第3節:師匠の元へ——休日の再会
休日の午前。
ストジーブルナー・ルーナの事務所は、いつもより人の気配が薄かった。旧市街の石畳に朝の光が斜めに差し込み、ギルド街の通りはまだ静かだ。
エリカは、見慣れた扉の前で立ち止まった。
学院にいた頃は、何度もくぐった扉だ。悩んだ時、行き詰まった時、ただ話を聞いてほしい時。受付の若手と顔なじみになるくらいには、通い詰めていた。
それが今年の春から、手紙になった。
エリカは小さく息を吸い、扉を開けた。
*
「マルクスさん、お客さんです」
受付の若手が奥に声をかける。以前より少し背が伸びた気がする。エリカは頭を下げた。
「お久しぶりです」
「ああ、ダルジェントさん。どうぞ、上がってください」
奥の執務室へ続く廊下を歩く。板張りの床、古い額縁、壁の棚に詰め込まれた書類。何も変わっていない。変わっていないことが、少し胸に沁みた。
扉をノックした。
「入れ」
低く、落ち着いた声。それも変わっていない。
マルクス・アッシュベルクは、机の前で古い魔導書を開いていた。白髪が増えた気がする。それ以外は——質素なローブも、灰色の瞳も——二年前と同じだった。
「……お久しぶりです、先生」
「来たか」
マルクスは魔導書を閉じ、椅子を引いた。灰色の瞳が、一度エリカをまっすぐに見る。それだけで充分だという顔だった。
「まあ座れ。茶を淹れよう」
責めるでもなく、感傷的になるでもなく。ただ当然のことのように、棚の上のポットに手を伸ばす。
エリカは椅子に座り、部屋を見渡した。机の上に積まれた書類。壁に並んだ古い焦点具と魔導書。遺跡から持ち帰った石板の破片が、標本のように棚に並んでいる。
学院の実習室より狭い。設備も古い。しかし——ここには何かがある。言葉にしにくい何かが。
マルクスが、二つの湯呑みを机に置いた。
薄い香りの茶。マルクスがいつも飲む、癖のない草茶だ。
「……何かあったんだろう。話してみろ」
*
エリカは話した。
入団初日のこと。スキル構成表の版不整合。古い焦点具では規定の出力に届かないこと。最初の実戦任務で後衛に回されたこと。
マルクスは口を挟まなかった。湯呑みを持ち、時折頷くだけだ。エリカが話し終えるまで、何も言わない。
「……以上です」
ひと通り話し終えて、エリカは湯呑みに目を落とした。
「方法は考えました。焦点具を新しくするか、今の焦点具に合わせて魔導書側を調整するか——でも、どちらも今すぐは難しくて」
「焦点具の調整なら、こちらで診てやれる。——ただ、それで問題が解決するか」
マルクスが、静かに聞いた。
「……たぶん、しないと思います。道具を変えても、今の環境に合わせるだけでは、根本は変わらない気がして」
「そうだな」
マルクスは湯呑みを置いた。
「今すぐ買い替えられないなら、その制約の中で戦う方法を考えるしかない。——で、その制約、君はもともと得意だったはずだ」
エリカは顔を上げた。
「古い焦点具でも動く軽量フレームワーク。学院であれを作った時、君は環境を選ばない魔法を目指していたんじゃないのか」
「……はい。でも、あれは学院の課題で——実務とは話が違います」
「課題だろうが実務だろうが、考え方は同じだ」
マルクスの声に、強さが出た。諭すような、しかし揺るがない確かさがある。
「最新の焦点具を前提にした設計は、フィールドで何かが起きた時に脆い。君はそれを知っているはずだ。——自分で設計したんだから」
エリカは黙った。
「今の環境で苦しんでいるのは、君の力が足りないからじゃない。君がすでに持っている武器を、まだ使っていないだけだ」
言葉が、胸の中に落ちた。
(持っている武器を、まだ使っていない)
