第1節:海外案件——レオニスの遺跡
ベッカー子爵家の一件が片付いてから、数週間が過ぎていた。
季節は夏になっていた。旧市街の石畳を朝の陽が白く照らし、ギルド街の通りには陽炎が揺らめいている。
ストジーブルナー・ルーナの二階。窓際の作業机に向かい、マルクスは遺跡出土品の修復報告書を書いていた。月に一度の定例作業だ。先月分の遺物——砕けた魔石を組み込んだ旧式の腕輪型焦点具の解析結果をまとめ、修復の見積もりを添える。地味だが、こうした積み重ねがギルドの信頼を支えている。
階下の食堂から、朝の匂いが漂ってきた。コーヒーの苦みと、焼きたてのロフリークの香ばしさ。そして大鍋で煮込まれるグラーシュの匂い——パプリカとキャラウェイの芳醇な気配だ。昼にはまだ早いが、ギルドの厨房は朝から火を入れている。冒険者たちの胃袋は、時間を選ばない。
ヴェルナーが事務室に入ってきたのは、報告書の仕上げにかかった頃のことだった。
「マルクス。仕事だ」
ギルドマスターの手には、行政局の封蝋が押された羊皮紙が握られていた。五十六歳の大柄な男は、膝を庇うように椅子に腰を下ろすと、書面を卓の上に広げた。
「連邦行政局からの再入札通知だ。——レオニスの遺跡」
「レオニス?」
マルクスのペンが止まった。
「ああ。獅子鷲の辺境伯領。東の辺境だ」
レオニス——連邦の東端に位置する獣人の国だ。山岳地帯に広がる辺境の領地で、首都アルカからは馬車で三日ほどの距離がある。
「三ヶ月ほど前に、山岳地帯で中規模の古代遺跡が出現した。最初の入札で黄金の盾が探索権を取ったんだが——」
「黄金の盾か」
マルクスの声に、微かな苦みが混じった。
黄金の盾。首都最大手のAランクギルド。スキル特化の精鋭を揃え、大規模案件を次々と落札する華やかな連中だ。——だが、古代魔法陣の専門家がいないことでも知られている。
つい先日も、彼らの魔法陣レビューの下請けが回ってきたばかりだ。記憶領域管理の甘さ、境界チェックの省略、速度のために安全策を削った構造——。
(相変わらず、仕事が荒い)
あのときの苦い感想が、そのまま蘇った。
「第三層で行き詰まって、探索権を放棄した」
「放棄か。あの連中が」
「大手の面子にかけて粘ったらしいが、どうにもならなかったようだ。レオニスの地元ギルドには古代魔法陣を読める者がいない。連邦の再入札で安く放出されたから、うちで引き取った」
「入札額は」
「黄金の盾が払った額の三分の一だ。あいつらが撤退した案件を拾うんだ、安くなるのは道理だろう」
連邦の入札制度は、遺跡の探索権を公開競争で配分する仕組みだ。落札したギルドが権利を放棄すれば、再入札にかけられる。大手が手を引いた案件は敬遠されがちで、値が下がる。——だが、ストジーブルナー・ルーナにとっては、むしろ得意分野だった。大手が力技で破綻した遺跡を、マルクスが丁寧に読み解いて攻略する。中堅ギルドの生き残り戦略だ。
「カレルの隊を先行させた。三人編成で、第一層と第二層は探索済みだ。だが——」
「第三層か」
「ああ。今朝、通信石で報告が入った」
ヴェルナーは声を落とした。
「第三層への階段に近づくと、遺跡全体が震動し始めたそうだ。認知妨害の罠が不安定に作動して、発動と停止を繰り返している」
「黄金の盾が探索したときには——」
「なかった現象だ。カレルもそう言っている。——もっとも、あの引き継ぎ記録がまともに信用できるかは別だが」
マルクスは腕を組んだ。窓の外で、朝市帰りの主婦たちが石畳を行き交っている。穏やかな夏の朝だった。
「……嫌な予感がするな」
「カレルの言葉を借りれば——『俺たちの手には負えない。マルクスさんに来てもらえないか』」
ヴェルナーが肩をすくめた。
「遠い仕事だ。だが、遺跡の専門家が必要だ——お前しかいない」
マルクスは報告書に視線を落とした。修復途中の旧式焦点具の記述が、ペンの途中で止まっている。
(黄金の盾が放り出した遺跡。古代魔法陣が読めない連中が、何をしでかしたのか——ろくなことにはなっていないだろう)
「……分かった。出発はいつだ」
