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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第3章:「前任者の置き土産」

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第6節:発掘と帰還

 儀式場の奥壁。


 マルクスは壁面の前に立ち、目を細めた。


 壁面いっぱいに、大規模な魔法陣が刻まれている。中央の円を、同心円状に小さな魔法陣が取り囲む構成。古代文字の注釈が各部に添えられていた。


「……いい資料だ」


 第二層で回収した初期文献と同じ時代のものだろう。だが、規模が違う。あちらが個別の術式だとすれば、こちらは体系的な設計図だった。魔法陣の構造図に加え、なぜこの線がこの角度で引かれているのか——設計の意図までが注釈で残されている。


 棚に並んだ石板を、一枚ずつ確認していく。術式の理論文書。焦点具の設計図面。保存状態は良好だった。乾燥した山岳地帯の気候と、儀式場の封印が、二千年の歳月から文献を守っていた。


 カレルが壁面を見上げた。


「黄金の盾は、ここまで辿り着けなかったわけだ」


「パッチを重ねた末に破綻して、撤退した。——急がば回れ、だな」



 発掘作業は、慎重に進められた。


 マルクスが石板と文献の優先度を判断し、カレルが梱包と搬出を担当する。ヤロスラフが棚の奥や壁面の隠し収納を探り、ミラダが古語の注釈を読み解いて内容の概要を伝える。


 四人の役割分担は、いつの間にか滑らかに噛み合っていた。


 壁面の魔法陣はそのまま残すしかない。石壁ごと持ち出すわけにはいかない。マルクスは魔導書に、壁面の全容を精密に書き写した。線の太さ、角度、文字の配置。一つの漏れもないように。


「これだけで一冊の論文になる」


 ミラダが横から覗き込んだ。


「写すだけで、半日はかかりそうですね」


「急ぐ必要はない。遺跡は安定している」


 マルクスはペンを止めずに答えた。


「この壁面が風化する前に、記録を残す。——それが、発掘者の仕事だ」


 石板の文献は、布に包んで木箱に収めた。焦点具は一つずつ革袋に入れ、緩衝材を詰める。カレルが木箱を肩に担ぎ、ヤロスラフが革袋を背負った。


 書き写しが終わる頃には、午後も遅くなっていた。


「……よし。撤収しよう」


 マルクスは魔導書を閉じ、儀式場を見渡した。壁面の魔法陣が、穏やかな定常光で四人を照らしている。


「また来る必要があるかもしれない。壁面の精密な拓本と、残りの文献の回収。——二度目の入札をヴェルナーに掛け合ってみよう」


 カレルが頷いた。


「次は、もう少し楽に入れますね」


「ああ。正規の手順は記録した。認証フレーズさえ唱えれば、ゴーレムも眠ったままだ」


 四人は儀式場を後にした。第三層から第二層、第一層へ。修復された魔法陣が、行く手を青白い光で照らしている。来たときとは、まるで別の遺跡のようだった。



 遺跡の入口を出ると、山の空気が頬を打った。


 夕暮れが近かった。西の山嶺に陽が傾き、斜面の岩肌を赤く染めている。遺跡に入ったのは朝だったから、丸一日を地下で過ごしたことになる。


「……いい風だ」


 カレルが目を細めた。遺跡の中では感じなかった、山の匂い。草と土と、遠くの雪解け水の匂いが混じっている。


 山道を下る。木箱と革袋を分担して背負い、獣道のような細い道を一列で歩く。足元の石がゴロゴロと転がり、時折、谷間から冷たい風が吹き上げてくる。


 レオニスの山岳地帯。アルカの石畳の街路とは何もかもが違う。空が広い。視界を遮るものが、何もない。


 下るにつれて、牧草地が見え始めた。斜面に点々と散らばる羊の群れ。遠くで牧羊犬が吠えている。石積みの牧舎が、夕陽を受けて長い影を落としていた。


「マルクスさん」


 ヤロスラフが、木箱を背負い直しながら声をかけた。


「ん」


「俺、遺跡探索って、もっと派手なもんだと思ってました。魔物を倒して、宝を掘り出して、英雄みたいに凱旋する——みたいな」


「そういう案件もある」


「今回のは、全然違いましたね。掃除して、修理して、書き写して……」


「そういう案件の方が多い」


 ヤロスラフが苦笑した。


「でも——」


 少し考えてから、言った。


「あのゴーレムが自分で壁に戻っていったの、あれは——なんか、良かったです」


 マルクスは前を向いたまま、小さく頷いた。



 麓の宿場町に着いたのは、日没の少し前だった。


 石造りの集落が、山の斜面にしがみつくように建っている。通りは狭く、石畳ではなく踏み固められた土。羊が道を横切り、子供たちが走り回っている。鍛冶屋の金槌の音。どこかの家から漂う、煮込み料理の匂い。