使えない、のではない。使っていない。——確かに、そうだった。アストラル商会に入ってから、軽量フレームワークを一度も触っていない。スキルの構成表を追うことで精一杯で、自分の手でゼロから組むことを考えていなかった。
「……私、自分のやり方を捨てようとしていたのかもしれません」
「気づいたか」
マルクスは立ち上がった。
「立て。訓練場を借りる」
*
ストジーブルナー・ルーナの訓練場は、事務所の裏手にある。広さは大手ギルドの施設には遠く及ばないが、必要なものは揃っていた。的。測定用の魔力計。照明に使う魔道具。
「学院の修了研究で、スキルの中身を自分で組み直していたな」
マルクスが壁際に腰を下ろした。見るだけだ、という姿勢だ。
「あれをもう一度やってみろ」
「……あの時は、焦点具の性能が足りなくて仕方なく——」
「仕方なく、ではない」
マルクスの声は穏やかだが、切り捨てるような明確さがあった。
「あれは立派な技術だ。胸を張れ」
エリカは焦点具を構えた。古い木の杖。使い込まれた木目に、指が馴染む。
目を閉じた。
スキルではなく——演算領域で、直接、魔法陣を組む。魔力の流れを手で捏ねるような感覚。パッケージ化されたスキルを呼び出すのではなく、自分の手で式を書く。
最初は、ぎこちなかった。学院を出て以来、ずっとスキルに頼っていた。その感覚が、筋肉の記憶のように残っている。
しかし——指が覚えていた。
魔力が、焦点具を通じて滑らかに流れ出す。冗長な部分を省き、必要な構造だけを残した魔法陣が、エリカの演算領域に形を成す。
展開。
魔力計の数値が跳ね上がった。
(——動いた)
「測定値を見てみろ」
マルクスが顎でしゃくった。エリカは測定値を確認した。スキルを使った時より出力は落ちる。しかし——消費したマナは、三分の一だった。
「既製スキルは便利だ。しかし中身を知っていれば、同じことを半分のマナでできる。君はそれを学院で証明した」
「……できました。久しぶりに、ちゃんと動きました」
「まあな。三ヶ月もやっていなければ、最初は誰でも鈍る」
マルクスが立ち上がり、的の前に歩いた。
「もう一度。今度は攻撃系の魔法陣で」
エリカは頷いた。
もう一度、演算領域を開く。今度はより速く、より自然に。学院時代の感覚が、少しずつ戻ってきた。
数回繰り返すうちに、指が迷わなくなった。
壁際のマルクスが、腕を組み直した。測定値から、エリカの手元へ——灰色の瞳がゆっくりと移動した。何も言わない。
*
ひと通りの指導が終わり、二人は訓練場の床に腰を落ち着けた。マルクスが水筒を差し出す。
エリカは受け取り、一口飲んだ。
「先生」
「ん」
「……私、自分のやり方を恥ずかしいと思っていました。皆と違うから」
言葉にしてみると、ずっと胸の底に沈んでいたものが、浮かび上がってくる感じがした。
「アストラル商会に入って、皆がスキルを当然のように使いこなしているのを見て。自分で魔法陣を組むなんて、時代遅れだと思われると思って」
マルクスは少し黙った。
「車輪の再発明と笑われるが」
静かな声で言った。
「自分で作った車輪は、壊れた時に自分で直せる。——君はもう、その車輪を持っている」
エリカは顔を上げた。
「恥ずかしがる必要はない。大手ギルドの中で古い焦点具でも動く魔法を使えるのは、君だけだ。——それは、弱点じゃない」
エリカは何も言わなかった。
言葉が、今度はゆっくりと胸に沁みた。
「……はい」
訓練場の窓から、旧市街の空が見える。雲が少し動いた。
「来週からはどうする」
「……まだ、うまくはいかないと思います。でも、考え方は変わりました」
「考え方が変われば、手が動く」
マルクスが立ち上がった。
「帰りに飯でも食っていけ。まだ昼前だ」
エリカは少し驚いた。それから——小さく笑った。
「はい。いただきます」
その言葉が、思ったより素直に出た。
(第3節 了)




