第5節:正常終了(シャットダウン)
第三層への階段。
先ほどとは、様子が変わっていた。
壁面の明滅は残っている。だが、間隔が広がっていた。認知妨害の波が押し寄せ——引く。また押し寄せ——引く。あの痙攣じみた頻度ではなくなっている。
「……波の間が、さっきより長くなっている」
カレルが呟いた。
「ああ。第一層と第二層の基幹系が安定した分、第三層の術式にも余裕が出ている」
マルクスは魔導書を開き、壁画から書き写した認証フレーズを確認した。第三層への正規の通行手順。
「試す」
古代語で、認証フレーズを唱えた。
壁面の魔法陣が、一瞬——だが確かに、応答した。明滅が止まり、階段の空気がすっと澄む。数秒で、元に戻った。
「……通った」
マルクスの声に手応えがあった。
「完全ではないが、正規の認証が通る。基幹系が生きている証拠だ」
「じゃあ、降りられるんですね」
「波の合間を縫えば、降りられる。——次の波が引いた瞬間に、一気に行く。走れ」
四人は階段の上端で息を潜めた。
明滅の間隔を数える。マルクスの右手が上がり——
「——今だ」
カレルが先頭で駆け下りた。ヤロスラフ、マルクス、ミラダが続く。石段を一気に駆け抜ける。壁面の魔法陣が揺らめく。だが、認知妨害の波は来ない。認証フレーズが、僅かな猶予を与えてくれていた。
足が平らな石床に着いた。
振り返ると、階段の上端が揺らいで見える。背後から認知妨害の波が押し寄せてくる——だが、もう降りきっていた。
「間に合った」
カレルが息を吐く。
*
第三層は、広い儀式場だった。
天井が高い。四方の壁面に、大規模な魔法陣が刻まれている。部屋の中央に円形の祭壇。その周囲を囲むように、壁面に六つの壁龕が穿たれていた。
壁龕の中に——石像がある。
ヤロスラフが足を止めた。
「……何ですか、あれ」
人型だが、人ではない。二メートルを超える背丈。石の装甲に覆われた重厚な胴体。太い腕を胸の前で交差し、直立している。顔はない——頭部は滑らかな石の球体で、正面に魔法陣が一つだけ刻まれていた。
「**警備ゴーレム**だ。古代の**自動防衛機構**」
マルクスが低い声で言った。六体のゴーレムは、壁龕の中で沈黙している。頭部の魔法陣に光はない。
「動きませんよね」
「パッチの干渉で制御信号が滅茶苦茶になっている。命令が通らないから黙っているだけだ。死んでいるんじゃない」
マルクスは儀式場の奥に視線を移した。正面の壁面に、ひときわ大きな魔法陣が刻まれている。
「あれが本丸だ。防衛機構の中枢」
中枢魔法陣に近づき、仕様書の記録と照合する。第一層や第二層で見たものとは比較にならない密度のパッチが、蜘蛛の巣のように魔法陣を覆い尽くしていた。
「第三層のパッチは数が多い。しかも第一層と第二層のパッチを除去した影響で、信号の流れが変わっている。新たな干渉が起きていても不思議はない」
魔導書の構造図と照合しながら、パッチの接続を読み解いていく。
「だが、基幹系は生きている。さっき認証が通った以上、正規の手順でいける」
マルクスはワンドを構えた。
「始める。——少し、時間がかかる」
壁面にワンドの先端を当て、最初のパッチに触れた——
その瞬間だった。
背後で、重い石が擦れる音がした。
*
振り返ると、壁龕の一つが空になっていた。
石造りの巨躯が、薄闇の中に立っている。頭部の魔法陣が、鈍い赤色に灯っていた。
「——動いた!」
ヤロスラフが叫んだ。
マルクスの手が、壁面で止まった。パッチの接続点を一つ触ったところだった。
(——パッチを弄った振動が、制御系に伝わったか)
沈黙していたゴーレムに、命令信号が届き始めたのだ。だが認証系はパッチに汚染されたまま。正規の認証フレーズを唱えた者も、侵入者と判定する。
「——**パッチの副作用**だ」
声は冷静だった。
「認証系が壊れている。敵味方の区別がついていない」
ゴーレムが一歩を踏み出した。石の足が床を踏むたびに、低い振動が伝わる。
