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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第5章:「一人しか知らない」

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第1節:ペトルの不在——「あの人がいないと」

 協定歴4120年、初夏。


 連邦魔法行政局。城塞区の石段を上った先に構える、白い石造りの大きな官庁だ。正面の柱廊には「公正・記録・管理」の文字が刻まれており、毎朝、大勢の官吏と魔法技官が出入りする。旅行者が見れば「一等地の立派な建物」と思うかもしれない。しかし内部で働く者にとっては、少し窓が多すぎて夏は暑く、廊下が長すぎて移動が面倒な、ごく普通の官庁にすぎない。


 その建物の地下に、魔法陣管理室がある。


 石造りの階段を三層分降りた先。外の喧騒は届かない。空気は年中ひんやりとしており、夏でも上着が要る。壁面の魔力照明は薄暗く、床一面に展開された巨大な魔法陣が、青白い光を放っている。


 部屋の隅に、一つの机がある。


 ペトル・コヴァーチ(55歳)の机だ。



 ペトルが行政局に入庁したのは、二十年前のことだ。


 当時の魔法行政局の管理システムは、複数の旧式スキルを寄せ集めた継ぎ接ぎ品だった。担当技官が三人いたが、誰も全体を把握していない。トラブルのたびに互いに責任を押し付け合い、復旧に数日かかることもあった。


 入庁したばかりのペトルは、それを見て一週間で限界に達した。


「俺がやる」


 上司の許可を取り、二年かけて全部作り直した。既製スキルを分解して再構築し、独自の認証系を組み込み、処理速度を大幅に引き上げた。完成した時、上司は「すごいな」と言っただけで、詳細を理解しようとはしなかった。


 以来、二十年。ペトルは一人で保守し続けた。


 最初の頃は、引き継ぎを考えないでもなかった。しかし説明するより自分でやった方が早い。他の技官に触れさせれば余計な問題が起きる。毎年の拡張・修正が積み重なり、「全体を説明する」のがどんどん難しくなっていった。


 いつの間にか、誰も聞かなくなっていた。


「ペトルさんに任せておけば大丈夫」


 局内の共通認識になった。ペトル自身も、それを否定しなかった。


 壁のメモ板には、走り書きの略号がびっしりと並んでいる。二十年前の行政局の旧式魔法陣をベースにした、ペトル独自の記法だ。ペトル以外には読めない。紙の文書は一枚もない。全ての仕様は、ペトルの頭の中にある。


 それが問題だと——頭のどこかで、ペトルには分かっていた。


 (だが、俺しかいない。だから、俺がやる)


 二十年間、ずっとそう思ってきた。



 初夏のある日。ペトルはいつも通り早めに出仕し、作業机に向かっていた。


 翌日の午前は、大規模遺跡の入札処理がある。連邦南部の「黒岩の迷宮群」——複数の大手ギルドが入札を競っている、今期最大の案件だ。処理そのものに難しさはない。二十年やってきた手順だ。しかし規模が大きいぶん、起動シーケンスの確認と、認証系の暖機に時間がかかる。今日中に準備を整えておく必要があった。


 昼になっても、ペトルは机を離れなかった。


 部下の技官が二人、廊下を通りかかった。一人が「先輩、食堂に行かないんですか」と声をかけた。ペトルは「いい。先に行ってくれ」と答えた。後で行く気もなかった。


 引き出しを開け、妻が朝早く作った弁当を取り出す。コールドカットと薄切りの黒パン、ザワークラウトの小皿。手間のかからないものばかりだが、二十年そうしてきた。この部屋で、一人で食べることに、ペトルはとっくに慣れていた。


