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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第2章:「ギルドの日常」——脅迫者の罠

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第7節:解決——暴走を止める

 ギルドの事務室に戻ったのは、夜半を回った頃だった。


 灯りをつけ、椅子に腰を下ろす。女は赤い薔薇亭にいる。明朝、衛兵ストラジュニクと共に踏み込み、女と腕輪を押さえる——段取りを頭の中で組み立てていたとき。


 表の戸を激しく叩く音がした。


 扉を開けると、ディートリヒが蒼白な顔で立っていた。息が上がっている。城下街から橋を渡って走ってきたのだろう。


「マルクスさん——カール様が姿を消しました」


 マルクスの目が細くなった。


「いつからだ」


「夕食の時は部屋にいらしたのですが——夜半前に様子を見に行ったら、もぬけの殻で。ご友人のエーリヒ殿に聞いたところ——覆面を用意していた、女の居所を調べていた、と」


(馬鹿が……)


 カールは待ちきれなかったのだ。偽の記憶に苛まれ続けた若者は、自分で決着をつけようとした。犯人がすでに押さえられたことも、自分が無実であることも、知らないまま。


「ディートリヒ。ここで待っていろ」


「え——」


「女の店は分かっている。——赤い薔薇亭だ」


 カールも調べがつけば同じ場所に辿り着く。あの若者の頭の中には、まだ偽の記憶がある。「自分が女を犯した」という、書き込まれた嘘だ。その記憶に駆り立てられて、証拠を消しに行く。覆面をして、短剣を持って。


 やってもいないことの証拠を消す。偽データが生んだ、歪んだ論理だ。——だが本人にとっては、それが全てなのだ。


 マルクスは足に**加速ヘイスト**を重ねがけし、路地へ駆け出した。



 歓楽街の裏通りを走り抜け、赤い薔薇亭の裏手に回った。


(間に合えよ……)