「明日の朝一番。東街道の定期便を手配してある。馬車で三日だ。旅費と日当はギルド持ちだ」
「手回しが早い」
「断らないと思ったからな」
ヴェルナーが口元を緩めた。マルクスは小さく溜息をつき、報告書を脇にどけた。
*
翌朝。東街道を走る馬車に揺られながら、マルクスは窓の外を眺めていた。
アルカの城塞が遠ざかり、街道沿いの麦畑が広がっていく。夏の日差しが麦の穂を金色に輝かせ、遠くの丘に風車が回っている。
一日目は平野だった。街道沿いの宿場町で一泊し、翌朝にまた馬車に乗る。二日目の午後から地形が変わり始めた。平野が尽き、低い丘陵が次第に高さを増していく。木々が増え、道は曲がりくねりながら高度を上げていった。
三日目の朝。
馬車が峠を越えると、眼下にレオニスの山岳地帯が広がった。
鬱蒼とした森に覆われた急峻な山々。谷間を縫うように細い街道が続き、所々に石造りの集落が点在している。斜面には段々畑が切り拓かれ、羊の群れが白い点となって草を食んでいた。空気は澄んで涼しく、夏のアルカの蒸し暑さとは別の世界だった。
(アルカとはずいぶん違う。——辺境とは、こういうことか)
レオニスの人々は獣人が大半だ。馬車が通りかかる村々では、犬型や鹿型の獣人たちが日々の営みに勤しんでいた。薪を割る屈強な背中に獣の耳が揺れ、子供たちが尻尾を振りながら馬車を追いかけてくる。人間の旅人が珍しいのだろう。マルクスが手を振ると、甲高い笑い声が遠ざかっていった。
午後。馬車が遺跡の最寄りとなる宿場町に着いた。
山間の小さな町だった。石造りの家々が斜面に段をなして並び、中央の広場に石の泉がある。周囲は針葉樹の森に囲まれ、空気には松脂と羊の匂いが混じっていた。
馬車を降りると、待ち構えていた大きな影が歩み寄ってきた。
「マルクスさん。——よく来てくれた」
カレル。
二十八歳の獣人(ファウレーン、熊型)の戦士は、マルクスより頭一つ半は大きい。褐色の毛皮に覆われた太い腕を組み、丸い耳をぴくりと動かしながら、人懐こい目で見下ろしている。ストジーブルナー・ルーナのBランク冒険者で、探索隊のリーダーを任されている男だ。
「遠路すまんな」
「三日も馬車に揺られるのは久しぶりだよ、カレル」
マルクスは鞄を下ろしながら答えた。腰が痛む。四十六の身体には馬車の旅は堪える。
「こっちの二人を紹介する」
カレルの背後から、二つの人影が進み出た。
「ヤロスラフです。よろしくお願いします」
若い人間の男だった。二十四歳。痩せ型で、目が忙しなく動く。腰には短剣を二本差し、軽装の革鎧を身につけている。盗賊系——罠感知と鍵開け、斥候が専門だ。落ち着きのなさに若さが透けているが、悪い目はしていない。
「ミラダです。お噂はかねがね」
エルフの女性が静かに頭を下げた。外見は三十歳ほどに見えるが、シェリフィエルの銀森領出身のエルフであれば、実年齢は遥かに上だろう。銀灰色の長い髪を一つに束ね、白い僧衣を纏っている。治癒魔法と防御結界の専門家だ。物腰は穏やかだが、纏う空気に芯がある。
「よろしく。——さっそくだが、状況を聞かせてくれ」
*
宿場町の宿屋。二階の部屋に通され、マルクスは木のテーブルに向かった。
壁には鹿の角が飾られ、窓からは山の稜線が見えた。カレルが地図と報告書を広げる。
「遺跡は町の東側、裏手の山腹だ。山道を四半刻もかからない」
カレルの太い指が地図を辿った。爪が厚い。獣人の手だ。
「山腹の岩盤に食い込むように存在している。推定年代は協定歴二〇〇〇年代——魔法陣の黎明期だ。地下三層構造、深度五十メートルほど。行政局の評定では危険度B」
「黄金の盾の探索記録は」
「行政局を通じて引き継いだが——」
カレルが渋い顔をした。
「ほとんど何も書いてない。第一層と第二層は『踏破済み』とだけ。第三層は『調査中断』。中断の理由も、踏破の詳細も記載なし」
マルクスは眉を上げた。
「……まあ、あの連中らしい。ドキュメントを残す習慣がないのは知っていた」
「俺たちが先行して第一層と第二層を探索した。遺物はいくつか回収済みだ。石板の文献が何枚か。——おそらく、黄金の盾が見落としたものだ」