「直しに来たのに攻撃されるんですか!」
ヤロスラフが短剣を構えた。
「**仕様を壊した人間に言ってくれ**」
マルクスはワンドを壁面に戻した。
「——シャットダウンを急ぐ。時間を稼いでくれ」
二つ目の壁龕が、軋み始めた。
*
「カレル!」
「分かっている!」
カレルが前に出た。大剣を構え、ゴーレムの正面に立つ。
ゴーレムが腕を振り上げた。石の拳が、重力に乗って叩きつけられる。カレルは半身で躱し、剣の腹で軌道を逸らした。衝撃が腕を痺れさせる。
石造りの質量だ。人間の戦士なら、受け止めることすら不可能だっただろう。だがカレルは獣人だった。熊型の膂力が、ゴーレムの一撃を正面から受け流す。
「重い——が、遅い!」
踏み込み、ゴーレムの胴体に肩を当てた。巨体が半歩、後退する。
「マルクスさん! シャットダウン、どのくらいかかる!」
「認証と段階委譲で——**最低でも四半刻**」
「四半刻か。——ヤロスラフ、二体目! こっちに来させるな!」
「了解!」
ヤロスラフが低い姿勢で走った。二体目のゴーレムが壁龕から身を起こすのを見計らい、足元に潜り込む。関節部に短剣を叩き込んだ。刃は石に弾かれた——が、動きが一瞬、乱れる。
「装甲が硬い! 傷ひとつつかない!」
「構わない。倒す必要はない。動きを止めるだけでいい!」
カレルが怒鳴り返した。
「ミラダ!」
「ええ」
ミラダの掌から、防御結界の光が広がった。マルクスの背後を覆う半透明の障壁。
「マルクスさん、集中してください。後ろは任せて」
結界を維持しながら、空いた左手から治癒の光をカレルに飛ばす。ゴーレムの拳が掠めた右腕の擦過傷に、光が吸い込まれた。
戦士が前衛で時間を稼ぐ。盗賊が側面から敵の動きを乱す。僧侶が術師の作業空間を守り、仲間を癒す。
魔法使いは——仕事をする。
*
背後の戦闘音を、意識の端に追いやる。
マルクスは中枢魔法陣に向き合っていた。
(——**正常終了**。いきなり電源を切るんじゃない。正規の手順で、段階を踏んで終了させる)
仕様書には三段階の手順が記されていた。
第一段階——**認証**。
古代語で、管理者認証のフレーズを唱えた。壁画から写し取った古代の言葉。ミラダが読み解いたシェリフィエルの注釈を組み込んだ、完全な形。
中枢魔法陣が——応えた。
パッチの残骸に覆い隠されていた古代の設計が、その奥底で息を吹き返す。管理者権限の認証信号が通った。青白い光が、壁面の線を辿るように広がっていく。
「第一段階、通過」
第二段階——**段階的な権限委譲**。
防衛機構の各系統に、順番に休止命令を送る。一気にではなく、段階的に。仕様書の注意書きが脳裏をよぎった——『急ぎて閉ざすなかれ。術式は眠りにつくまでに猶予を要す』。
ワンドの先端で、中枢魔法陣の制御経路に一つずつ触れていく。
認知妨害系——休止。
背後の階段で、明滅が止まった。
トラップ系——休止。
ゴーレム制御系——
パッチの残骸が信号を遮った。
「——通らない」
権限委譲の命令が、パッチに阻まれて先に進まない。制御系統にパッチが食い込んでいて、正規の信号を遮断している。
背後で、三体目のゴーレムが壁龕から身を起こす気配がした。石が擦れる重い音。
「マルクスさん!」
カレルの声が飛ぶ。余裕がなくなってきている。
「——分かっている」
パッチを除去しながら、命令を通す。第一層でやったことと同じだ。パッチの接続点を一つずつ解いて、正規の制御経路を復元する。
だが、第三層のパッチは密度が違った。一つ解くと、別のパッチが反応する。除去と命令を同時に進めなければならない。右手でパッチを解き、左手で魔導書を支えながら、口では古代語の命令文を唱え続ける。
額の汗が、顎を伝った。
一つ。
二つ。
三つ目のパッチを解いた瞬間——ゴーレムの動きが変わった。
「——遅くなった!」
カレルが叫んだ。ゴーレムの拳の速度が、目に見えて落ちている。
「権限が削がれている。——もう少しだ」
四つ目。五つ目。