 ——いた。


 店の裏手の暗がりに、覆面をした若い男が身を潜めていた。右手に短剣。壁に背をつけ、裏口から誰かが出てくるのを待ち構えている。


「待て、カール」


 低く、よく通る声が路地に響いた。


 覆面の男が——凍りついた。ゆっくりと振り返る。


「マルクス……さん……? なぜ、ここに」


「お前が馬鹿なことをしそうだったからだ」


 マルクスは暗がりに歩み寄った。一歩ずつ、静かに。


「その短剣を下ろせ」


「……できません。俺は——俺がやったことの——」


 カールの声が震えていた。覆面の下の目は、追い詰められた獣のそれだった。偽の記憶が、この若者をここまで駆り立てた。


「お前はやっていない」


「何を——」


「**お前は何もしていない**」


 マルクスはカールの正面に立った。短剣を持つ手首をそっと押さえ、力を込めずに下ろさせた。抵抗はなかった。身体中から力が抜けたのだ。


「……証拠を見せてやる」


 マルクスはカールの覆面を剥ぎ、額に右手を当てた。


 **魔力回路の解析フォレンジック・スキャン**。


 古代魔法陣の解析で培った技術——微細な魔力の流れの異常を読み取る、その応用だ。カールの記憶領域に意識を沈めていく。


 ——あった。


 明確な**不連続性ノイズ**。自然な記憶の流れの中に、異質な層が一つ。外部から挿入された術式の痕跡が、くっきりと残っている。


「ここだ。……お前の記憶の、あの夜の部分に——外部から書き込まれた痕跡がある」


「書き込まれた……?」


「酒場での記憶の途中、約二時間分が**上書き**されている。元の記憶は、薬で意識を失っていた空白のはずだ」


「つまり、あの記憶は……」


「**偽物だ**。お前は薬で抵抗力を奪われ、眠っている間に魔道具で偽の記憶を植え付けられた。お前は女に指一本触れていない」


 数秒の沈黙。


 カールの膝から力が抜けた。裏口の壁にもたれるように崩れ落ちる。短剣が手から落ち、石畳の上で金属音を立てた。


「俺は……何も……してなかったのか……」


 掠れた声だった。安堵と困惑と、これまで自分を追い詰めてきたものの正体を知った衝撃が、ない交ぜになっている。


 マルクスはカールの肩に手を置いた。


「お前に一つ、手伝ってもらう」


 カールが顔を上げた。


「あの女を裏口から呼び出せ。——金を払いに来た、とでも言えばいい」


 カールは一瞬戸惑ったが、マルクスの目を見て頷いた。涙の跡を袖で拭い、立ち上がる。裏口の戸を叩いた。


「……ミレナ。俺だ、カールだ。——金を持ってきた」


 しばらくの沈黙。やがて、戸の向こうで足音がした。鍵が外れ、戸が細く開く。黒髪の若い女が顔を覗かせた。


「こんな時間に——」


 カールの背後に立つマルクスの姿を見る間もなかった。


 **麻痺スタン**。


 指先から青白い光が走り、女の身体が痙攣して崩れ落ちた。左の手首に、銀の腕輪が嵌まっている。


 マルクスは女の手首から腕輪を外した。手のひらに収まる、一見何の変哲もない銀の輪。——これがカールの人生を壊しかけた元凶だ。


 通信石に魔力を込めた。


「ヤン。赤い薔薇亭で女を押さえた。衛兵ストラジュニクを回してくれ」


『……お前、寝る気がないのか。分かった』


 程なくして衛兵が到着し、ミレナの身柄を引き渡した。腕輪はマルクスが預かる。証拠であり、もう一つ使い道がある。



 ギルドの事務室。


 カールは椅子に座り、うつむいていた。ディートリヒが傍らに立ち、心配そうにカールの顔を覗き込んでいた。


 マルクスは卓の上に腕輪を置いた。


「記憶に偽物が書き込まれていることは、さっき確認した。だが偽の記憶そのものは、まだお前の中に残っている」


 カールが顔を上げた。目の下に深い隈がある。あの夜以来、ずっと眠れていなかったのだろう。


「……消せるのですか」


「書き込んだ道具がある。消すのにも使える」


 マルクスは腕輪を手に取り、術式の構造を解析し始めた。精神干渉の回路を一つ一つ読み解いていく。書き込みの逆——すなわち消去。対象領域を特定し、上書きされたデータだけを除去する。元の空白を復元する。


(構造は単純だ。読み書きの対称性がある。……逆操作は問題なく可能だな)


「ディートリヒ。立ち会ってくれ」


「はい」


 ディートリヒが姿勢を正した。証人だ。


 マルクスはカールの正面に立ち、腕輪を額に当てた。術式を起動する。


 読み取り——対象領域の特定——偽データの境界を検出——消去。


 静かな光が、カールの額を照らした。


 数十秒。


 光が消えた。マルクスは腕輪を額から離した。


 カールの表情が、変わっていた。あの夜以来ずっと影を落としていた苦悶——それが、薄紙を剥ぐように消えていく。目の焦点が戻り、呼吸が落ち着いていく。


「……消えた」


 カールが、呆然とした声で言った。


「あの夜のことが……何も、思い出せない」


「それでいい」


 マルクスは静かに言った。


「元々そこには何もなかった。薬で眠っていた、ただの空白だ」


 カールの目から涙が一筋零れた。声は出なかった。両手で顔を覆い、肩を震わせた。


 ディートリヒも目を赤くしていたが、何も言わず、ただカールの傍に立っていた。



 翌朝。城下街、ベッカー邸。


 マルクスはディートリヒと共に書斎を訪ね、ハインリヒ・フォン・ベッカー子爵に報告した。


 ルードルフとヴァーツラフの共謀。薬物投与と腕輪による認知的改竄メモリ・ポイズニング。カールの記憶領域から検出された偽データの痕跡。押収した腕輪。ミレナの身柄確保。そして腕輪を用いた偽記憶の消去。


 全てを聞き終えたハインリヒは、しばらく黙っていた。


「ヴァーツラフと女、腕輪も押さえてあります。内通者はお宅の小姓です」


「……」


「ヴァーツラフと女の処分は行政に委ねるのが妥当かと。カール殿は被害者です——子爵家の名に傷はつきません」


 ハインリヒは深く息を吐き、頷いた。


「……感謝する、マルクス殿」


 子爵は机に手をつき、しばし瞑目した。それから、マルクスが予想しなかったことを口にした。


「昼餉を共にしてくれぬか。せめてもの礼だ」


 出入りの冒険者と誼を結んでおく——貴族にとっても、ギルドにとっても悪い話ではない。マルクスは素直に頷いた。


「……では、お言葉に甘えます」



 ベッカー邸の食堂は、城下街の貴族邸にふさわしい格式を備えていた。重厚な樫のテーブルに白い麻布がかけられ、銀の食器が並んでいる。だが華美ではない。壁に飾られた肖像画も、調度品の銀燭台も、実直な家風を映すように落ち着いた佇まいだった。