 アルカの洗練された街並みとは似ても似つかない。だが、ここにはここの生活がある。


 宿場町の食堂は、広間に長テーブルが並ぶ素朴な造りだった。地元の羊飼いや職人たちが、夕食を囲んでいる。天井の低い石造りの部屋に、炉の火と蝋燭の灯りが揺れていた。


「あら、カレル! 戻ったのかい」


 食堂の女将が声をかけた。恰幅のいい中年の獣人で、カレルとは顔見知りらしい。


「遺跡はどうだった」


「片付けてきました。——今夜は打ち上げです。盛大に頼みます」


「はいはい、任せときな」


 四人はテーブルについた。まず、水を飲む。一日中地下にいた身体に、冷たい山の水が沁みた。



 最初に出てきたのは、**ブリンゾヴェー・ハルシュキ**だった。


 大皿に盛られた、小さなダンプリング。その上に、白いブリンザチーズがたっぷりと溶けている。カリカリに焼いたベーコンが散らしてあり、脂の香ばしい匂いが湯気とともに立ち上った。


「——来た」


 カレルが、目を輝かせた。普段の落ち着いた隊長の顔が崩れている。


「レオニスの国民食だ。ファウレンヘイムにも似た料理はあるが、ブリンザはレオニスのが一番うまい」


 マルクスはフォークでダンプリングを刺し、チーズをたっぷり絡めて口に運んだ。


 もちもちとした食感の中に、羊の乳の濃厚なコクが広がる。塩気が強い。だが、それがいい。一日の消耗を、身体が求めている味だった。ベーコンの脂が舌の上で溶け、チーズの塩味と混じり合う。素朴だが、力のある味。


「……うまいな」


「でしょう」


 カレルは皿を引き寄せ、獣人の大きな手でフォークを動かしている。食べる速さが、普段の二倍はあった。


 続いて、**ブラフチョヴェー・レゼーニュ**。羊のパプリカ煮込み。


 深い赤色の煮汁に、柔らかく煮崩れた羊肉が沈んでいる。パプリカの甘い辛味が鼻腔をくすぐり、口に含むと、羊肉の旨味がじんわりと舌に広がった。臭みがない。山で育った羊は、草の香りが肉に染みている。


 ミラダは山の薬草を使ったサラダを追加した。


「レオニスの薬草は、銀森のものとは種類が違うのね。面白い」


 葉の一枚を摘まみ上げ、光に翳して観察している。僧侶の職業意識は、食卓でも健在だった。


「さあ、乾杯だ」


 女将が、小さなグラスを四つ並べた。透明な液体が注がれる。


 **スリヴォヴィツァ**。プラム蒸留酒。


「レオニスのスリヴォヴィツァは、アルカのスリヴォヴィツェとはちょっと違うぞ。覚悟しとけ」


 カレルがにやりと笑った。


 四人でグラスを掲げ、打ち合わせた。


 一口、含む。


 喉を焼く、強烈な一杯だった。アルカのスリヴォヴィツェが琥珀色の滑らかな口当たりなのに対し、レオニスのそれは無色透明で、荒々しい。プラムの香りの奥に、山の気候が育てた野性味がある。度数も高い。


「……きつい酒だな」


 マルクスが目を瞬かせた。


「これがレオニスだ」


 カレルが杯を干し、もう一杯注いでいる。



 酒が回り、空気が緩んだ。


 食堂の喧騒が心地よい。隣のテーブルでは羊飼いの老人が声高に笑い、奥では女将が鍋を振るっている。壁に掛けられた鹿の角と、煤けた石壁。蝋燭の灯りが、四人の顔を暖かく照らしていた。


「マルクスさん」


 ヤロスラフがグラスを置いた。頬が赤い。酒に強い方ではないらしい。


「今日のことで、一つ学びました」


「何を」


「**わからないものを、わからないまま弄るな**」


 マルクスはグラスを傾けたまま、ヤロスラフを見た。


「……ですよね」


「いい教訓だ」


 マルクスは頷いた。


「黄金の盾は、それを知らなかった。仕様書を読まずにパッチを重ねた結果、第一層から全部やり直しになった」


 カレルがダンプリングを頬張りながら言った。


「大手ギルドでも、基礎ができてないやつはいるってことだな」


「ランクと実力は、必ずしも一致しない」


 マルクスはスリヴォヴィツァを一口含んだ。二杯目は、少し慣れた。荒々しさの奥に、山の果実の甘みが感じられる。


「**特に、レガシー案件ではな**」


 ヤロスラフが、何かを噛み締めるように頷いた。マルクスの仕事を丸一日見て、この若者なりに考えたことがあるのだろう。それが何であるかを、今ここで問い詰める必要はなかった。


 窓の外では、山の夜が深まっていた。アルカの街灯はない。だがその代わりに、窓の向こうに満天の星空が広がっている。山の稜線の上に、天の川が白い帯を描いていた。


 マルクスはグラスを置き、窓の外に目を遣った。


 四十六年、生きてきた。就職氷河期を潜り抜け、小さなギルドを転々とし、数え切れない現場を渡り歩いた。華やかな功績はない。名前が知られることもない。地味な保守案件と、後始末と、基礎の積み重ね。


