第1節:旅立ちと入団——二年後の春
協定歴4120年、春。
ストジーブルナー・ルーナの事務所には、朝の光が差し込んでいた。窓の外、旧市街の石畳が見える。三月の陽気は、まだ肌寒い。しかし通りを行き交う人の足取りには、冬の重さがない。
マルクス・アッシュベルクは、机の上の書類を片付けながら、隣の執務室に目をやった。
ヴェルナー・グレイソンが、指を組み椅子の背にもたれている。五十八歳になった今も、鷹のような目は鋭さを失っていない。禿頭に春の光が当たっている。
「もう二年になるな」
ヴェルナーが独り言のように言った。
「ええ」
マルクスは書類を揃え、封筒の束の上に置いた。
「レオニスの文献解読が一段落して、また次の依頼が来て。——気がつけば、二年だ」
「君も忙しくなったものだ。三年前は、閑古鳥が鳴いておったが」
「おかげさまで」
マルクスは静かに答えた。皮肉でも謙遜でもない。ただ事実として、そういうことだった。レオニス遠征で持ち帰った古代文献の解読は業界で注目を集め、それを機に探索案件の依頼が増えた。ベッカー子爵家の件で顔が広まったのも、無関係ではないだろう。変わったことと言えば、それくらいだ。仕事の内容は、相変わらず地味な保守案件と基礎の積み重ねが中心だった。
*
「ダルジェントの娘は、どうしている」
ヴェルナーが、窓の外に目を向けたまま言った。
「ちょうど今日が、初出勤のはずです」
「アストラル商会か」
「ええ」
ヴェルナーの眉が、わずかに動いた。
「大手を選んだわけだ。軽量フレームワークの評判が良かった、というのは分かる。だが——君のところで鍛えれば、もっと面白くなったと思うが」
「あの子の判断です。尊重します」
マルクスは机の引き出しから、一通の封筒を取り出した。先週届いた手紙だ。差出人の名前は、見るまでもなく分かっている。
学院にいた頃のあの子は、週に一度は事務所に顔を出していた。それが今年の春から、手紙が一通届くようになった。
「寂しがっているようには見えんがな」
「……そうですね」
ヴェルナーが、かすかに口角を上げた。
「そうか」
マルクスは手紙を折りたたんだまま、机の上に置いた。
几帳面な字で書かれた、丁寧な文面だった。
*本日付けで、アストラル商会に入団しました。二年間、大変お世話になりました。慣れてきたら、また報告に伺います。困ったことがあれば相談させてください。——先生の教えを、いつも忘れません。*
言い訳も、余計な感傷もない。だが——また来ると、ちゃんと書いてある。
あの子らしい。
マルクスは手紙を封筒に戻し、引き出しの中に収めた。
(最初のうちは苦労するだろう。——困ったら来ればいい。)
*
アルカ新市街。大通りに面した、石造りの堅牢な建物。
エリカ・ダルジェントは、正門の前で立ち止まった。
連邦魔法ギルド「アストラル商会」——首都アルカ最大の魔法ギルドの一つ。正面の石壁には、星と蛇が絡まる紋章が刻まれている。新市街の大手ギルド街の中でも、ひときわ重厚な構えだった。
(大きい)
エリカは思わず上を見上げた。建物の上端が、空に溶け込んでいる。
学院の建物も、決して小さくはなかった。しかしここには、それとは違う種類の重みがある。石の壁から、金と歴史の匂いがした。
「おい、入口に突っ立つな。邪魔だぞ」
後ろから声がかかり、エリカは慌てて脇に退いた。
「失礼しました」
通り過ぎたのは、ローブに識別証を下げた魔法使いたちだ。誰も振り返らない。みな、それぞれの用事で急いでいる。
エリカは自分の識別証を確認した。新入り用の仮識別証。白地に「研修中」の文字。
今日から、ここが自分の職場になる。
一歩、踏み出した。
*
オリエンテーションは、大会議室で行われた。
新入り魔法使いが、十二名。全員が二十代前半か、それより若い。最年少は十八歳だろうか。みな、それなりに整った装備を持っている。魔導書の装丁が新しく、焦点具は磨き上げられている。エリカが一目で分かるくらい、機材の質が高い。
「今年の採用は粒が揃ってるな。いいことだ」
隣の席の青年が、ざっくばらんに声をかけてきた。
二十四、五歳。少し癖のある茶色の髪に、愛嬌のある顔立ち。しかし目には、人を値踏みするような鋭さがある。魔導書は新品に近く、焦点具は最新の銀製だった。
「ルカーシュ・ホラーク。ファウレンヘイム出身。よろしく」
「エリカ・ダルジェントです。よろしくお願いします」
「ダルジェント? ……ああ、軽量フレームワークの子か」
エリカは少し驚いた。
「ご存知なんですか」
「業界で話題になってたろ。学院で古代術式の効率化に成功した女学生がいるって。——採用担当が色めき立ってたよ。俺も気になってたんだ」
ルカーシュはにこやかに話しかけながら、さりげなくエリカの手元に目をやった。
「……その焦点具、ずいぶん年季入ってるな。学院の払い下げ?」
エリカは、手の中の木の杖を握った。
