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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第4章:「新しい環境」

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第5節:二つの居場所

 郊外住宅地の午後は、旧市街とは別の静けさを持っていた。


 台所に立ち、マルクスは鉄のフライパンを強火にかけた。六時間前から魔法の温度調節器に仕込んでおいた牛肉が、今ちょうど頃合いを迎えている。五十八度——低温で丁寧に熱を入れた肉を、最後に高温の鉄板で表面だけ焼き固める。それがこの料理の勘所だ。


 布で表面の水気を拭い、岩塩を挽いて振った。フライパンから白煙が立ち上がった瞬間、肉を置く。台所に肉の焼ける音と香りが広がる。四十秒。裏返して、また四十秒。それだけでいい。取り出して、皿の上で休ませる。


 隣の竈では、ブランボラークの生地が待っている。すりおろした芋を固く絞り、卵と刻んだにんにくを合わせたものだ。これは焼きたてが命だから、タイミングを計る。


(そろそろ来る頃だ)


 窓の外、庭のハーブが春の光を受けていた。



 郊外住宅地の路地は、エリカにとって不慣れな場所だった。


 手紙に書かれた住所を頼りに、庭付きの小さな家が並ぶ道を歩く。旧市街の石畳の喧騒から遠い、穏やかな午後。春の終わりの陽光が、路地を橙色に染めていた。


 目当ての家の前で立ち止まった。


 木造の、こぢんまりとした家だ。庭には魔法ハーブが几帳面に並んでいる。隣には共有保護林の緑が覗いている。窓から、何かを焼く香りが漂ってきた——肉の香ばしさと、それから、にんにくの鼻の奥をくすぐるような刺激。


(先生らしい)


 なぜそう思ったのかは、うまく言葉にできない。ただ、その匂いが、ストジーブルナー・ルーナの古い執務室よりもずっと、先生らしかった。


 門を叩いた。


「来たか」


 扉を開けたマルクスは、エプロンをしていた。使い込まれた、質素な布製のエプロン。灰色の瞳がエリカを一度見て、「入れ」と言った。


「お邪魔します」


 廊下の棚に、古い魔導書と焦点具が並んでいる。奥の部屋からは薄青い光が見えた——仕事部屋だろう。台所の方向からは、鉄板の音と湯気が漂ってきていた。


 マルクスはエリカをテーブルへ案内し、何も言わずに竈へ戻った。しばらくして、皿が三枚、テーブルに並んだ。


 一枚目。薄切りにされた牛肉が、断面をさらしている。外側は濃い焦げ色に焼き固められているのに、切り口は薄い桜色だ。肉汁が縁で光っている。


 二枚目。黄金色に焼き上がった円形の薄焼き——ブランボラークだ。


 三枚目。白い細切りと黄色い粒。ザワークラウトと、粒マスタード。


「……いただきます」


 エリカはフォークを手に取り、肉を一切れ口に運んだ。


 舌の上で、何かが解けた。


 表面の香ばしさと、内側の柔らかさが同時に来る。嚙む必要をほとんど感じない。それなのに、肉の旨みがゆっくりと口いっぱいに広がっていく。塩の加減が正確で、余分な味付けが何もない——肉そのものが、ただそこにある。


「……おいしいです」


 思わず、言っていた。


 マルクスは何も言わず、ブランボラークを自分の皿に取った。


 ブランボラークを一口食べると、外側のカリッとした歯応えの奥に、じゃがいもの柔らかい甘みが続く。にんにくの香りが鼻に抜ける。ザワークラウトの酸味が、肉の濃さをすっと整えてくれる。


 しばらく、二人は黙って食べた。


 沈黙が苦にならないのは、学院の頃から変わらない。この人の執務室では、いつも言葉が少なかった。それでも居心地が悪くなかったのは、この人の沈黙が拒絶ではないからだ——ただ、必要なことしか言わない人だった。



「先生」


「ん」


「……二年前のことを、覚えていますか」


「石橋亭か」


「はい」


 協定歴4118年の春。心核漏出ハートブリードの事件が片付いた後、石橋亭でご馳走になった夜のことだ。あの夜、マルクスが初めて、ストジーブルナー・ルーナの魔法技術顧問だと打ち明けた。


「……先生のギルドに行けなくて、すみませんでした」


 言葉にすると、ずっと胸の底に沈んでいたものが、ようやく形になった気がした。


「謝る必要はない」


「でも——」


「君の判断だ。尊重している」


 静かな声だった。責める色が、どこにもない。


「それに」


 マルクスが顔を上げた。灰色の瞳が、まっすぐにエリカを見る。


「どこにいても、君は君だ。——こうして来てくれるじゃないか」


 エリカは少し間を置いてから、頷いた。それ以上の言葉は、要らなかった。



 食事が落ち着いた頃、エリカは近況を話した。


 先週の防衛魔法陣の結合検証。再構築版スキルが班の標準手順にフォールバックとして正式採用されたこと。そして翌週、実戦で使う機会が訪れたこと——アルカ近郊の低地で霧渡り(ムラジャ)の群れと交戦したこと。