手が震えていた。パッチの除去と終了シーケンスの同時進行は、精神力を著しく消費する。真理視とは違う種類の疲労が、指先から背骨に沿って這い上がってくる。
「マルクスさん、無理は——」
ミラダの声が、結界の向こうから届いた。
「……あと、少しだ」
六つ目——最後のパッチに、ワンドの先端が触れた。
*
第三段階——**休眠モードへの移行**。
最後のパッチを解き終え、制御経路が完全に復元された瞬間、中枢魔法陣の全体が——脈打った。古代の設計が、パッチの残骸から解放されて、本来の姿を取り戻す。
マルクスは古代語で、最後の命令を唱えた。
短い一文。管理者として、安全な休眠を命ずる。
中枢魔法陣が、深い青色の光を放った。壁面の古代文字が、一斉に輝く。
そして——静かに、消えていった。
消えたのではない。眠ったのだ。魔法陣の線が、穏やかな残光を帯びて石面に沈んでいく。灯りが消えるのではなく、蝋燭が燃え尽きて溶けていくような、自然な終わり方だった。
ゴーレムが、動きを止めた。
振り上げた拳が、宙で止まる。カレルが身構えたまま動かない。ヤロスラフも、短剣を握ったまま息を呑んでいる。
ゴーレムの頭部の魔法陣が——赤から、青に変わった。
そして、ゆっくりと、向きを変えた。
壁龕に向かって歩き出す。一歩ごとに床を踏む重い足音が、遠ざかっていく。
三体のゴーレムが、それぞれの壁龕に戻った。石の腕を胸の前で交差し、頭部の魔法陣が穏やかな青に落ち着く。——眠りにつく前の姿勢。入ってきたときに見た、あの石像の佇まいだった。
震動が、止まった。
魔法陣の明滅が消え、壁面が柔らかい定常光に包まれる。
静寂が——降りてきた。
*
マルクスは、その場に膝をついた。
ワンドを持つ右手が、まだ震えている。額の汗が石の床に落ちた。
「——終わった」
ミラダが結界を解き、傍に膝をついた。治癒の光が掌から静かに広がる。消耗した身体に、温かい力が染み込んでくる。
「ありがとう」
「……無茶をするんですから」
穏やかな声に、僅かな叱責が混じっていた。
カレルが大剣を鞘に収めた。腕に幾筋かの擦り傷。だが、重傷はない。
「……四半刻、持ちましたよ」
「助かった」
「おあいこです。マルクスさんがいなかったら、あのゴーレムを相手にしながら遺跡ごと埋まっていた」
ヤロスラフが、壁龕に戻ったゴーレムを見上げていた。
「……自分で戻っていきましたね」
「ああ」
「壊さなくても、良かったんですね」
マルクスは立ち上がった。ミラダの治癒で、足元はもう安定している。
「**正しい手順で終了すれば、壊す必要はない**。——それが**正常終了**だ」
ヤロスラフがゴーレムの方を見たまま、静かに頷いた。
*
儀式場は、穏やかな光に満ちていた。
壁面の魔法陣が、定常光を放っている。第一層から第三層まで、すべての基幹術式が本来の姿を取り戻していた。空気が澄んでいる。さっきまで漂っていた不安定なマナの揺らぎは、もうどこにもない。
カレルが壁面を見回した。
「……結局、第一層から全部やり直したな」
「ああ」
「黄金の盾が三ヶ月かけてぐちゃぐちゃにしたものを、一日で」
「直したんじゃない。**元に戻した**だけだ。——壊す方が、ずっと簡単なんだよ」
マルクスは壁に背を預けた。
「**近道をしようとして遠回りになる**。黄金の盾がいい例だ。仕様を読まずにパッチを重ねた結果、手に負えなくなって撤退。俺たちに後始末を押し付けた」
ミラダが壁面の古代文字に目を遣った。
「最新のスキルより、**古い仕様書を読む力**のほうが役に立つこともあるのね」
「……まあ、そういうことだ」
マルクスは魔導書を閉じた。
「さて——本来の仕事をしよう」
視線の先に、儀式場の奥が広がっていた。壁面には、見たことのない規模の古代魔法陣が刻まれている。棚には石板と古い焦点具が並び、発掘すべき文献と遺物が、長い眠りから覚めるのを待っていた。
マルクスの灰色の瞳が——静かに、輝いた。
(第5節 了)