細い木製の焦点具。先端の宝石座の台座には、年月の汚れが滲んでいる。魔力の通り道である木目には使い込んだ艶が出ているが——見た目は確かに古い。新しい銀製の焦点具を持つルカーシュの隣では、余計に古びて見えた。
「実家から送られてきた古い焦点具です。家族のものだったので」
ルカーシュは、その答えで察したらしかった。
「……そっか。——まあ、最初のうちの業務はスキル運用が中心だから、焦点具の性能が問題になるのは実戦任務の時くらいだけど」
言葉を切り、少し間を置いた。
「最初のうちは大変かもしれないけど、お互い頑張ろうな」
悪意はない。むしろ、気を遣ってくれている。
(分かってる)
エリカは小さく頷いた。
分かっている。ここが学院ではないことも。最新の装備が前提になっている環境であることも。
しかし——頭の中に、声が響く。
*古い焦点具でも動く軽量フレームワーク。学院であれを作った時、君は環境を選ばない魔法を目指していたんじゃないのか。*
——先生の声だ。まだここでは、その言葉を実践できるかどうか分からない。だが。
古い焦点具が、手の中にある。
*
昼の鐘が、塔から響いた。
オリエンテーションが終わり、新入りたちは昼休みになった。何人かは連れ立ってギルド内の食堂へ向かうらしい。エリカは一人で外に出た。
ギルド街の大通りは、昼時の賑わいに包まれていた。食べ物の匂いが重なっている——焼いた肉の香ばしさ、スープの湯気、揚げ油の丸い匂い。
路地の入り口に、小さな屋台が出ていた。丸みのある揚げパンが木の板の上に並んでいる。傍の看板に「ブドルキ——ジャム・スメタナ・チーズ」と書いてある。
「チーズを一つ」
銅貨を一枚渡した。揚げたてのブドルキが紙に包まれ、手の中に収まる。温かい。
石畳の端に立ったまま、一口かじった。外側はほんのり固く、中はふわりと柔らかい。チーズの塩気が、揚げパンの素朴な甘みにちょうどよく乗っている。
通りを行き交う人の波を、ぼんやりと眺めた。魔法使い、商人、荷車を引く男、配達の少年。みな、それぞれの用事で急いでいる。
(大きい)
学院のある旧市街も、それなりに賑やかだった。しかしここは規模が違う。建物は高く、看板は多く、石畳の一枚一枚にまで金と歴史が染みついているような気がした。
ブドルキをもう一口。温かさが、少しだけ落ち着きを返してくれた。
*
オリエンテーションを終えた新入りたちを、直属の班長が出迎えた。
トマーシュ・ハーヴェル、三十歳。中背でがっしりとした体格。胸元の識別証に「第二技術班・班長」の文字がある。目元に疲れの色があるが、声は穏やかだった。
「今年うちに来たのは、エリカ・ダルジェントとルカーシュ・ホラークの二名だ。よろしく頼む」
二人に、それぞれ書類が渡された。業務内容、配属先、最初の一ヶ月の研修スケジュール。
「明日から実務研修が始まる。スキル運用の習熟と、チームへの組み込みが最初の課題だ。——分からないことがあれば、いつでも聞いてくれ」
その口調は、本心からのものだろう。誠実な上司、という印象だった。
「トマーシュさん」
ルカーシュがさっそく声をかけた。
「研修で使う練習用の魔物素材、ランクはどのくらいですか? 自分の焦点具の出力調整を先にしておきたくて」
「基礎ランクから始まる。ただ、今月中に中難度まで引き上げる予定だ」
「了解です。ありがとうございます」
エリカは書類に目を落とした。研修スケジュールの項目を、一つずつ確認する。
スキル運用基礎。スキル連携確認。防衛魔法陣の結合検証。実戦形式の模擬訓練。
全て、スキルを前提にした内容だった。
(スキル主体、か)
マルクスの声が、また頭の中で鳴る。
*既製スキルは便利だが、中身を知っていれば、同じことを半分のマナでできる。——君はそれを学院で証明した。*
ここで、その言葉を実践できる機会があるかどうかは、まだ分からない。
だが。
エリカは書類をたたみ、鞄に収めた。古い木の焦点具を、もう一度握る。
先生の教えが、頭の中にある。
それで充分だ。
(第1節 了)
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### 解説:ブドルキ(Vdolky)
ブドルキ(Vdolky)は、チェコやスロバキアに古くから伝わる揚げパンの一種。
**材料:** 小麦粉、酵母、牛乳、卵。生地を発酵させてから油で揚げる。手のひらに収まるほどの丸い形が特徴で、屋台では木の板の上に積み上げて並べられる。
**トッピング:** スメタナ(発酵クリーム)にジャム、またはチーズや脂身(škvarky)を乗せる。甘くも塩気にも対応できる万能さが、屋台や市場の定番食として長く親しまれてきた理由でもある。
**味わい:** 外側はほんのり固く、中はふわりと柔らかい。揚げたての温かさと素朴な甘みが、一口で気持ちを落ち着かせてくれる。特別なものではないが、だからこそ記憶に残る味だ。