 マルクスは静かに聞いていた。


「霧渡りか」


「はい。全身から霧状の魔力を放つ魔獣です。その霧が持つ霧散クローキングがスキルの照準計算に干渉して——同期のルカーシュの術式が、軒並み精度を失いました」


「君のは」


「事前に解体・再構築しておいた術式を使いました。照準系の処理を再構築の時に把握しておいたので、オン・オフできる形にしていて——干渉下では切り離して、自分の目と体の向き、魔力の手応えだけで照準しました」


「内部の処理を把握して、切れる形に残した、ということか」


「はい。次の交戦までに、霧散の干渉下でも使える照準系のパッチを当てておくつもりです」


 マルクスは湯呑みを持ち、少し間を置いた。


「大手ギルドの中で、古い焦点具でも動く設計を広める。……君にしかできない仕事だ」


 エリカは少し驚いた。マルクスにこういう言い方をされるのは、珍しいことだった。


「ありがとうございます」


「お世辞ではない。事実だ」


 それだけ言うと、マルクスは湯呑みを置いた。話が区切れたのを感じ、エリカは鞄から紙包みを取り出した。


「……これを持ってきました」


 包みを広げると、筒状の甘いパンが出てきた——トゥルデルニークだ。外側に砂糖とシナモンがまぶされている。ギルド街の菓子屋の包み紙だ。


「私の好物なんです。先生がお好きかどうか分からなかったんですが、何か持ってきたくて」


「……そうか」


 マルクスは受け取り、一口齧った。しばらく、何も言わなかった。


「悪くない」


「お気に召しましたか」


「お世辞は言わない主義だ」


「……それは、つまり——」


「悪くないと言った」


 エリカは少し笑った。



 コーヒーを淹れながら、マルクスはエリカに問いかけた。


「これからどうするつもりだ」


「大手ギルドの中から、変えていくつもりです」


 エリカは、カップを両手で包みながら答えた。


「スキルを解体して再構築できる魔法使いを、普通にしたい。軽量で堅実な魔法を——大手の中で、当たり前にしたいんです」


 マルクスはコーヒーを一口含んだ。


「……大きなことを言うようになったな」


「先生に教わったことを、実践しているだけです」


「私は何も教えていない。君が自分でやったことだ」


「先生がいなければ、自分の武器を使うことすら思いつきませんでした」


 マルクスは返事をしなかった。窓の外を向いて、コーヒーを飲み続ける。


「——一つ、やっておけ」


「はい」


「軽量フレームワークを、学園魔導書庫に正式登録しておくといい。あそこは連邦の魔導書庫ネットワークと繋がっている。大手ギルドの外の魔法使いにも、届くようになる」


 エリカは少し間を置いた。


「登録……ですか」


「手続きはこちらで段取りできる。管理の鍵は君が持て。ほかの誰にも渡すな」


「……やります」


 それだけだった。しかし——口元の線が、心なしか、緩んでいるように見えた。



 夕暮れ時、エリカは立ち上がった。


「そろそろ失礼します」


「そうか」


「……先生。また来てもいいですか」


 片付けた皿を持ったまま、マルクスは振り返らずに言った。


「来たければ来い。扉は開けておく」


 エリカは頭を下げた。靴を履き、扉を出ると、夕暮れの光が路地を橙に染めていた。風の中に草の匂いがする。


 エリカはしばらく立ち止まって、空を見上げた。


(次は、照準系のパッチを持ってきます)


 それから、歩き始めた。土の路地を、首都の方向へ。



 夜になってから、マルクスは白狐亭ウ・ビーレー・リシュキへ足を向けた。


 旧市街のギルド街の中ほど、馴染みの看板が夜の灯に照らされている。扉を開けると、麦の香りと料理の匂いが混ざった空気が出迎えた。


「いらっしゃい」


 厨房の奥から、ハナが顔を出した。ヤンの女房で、白狐亭の厨房を仕切る人物だ。丸顔に人の良さそうな表情を持つが、目が鋭い。


 マルクスはいつもの席に腰を下ろした。


「アイル島の琥珀酒を」


「はいよ」


 深い琥珀色の液体が、ずんぐりとしたグラスに注がれた。エンフィリアのアイル島産蒸留酒——マルクスが唯一こだわる酒だ。


 一口含む。煙のような香りと、深い甘みが順番に来た。長い余韻がのどを下りていく。


「あら」


 ハナが、グラスを置きながら言った。


「今日は、いい顔してるじゃないか」


「……そうか」


「若い子が来たんだろう。——ローブに、料理の匂いが染みてるよ」


 そうか、とマルクスは思った。六時間仕込んだ牛と、ブランボラークの匂い。自分では気にしていなかった。


「……たまに来る」


「弟子さんかい」


「……まあ、そういうことになる」


 ハナは「ほう」と言ったきり、それ以上聞かなかった。この女将は、知っていても詮索をしない。それがマルクスにとって、白狐亭が居心地の良い理由の一つだった。


 琥珀酒を傾けながら、マルクスはひとりで考えた。


(あの子なら、大丈夫だ)