 だが——今日の仕事は、悪くなかった。



 アルカに戻ったのは、三日後のことだった。


 レオニスの山道を下り、街道を西へ。馬車に揺られて三日。平野部に差し掛かると、アルカの街並みが見えてくる。アルカ川に架かる聖者の橋。その向こうに、城塞区の尖塔が夕陽を受けて輝いていた。


 カレルたちと旧市街で別れ、マルクスはギルドに向かった。


 ストジーブルナー・ルーナ。旧市街のギルド街に事務所を構える中堅冒険者ギルド。華やかさはないが、堅実な仕事で知られている。


 ギルドマスター、ヴェルナー・グレイソンの執務室。


「——というわけです」


 マルクスは報告を終え、魔導書を閉じた。石板の文献と焦点具は、すでに鑑定室に運んである。


 ヴェルナーが椅子の背にもたれた。五十六歳。禿げ上がった頭と、鋭い目。口数は少ないが、判断は的確な男だった。


「黄金の盾の件は行政局に報告した。探索権の放棄後に遺跡を放置した責任を問われるだろう」


「悪意があったわけじゃありません。ただ——**後始末をしなかった**。それが一番厄介なんです」


「……耳が痛いな。うちも気をつけよう」


 ヴェルナーは机の上の報告書に目を落とした。マルクスが道中で書き上げた、遺跡の詳細な調査報告。


「発掘した文献の解析に、時間がかかりそうですが——面白いものが出てきそうです」


「概要は読んだ。価値のある資料だな」


「壁面の全容も書き写してあります。まずは解読に専念させてください」


「好きにやれ。——レオニスの案件を引き受けたことで、うちの名前が連邦の地方にも届くかもしれん」


「ええ」


 マルクスは立ち上がった。


「……悪くない仕事でしたよ」


 ヴェルナーが、珍しく口元を緩めた。


「カレルが通信石で言っていた。『マルクスさんがいなかったら、遺跡ごと埋まっていた』と」


「大袈裟ですよ。——俺一人では、ゴーレムに叩き潰されていた」


「だから、チームの仕事なんだろう」


 マルクスは扉に手をかけた。


「そういうことです」



 ギルドを出ると、旧市街の夕暮れだった。


 石畳の通りに、馴染みの酒場や工房が並んでいる。レオニスの山道とは違う、古い街並みの匂い。焼きたてのパンと、煮込み料理と、石壁に染みついた歳月の匂い。


 足が自然と、白狐亭に向かっていた。


 カウンターに座り、いつもの琥珀酒を注文する。ヤンの女房が黙って杯を差し出した。


 一口、含む。


 レオニスのスリヴォヴィツァとは違う、滑らかな口当たり。琥珀色の液体が喉を温め、腹の底に落ちていく。


 マルクスは杯を置き、カウンターに肘をついた。


 魔導書の中に、あの壁面の記録がある。これから何ヶ月もかけて解読することになるだろう。


 急ぐ必要はない。


 仕様書を読み、手順を踏み、一つずつ紐解いていく。——いつもの仕事だ。


(第6節 了)


---


### 解説:ブリンゾヴェー・ハルシュキ(Bryndzové Halušky)


レオニスの国民食と呼ばれる一皿。小さな馬鈴薯の団子ハルシュキを茹で、たっぷりのブリンザチーズを絡め、カリカリに焼いたベーコンを散らして仕上げる。


**作り方:** ハルシュキは馬鈴薯を擂り下ろして小麦粉と混ぜ、湯に落として茹でる。大きさは不揃いでいい——それがこの料理の流儀だ。熱いうちにブリンザを絡めると、チーズが溶けて全体をコーティングする。


**味わい:** もちもちとした団子の食感に、羊乳チーズの濃厚な塩気とコクが絡む。ベーコンの脂が香ばしく、全体の味を引き締める。素朴だが力がある。山仕事を終えた後、あるいは長い一日の締めに食べる料理だ。


**文化的位置づけ:** レオニスの者はこれを食べると「帰ってきた」と感じる。どんな山奥の宿でも出てくる。カレルが遠征先で目を輝かせた理由は、これに尽きる。


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### 解説:ブラフチョヴェー・レゼーニュ(Bravčové Rezne)


レオニスの山岳地帯に広まる、羊肉のパプリカ煮込み。深みのある赤いスープに、骨つきの羊肉がじっくり煮込まれている。パプリカの甘い辛味が主役で、山羊の乳で仕上げることもある。


**味わい:** 山で育った羊は草の香りが肉に染みており、臭みがない。煮込むほどに肉は柔らかく崩れ、パプリカの旨味を吸い込む。ブリンゾヴェー・ハルシュキとセットで出てくることが多く、チーズの塩気とスープの甘い辛味が交互に来る食卓は、レオニスの夕食の定型だ。


**宿場の料理として:** 遠征から戻った夜、あるいは峠越えの前夜に出てくる。量が多く、翌日のための腹ごしらえになる。山の宿ではこの二品が揃えば「今夜はいい宿だ」とされる。

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