 黒パンを一口かじる。酸味のある固い食感。ザワークラウトの清涼な刺激がそれに続く。地下の薄暗い明かりの中で、ペトルは魔法陣の構成図を眺めながら昼食を終えた。


 夕方、準備が一段落した。起動シーケンスの確認は済んでいる。明日の朝は早めに来て、認証系を立ち上げる。それだけだ。


 ペトルは荷物をまとめ、地下から上がった。


 廊下を歩き、正門を抜け——夕暮れの城塞区の石段を降りていく。


 帰宅すると、扉の前に配達人が立っていた。


「書物商からお届けものです」


 封蝋の押された細長い小包。見覚えはない。しかし書物は時々そういう形で来る。ペトルは礼を言い、受け取った。書斎の机の上に置いたまま、今夜は疲れた、と思い——そのまま眠った。



 翌朝。連邦魔法行政局の正門が開く時刻に、ペトル・コヴァーチの姿はなかった。


 最初は誰も気にしなかった。遅刻することはある——と思いかけて、一人の若い技官が気づく。ペトル先輩が遅刻したのを、俺は一度も見たことがない、と。


 一時間が経ち、二時間が経った。


 主任技官が「連絡はないのか」と聞いた。ない、という答えが返った。


 ペトルの自宅に使い走りを出した。


 三十分後、使い走りが戻ってきた。蒼白な顔で、絞り出すように言った。


「——倒れておられました。自宅の書斎で。医師が来ていて、心臓の発作と言っています。命に別状はないが……しばらくは絶対安静と」


 静寂。


 そして——「入札は」という声が、誰かから上がった。



 連邦魔法行政局の第二技術室。技官が六人、集まっていた。


 クラウス・フォン・シュタイン(45歳)は、部屋の端で腕を組み、状況を聞いていた。行政局の執行官として、組織運営全般を統括する立場にある。魔法の技術的な詳細には疎い。だが今何が起きているかは、分かった。


「地下の起動シーケンスを試みましたが……認証が通りません」


「マナフローのパスが分からないんです。ペトルさんのメモ板に略号が並んでいましたが、何のことか——」


「どこに何の術式があるか、把握していません。ペトルさんが全部やっていたので、我々は」


「入札は明日の朝です」


 全員が黙った。


 クラウスは視線を上げた。官庁の白い天井。廊下の窓から差し込む夏の光。鳥の声まで、遠く聞こえてくる。


「——二十年分の仕事が、一人の頭の中にしかないのか」


 独り言に近い声だった。技官たちは答えなかった。


 クラウスは、自分が口にした言葉を反芻した。(ペトルを責めることはできない。ペトルに任せてきたのは——俺たちも含めて、組織全体だ)


 だが。


 入札は明日の朝だ。黒岩の迷宮群。大手ギルド三社が入札を待っている。行政の基幹処理が止まれば、連邦の信用に関わる問題になる。


(どうする)


 外部の専門家を呼ぶしかない。魔法システムの解析ができる——それも、こういう厄介な案件を。


 一人、頭に浮かぶ顔があった。


(学院の件で……あの人は、半日で問題の核心を見つけた)


 クラウスは立ち上がった。


「俺が動く。——あとは任せた」


 廊下に出て、一人で歩きながら、懐の通信石を取り出す。


(入札は明日だ。手は一つしかない)


 通信石を握る手に、少し力がこもった。


 城塞区の廊下の窓越しに、初夏の青空が広がっていた。


(第1節 了)


---


### 解説:コールドカット(Studená uzenina)


ペトルの昼食として登場する冷製の加工肉料理。アルカ近辺の家庭では、朝食や昼食に広く食べられる定番の一品だ。


**種類:** ハム、サラミ、スパイシーなサラミ(Lovecký salám)など、数種類の薄切り加工肉を盛り合わせる。職人ギルドの弁当や官庁の食堂でも、黒パンやライ麦パンと並べて出されることが多い。


**組み合わせ:** 薄切りの黒パン(Černý chléb)と、発酵させたキャベツ——ザワークラウト(Sauerkraut)を添えるのが定番。肉の脂と塩気に、パンの酸味と乳酸発酵の清涼感が合わさる。


**味わい:** 手間のかかる料理ではない。だが手間をかけない中に、材料の確かさが出る。作った人間の気持ちが、そのまま弁当箱に入っている。


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