第2節:緊急依頼——マルクスの出番
同じ朝、ストジーブルナー・ルーナ(Střibrná Luna)。旧市街のギルド街に構える中堅ギルドの建物は、石造りの外壁に蔦が絡まり、通りから見ると古びた商家にしか見えない。しかし内部には、それなりの広さの作業室と書庫がある。
マルクスは二階の作業室で机に向かっていた。
先週から預かっている焦点具の修繕だ。古い調整式の杖——魔力の通りが悪くなっており、内部の術式配置を一から確かめながら、細かくパスを修正していく。こういう仕事は午前中に限る。頭が澄んでいる間に、集中できる間に終わらせてしまう。
階下から声がした。来客だ。
マルクスは杖を置き、椅子を引いた。
*
応接の間に入ってきたのは、クラウス・フォン・シュタイン(45歳)だった。
連邦魔法行政局の執行官。学院の件で顔を合わせている。あの時はOSLの解析に手を貸した。今日は——目の下の疲れが、昨夜から動き回っていることを物語っている。
「学院の件でお世話になったクラウスです。……今度は、行政局の問題で参りました」
「座れ。聞こう」
クラウスが腰を下ろした。マルクスは向かいに座り、茶の用意を部屋の外に頼んだ。
クラウスが話した。
ペトル・コヴァーチ、五十五歳。行政局の上級技官。二十年間、遺跡探索権管理システムを一人で保守してきた。昨夜、自宅の書斎で倒れているのを発見された。診断は心臓の発作。命に別状はないが、しばらくは絶対安静。他の技官は誰もシステムの中身を把握していない。文書もない。
そして——入札は明日の朝だ。
「以上です」
マルクスはしばらく黙っていた。
「……属人化か」
「はい」
「二十年も一人でやっていれば、本人以外には誰にも分からなくなる」
茶が運ばれてきた。素焼きの器に、黄色みがかったハーブティー——菩提樹の花茶だ。クラウスが軽く頭を下げ、両手で受け取った。
「……よくある話だ」
「アッシュベルク殿」
クラウスの声に、わずかな硬さが混じった。
「よくある話で済まされると困るのですが」
「言い方が悪かった。よくある話だが——済ませるつもりで言ったわけではない」
クラウスは茶を一口飲んだ。それから、少し間を置いた。
「失礼を承知で、一つ申し上げます」
「何だ」
「アッシュベルク殿も、似たようなお立場と伺っています。このギルドの魔法技術に関する仕事は、殿お一人に頼り切りだと」
マルクスは表情を変えなかった。
「……否定はしない」
「では——」
「ただし」
マルクスは静かに言った。
「俺が倒れれば、この中堅ギルドが困る。それは事実だ。だが、君のところのシステムが止まれば、連邦中の遺跡探索が止まる。万人の権利がかかっている。職人が一人で抱えるのと、行政の基幹インフラを一人で抱えるのとでは——規模と影響範囲が違う。それだけだ」
(——それが言い訳でもあると、マルクス自身は分かっていた。分かっていて、それでもそう言う。規模の差は本物だ。だが、それを盾にして自分の問題を棚上げにしているのも事実だ)
クラウスは反論しなかった。
「……もっともです」
「で、俺に何をしてほしいんだ。行政局の基幹システムを外部の人間に触らせるのは、政治的に問題にならないか」
「そこは私が責任を取ります」
ためらいがなかった。
「ペトルの容態では、数日は動けない。入札は明日の朝です。外部の専門家に頼む以外に、今の私には手がない」
マルクスはクラウスを見た。実直な顔だ。理屈が通っていて、頭を下げる時はきちんと頭を下げる。第一印象から変わっていない。
「……引き受けよう」
クラウスの肩が、かすかに落ちた。
「ありがとうございます」
「一つ、条件がある」
クラウスが顔を上げた。
「……何でしょう」
「一人では無理だ。もう一人、技術者を連れ込む。それを認めてくれ」