 最初に運ばれてきたのは、金色に澄んだ牛骨のスープだった。脂を丹念に掬い取った透き通る琥珀色の出汁に、細切りの薄焼きフリターテンが浮いている。一口含むと、何時間も煮出した牛骨と根菜の旨味が、静かに舌の奥へ沁みた。


「……旨いですな」


「うちの料理番が得意にしている。古い時代の宮廷料理でね」


 ハインリヒはスープを啜りながら、穏やかに言った。元老院の重鎮というよりは、実直な領主の顔だった。


 続いて、主菜が運ばれた。


 大皿に盛られた牛肉の塊——ターフェルシュピッツ。牛の尻肉をスープで数時間かけて煮込んだ、かつての帝政時代に宮廷で供された古い料理だ。薄く切り分けられた肉は薔薇色を保ちながらも、匙を入れれば崩れるほどに柔らかい。添えられているのは二種の薬味。摩り下ろした林檎に西洋山葵を合わせたアプフェルクレンと、刻んだ浅葱をたっぷり混ぜ込んだシュニットラオホソース。別皿にほうれん草のクリーム煮と、こんがり焼かれた薄切りの馬鈴薯レシュティが付いている。


 マルクスは肉をひと切れ取り、アプフェルクレンをつけて口に運んだ。


 煮込まれた牛肉の旨味が、口の中でほどけていく。そこに林檎の甘みと山葵の鋭い辛味が重なり、渾然一体となって鼻へ抜けた。見た目は地味な煮込み肉だが、この柔らかさを出すには低温でじっくりと火を通す手間がいる。安い部位でも、丁寧に仕事をすれば化ける。職人の料理だった。


「見事な火入れだ。料理番殿によろしくお伝えください」


「ふむ。妻の実家が古い家でね。嫁入りの折に連れてきた料理番だ。もう二十年になるか」


 ハインリヒは肉を切り分けながら、話を続けた。


「ルードルフは即日解雇する。表向きは不行跡のため——小姓としては、それだけで十分だろう」


「妥当かと」


「ヴァーツラフと女は、行政局に引き渡す。禁忌魔道具の無許可使用、脅迫、薬物投与による傷害——いずれも重罪だ。ヤン殿を通じて手配を頼めるか」


「すでに話は通してあります」


 ハインリヒは頷き、シュニットラオホソースを絡めた肉をゆっくり口に運んだ。浅葱の爽やかな香りが、重厚な牛肉の脂をすっきりと引き締める。しばしの沈黙の後、子爵は声を落とした。


「……昨夜、カールが暴走したと聞いた」


「はい。事は収めましたが、肝を冷やしました」


「あの子は生真面目すぎる。理想が高い分、思い詰める。——親として、気づいてやれなかった」


 子爵の声には、怒りよりも、己への悔恨が滲んでいた。マルクスは何も言わず、レシュティをひと切れ口に運んだ。外は香ばしく、中は馬鈴薯のほくほくとした甘みが残っている。


「マルクス殿。今後とも、何かあれば頼みたい」


「ギルドを通していただければ。ギルド長のヴェルナーが喜びます」


「ふ。律儀な男だ」


 食卓に穏やかな沈黙が流れた。窓の外では、城下街の石畳を初夏の陽が白く照らしている。



 食後。ベッカー邸の庭。


 マルクスが辞去しようとしたとき、カールが追いかけてきた。


「マルクスさん」


 マルクスは立ち止まった。


「昨夜、お前が動いたことは誰にも言わん。縁談に響く」


「……ありがとうございます」


 カールは深く頭を下げた。


「礼はいい。だが一つ、言っておく」


 マルクスは振り返った。


「お前の志は間違っていない。元老院を変えたいという理想も、な。だが——**近道をしたくなった時こそ、立ち止まれ**」


「……」


「正規の手順を踏むのは遠回りに見えるが、足元を掬われないための唯一の方法だ。お前は身元も分からん酒場の人間を信じた。その代償が、あの偽りの記憶だった」


 カールは唇を噛んだ。そして再び深く頭を下げた。今度は、長く。


 マルクスは背を向け、庭を後にした。



 夕刻。白狐亭。


 マルクスとディートリヒは、カウンター席に並んで座っていた。ディートリヒはハインリヒの名代として、ヴァーツラフと女の処分について子爵家の意向をヤンに伝えるために同行している。


