思想。ということは)


 (私のフレームワークを、先生の真理視に組み合わせられたら——?)


 まだ漠然とした発想だ。確信もない。方法も分からない。だがペトルのシステムを解析しながら、その考えが静かに根を張り始めていた。


 処理範囲を広げる代わりに、精度を落とす。


 先生の真理視は精度が高すぎる——だから、このシステムの広さに対応しきれない。


 ならば——


(第3節 了)


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