沈黙。クラウスが何かを考えるような顔をした。しかし長くはかからなかった。
「構いません」
「政治的な問題は生じないか」
「ペトルの件で、私は学びました」
クラウスが、はっきりと言った。
「一人に頼るのが問題だ、と。あなた一人でも今のペトルより頼りになるでしょうが——あなた一人に任せきりにすれば、また同じことになる。複数の目で当たってもらえるなら、むしろ好都合です」
「……話が早い」
「現場を動かす人間は、現実的でなければ務まりません」
マルクスは立ち上がった。
「誰を連れていくかは俺に任せてくれ。それ以上は聞かなくていい」
「……承知しました」
クラウスも立ち上がり、短く礼をした。
「準備ができ次第、すぐ行政局へ。地下の管理室にご案内します」
「ああ」
クラウスが部屋を出ていく。足音が階段を下りていく。やがて、外の石畳を踏む音になり、消えた。
マルクスは窓の外を見た。旧市街の細い路地。石畳の上を、職人や商人が行き来している。初夏の光が、建物の白い壁に反射して眩しい。
もう一口、菩提樹の花茶を飲んだ。少し冷めていた。
静かに立ち上がり、懐から通信石を取り出した。
*
間をおかず、行政局の正門をくぐった。クラウスが廊下で待っていた。
「ご足労をかけました」
「案内してくれ」
石造りの廊下を歩き、地下へ降りる階段を下った。一段ずつ、外の喧騒が遠のいていく。空気が冷えていく。
石扉の前でクラウスが立ち止まり、鍵を差し込んだ。重い音を立てて扉が開く。
地下の魔法陣管理室。床一面に、巨大な魔法陣が展開されている。青白い光が薄暗い石造りの天井を照らし、空間全体をぼんやりと浮かび上がらせていた。
クラウスが部屋の隅の作業机を示した。魔導書が数冊、乱雑に積まれている。だが——紙の文書は一枚もない。棚も、引き出しも、手書きの仕様書も、設計図も、引き継ぎのメモも何もない。
壁面のメモ板だけが、違った。走り書きの略号が、びっしりと並んでいる。ペトルにしか読めない独自の記法だ。頭の中にある設計を、自分だけが分かる言葉で書き留めたもの。それが、このシステムの唯一の「文書」だった。
「何かあればすぐ呼んでください」
クラウスがそう言い残し、扉の外に出た。足音が廊下の奥に消えていく。
静寂。
マルクスは部屋の中央に立ち、床一面の魔法陣を改めて見渡した。手を伸ばし——真理視を展開しかけ、止めた。
(……やはり、一人では無理だな)
規模が違いすぎる。全容を把握しようとすれば、夜が明ける。一人では、どこから手をつければいいかも分からない。
だが——すでに、手は打ってある。
壁のメモ板に視線を移す。走り書きの略号。二十年前の行政局の旧式コードの名残り。今の技官には読めないだろう。
(俺には、覚えがある)
そこだけは、ペトルと同じ世代だ。
扉の外から、足音が聞こえてきた。
(第2節 了)
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### 解説:菩提樹の花茶(Lipový čaj)
連邦各地の家庭や職人の作業場で広く飲まれているハーブティー。アルカ周辺ではとくに春から初夏にかけて、街路や庭に菩提樹が白い花を咲かせる季節になると、乾燥させた花を茶葉として常備する家が多い。
**外見と香り:** 淡い黄色から琥珀色の水色。甘く柔らかい花の香りが立ち、鼻に残る余韻が穏やかだ。
**味わい:** 苦みはほとんどない。薄い甘みと、わずかな草のような風味が後から続く。濃く煮出しすぎると香りが飛ぶため、短めに蒸らすのが職人の好みだ。
**用途と文化:** 古くから「落ち着かせる茶」として知られる。緊張した場面での差し入れ、夜の眠り前の一杯、気難しい相手との交渉の場——どんな状況にも溶け込む、飾らない茶だ。マルクスの事務所では来客に出す定番の一杯になっている。