「よく来たな」


 ヤンがカウンターの向こうから声をかけた。ディートリヒが居住まいを正し、ハインリヒからの伝言を述べた。行政局への引き渡しの件、子爵家として正式に告訴する旨、そして協力への謝意。最後に革の小袋をカウンターに置いた。ギルドを通じてマルクスへの謝礼は別に届いている。これはヤンの分だった。


「承った。リヒターシュには俺から話を通しておく」


 ヤンは小袋に目もくれず頷いた。だが断りもしない。この辺りの呼吸は、さすがに旧市街の顔役だった。用件が済むと、ディートリヒの肩から力が抜けた。マルクスが口を開いた。


「片付いたよ。——世話になった」


「俺は何もしちゃいない。店の手配と、衛兵の呼び出しと、行政局への引き渡しと——」


「充分だ」


 マルクスは苦笑した。


 ヤンが厨房に声をかけると、程なくして皿が運ばれてきた。


 厚めに切り分けられた塊が二切れ。表面はこんがりと焼き目がつき、挽き肉の層が幾重にも詰まっている。切り口の中央に鮮やかな黄色——茹で卵の断面が、渦を巻くように現れていた。


 濃い茶色のグレイヴィーソースが添えられ、パプリカの赤い粉が軽く振られている。湯気と共に、挽き肉とハーブの香ばしい匂いが立ち上った。


挿絵(By みてみん)


「これは——肉の中に、卵が」


 ディートリヒが目を丸くした。


「**ファルシェ・ハーゼ**。——『偽のウサギ』という」


「偽のウサギ?」


「挽き肉を固めて焼いたものだ。昔、高価なウサギ肉の代わりに作ったのが始まりだそうだ。名前は偽物だが——」


 マルクスはフォークで一切れを口に運んだ。挽き肉の旨みが口に広がる。じわりと溶ける茹で卵のまろやかさ。グレイヴィーソースの深い風味が、それらを一つに束ねていた。


「——味は本物だ」


 ディートリヒも一口食べ、小さく頷いた。


「……今回の件みたいですね。偽の記憶、偽の罪」


「ああ。だがカールが感じた苦しみは本物だった。——**偽物の記憶でも、人を壊すには充分だ**」


 ヤンが黒ビールを二杯、カウンターに置いた。深い色の液面に、蝋燭の灯りが揺れている。


「おごりだ。今夜くらいはな」


「……すまん」


 マルクスは黒ビールを手に取った。


「カール様の暴走には肝を冷やしましたが……」


 ディートリヒが杯を両手で包みながら言った。


「ああ。だが結果として全員押さえられた。——大事なのは、カール殿の名誉が守られたことだ」


 ディートリヒは小さく頷き、黒ビールに口をつけた。


 初夏の夕暮れが、白狐亭の窓から差し込んでいた。通りを行く人々の影が、石畳の上を長く伸びている。穏やかな夕刻だった。


 マルクスは黒ビールを傾けながら、窓の外を眺めた。


(若さとは、急ぐことだ。——だが、急いだ先に何があるかは、歳を取らなければ分からん)


 マルクスはビールを飲み干し、皿の上のファルシェ・ハーゼに再びフォークを伸ばした。


(第7節 了)


---


### 解説:ファルシェ・ハーゼ(Falscher Hase)


「偽のウサギ」という名を持つ、連邦西部に発祥する伝統的な挽き肉料理。高価なウサギ肉が手に入らない庶民が、牛と豚の合い挽き肉を捏ねて同じ形に仕立てたのが始まりとされる。名前に「偽物」を名乗りながら、今日では立派な一品として定着している。


**作り方と見た目:** 合い挽き肉にパンくず・卵・玉ねぎ・ハーブを混ぜ込み、中央に茹で卵を丸ごと包んで焼き上げる。切り分けると断面の中央に卵の黄色が渦を巻いて現れ、見映えがいい。表面にはしっかりした焼き目をつけ、グレイヴィーソースをかけて仕上げる。


**味わい:** 挽き肉のハーブ風味と、中のゆで卵のまろやかさが層になる。グレイヴィーソースが全体をまとめ、見た目より肉の密度が高く食べ応えがある。安価な材料から作られるが、手間を惜しまなければ充分な満足感が得られる——庶民の知恵が詰まった料理だ。


**白狐亭での位置づけ:** ハナの手料理の中でも、特に大皿に映えるものをヤンが好んで出す。「手間はかかるが、食べた者が黙る」とヤンは言う。事件の後始末という重い夜に、この料理が選ばれたのは偶然ではない。




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