 大手ギルドの中で、古い焦点具でも動く設計を広める。大きなことを言う、と思った。しかし——それを言うだけの技術と、折れない芯を、あの子はすでに持っている。


(……いや。大丈夫にさせなきゃならんのは、向こうの環境のほうだが)


 マルクスはもう一口、琥珀酒を飲んだ。


 旧市街の夜が、静かに更けていく。



 同じ頃、アストラル商会の寮室では、エリカが机に向かっていた。


 魔導書を広げ、再構築版の拘束術式を展開している。霧散クローキングの干渉下での照準系——今週の交戦で把握した動きを、次の野外任務までに組み込んでおく。パッチと呼ぶには小さな仕事かもしれない。しかし、次は使えるようにしておく。


 灯りの魔道具の光の中で、エリカは静かに魔法陣を書き続けた。


 離れていても、先生の弟子だから。


(第5節 了)


---


### 解説:低温調理の牛ステーキ(Hovězí steak)


アルカの言葉で「hovězí」は牛の意。連邦でも特別な食卓に登場する牛ステーキだが、マルクスが用いるのは魔法の温度調節器による低温長時間加熱——五十八度で六時間という方法だ。


**調理法:** この温度帯では、タンパク質がゆっくりと凝固し、肉汁を逃さないまま全体に均一に火が通る。最後に高温の鉄板で表面だけを素早く焼き固め、香ばしい焦げ色と旨みの層を作る。余分な味付けは岩塩のみ。


**味わい:** 切り口は薄い桜色。外側の濃い焦げ色と内側の柔らかさが同時に来る。嚙む必要をほとんど感じないのに、肉の旨みはゆっくりと広がる。素材への信頼だけが、調味料だ。


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### 解説:ブランボラーク(Bramborák)


アルカを代表するじゃがいも料理のひとつ。薄く平たく延ばして揚げた、じゃがいものパンケーキだ。地方によっては「クンダ(cmunda)」とも呼ばれる。


**材料:** すりおろしたじゃがいも、卵、小麦粉。ここにキャラウェイシード、マジョラム、ガーリックを加えるのが定番。植物油でカリッと揚げ焼きにする。


**付け合わせ:** ザワークラウト(sauerkraut)を添えることが多い。乳酸発酵させたキャベツの酸味が、じゃがいもの甘みと肉の濃さをすっと整える。


**味わい:** 外側のカリッとした歯応えの奥に、じゃがいもの柔らかい甘みが続く。にんにくの香りが鼻に抜け、キャラウェイがほのかな清涼感を添える。素朴だが完成されている。


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### 解説:トゥルデルニーク(Trdelník)


アルカと獅子鷲の辺境伯領レオニスに伝わる伝統的な焼き菓子。「チムニーケーキ」とも呼ばれる。


**作り方:** 甘い発酵生地を棒状の木型(trdlo)に巻きつけ、炭火の上でゆっくりと回転させながら焼き上げる。外側が均一に焼けたら木型を抜き、砂糖とシナモンをまぶす。焼き抜いた後は筒状になり、外側はカリッと香ばしく、中は空洞だ。


**味わい:** 砂糖とシナモンの甘い香りが先に来て、生地のほんのりとした発酵の旨みが続く。アルカのギルド街の菓子屋では、包み紙に包んで売られる。


**補足:** エリカの好物。手土産として選ぶ時、彼女は迷わない。


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### 解説:アイル島の琥珀酒(蒸留酒)


マルクスが唯一こだわる酒。エンフィリア大陸西端に浮かぶアイル島(Airu)産の蒸留酒だ。


**特徴:** 島固有の泥炭ピートを使って麦芽を乾燥させるため、独特の燻香スモーキーが強い。深い琥珀色を持ち、口に含むと潮の香りと炭の香りが交互に来る。


**飲み方:** ストレートで、ずんぐりとしたグラスに注いで。氷もない、割り物もない。それだけでいい。


**補足:** 食事や日用品には無頓着なマルクスが、この一点だけは妥協しない。白狐亭がこの酒を置いているのが、彼にとってあの店の居心地の良さの理由のひとつでもある。


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