「見落としたのか、読めなかったのか」
「後者だろうな」
カレルが苦笑した。
「俺はファウレンヘイムの生まれだが、レオニスには何度か足を運んでいる。同じ獣人の国だからな。この辺りの地勢は、ある程度は勘が利く。だが、古代魔法陣は俺の手には負えない」
「それは俺の仕事だ。——問題は第三層だな」
「ああ」
テーブルの上の地図に、カレルが赤い印をつけた。
「第二層から第三層への階段に近づくと、遺跡全体が震動し始める。壁面の魔法陣が不規則に明滅して、認知妨害の罠が発動と停止を繰り返す」
ヤロスラフが口を挟んだ。
「正直、気味が悪かったです。罠なら罠で、一定のパターンがあるはずなのに——完全に不規則で。止まったかと思うと、いきなり揺れ出す」
「それは黄金の盾の探索時には——」
「なかった。少なくとも引き継ぎ記録にはない。俺たちが入って初めて起きた現象だ」
カレルが頷いた。
「通信石で報告した後も、宿場町まで微かな振動が伝わってきた。日を追うごとに悪化しているように感じる」
マルクスは腕を組んだ。
窓の外では、山の夕暮れが宿場町の石造りの屋根を琥珀色に染めていた。針葉樹の森が、斜面に長い影を落としている。
(黄金の盾が第三層で行き詰まって撤退した。その後、遺跡に入った者はいない——はずなのに、新しい異常が起きている)
(放置されたものが、時間の経過で周囲と干渉を起こし始めた。——あの連中が残した「何か」が、遺跡を内側から壊しつつある。そういうことか)
「カレル。明日、遺跡に入る。朝が早いほうがいい——山の天候は午後に崩れやすいだろう」
「分かった。夜明けに出発する」
「ミラダ。防御結界を多めに用意しておいてくれ。崩落の可能性がある」
「心得ました」
「ヤロスラフ。お前は罠感知に集中しろ。ただし——**わからないものには触るな**。俺が見るまで待て」
「はい」
ヤロスラフが姿勢を正した。
マルクスは椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げた。
(黄金の盾が残した「置き土産」。——あの連中が古代の遺跡で何をしたか、見当はつく)
先日の魔法陣レビューで目にした、あの粗雑な仕事ぶり。読めない部分を力で焼き切った痕跡。速度のために省略された検証工程。——あの流儀で、二千年前の防衛機構に手を出したのだとすれば。
「……面倒なことになっていなければいいが」
独り言は、山の夕風に紛れて消えた。
*
夕食は、宿屋の一階の食堂で取った。
宿場町の食堂は素朴だが賑やかだった。地元の羊飼いや木こりたちが長卓を囲み、低い声で笑いながら酒を酌み交わしている。壁には鉄鍋や乾燥ハーブが吊るされ、暖炉の火が揺れていた。アルカの居酒屋とは趣が違う。山に生きる者たちの、逞しい食卓だった。
カレルが厨房の女将に声をかけると、大きな鉄鍋から湯気の立つスープが運ばれてきた。
赤みを帯びた、熱い一杯。
ザワークラウトの鋭い酸味が湯気に乗って鼻をくすぐり、その奥から燻製肉の濃い旨味とキノコの土の香りが追いかけてくる。パプリカの赤が、スープの表面をほんのりと染めていた。
「カプストニツァ。ザワークラウトのスープだ。夏でも旨い」
カレルが言った。
マルクスは匙を口に運んだ。酸味と塩気が舌の上で出会い、燻製肉の脂がまろやかに繋ぐ。キノコの風味が、底の方から静かに立ち上ってくる。素朴な料理だが、奥行きがある。アルカのスープとは違う。山の厳しさと、それに耐える暮らしの知恵が、一杯の中に凝縮されている。
「……いいスープだな」
「ここの女将の得意料理だ。俺がレオニスに来るたびに、まずこれを頼む」
続いて、焼いた羊の腿肉が大皿で出た。皮目はパリッと香ばしく、脂の焦げる匂いが食欲をそそる。付け合わせは蒸かした馬鈴薯と、酢漬けの赤キャベツ。羊肉を一切れ口に運ぶと、野趣のある旨味が口中に広がった。アルカでは牛肉と豚肉が食卓の主役だが、レオニスは羊の国だ。
カレルは獣人らしい食いっぷりで、人間の三倍ほどの量を平らげている。ミラダは山の薬草を使ったサラダを追加していた。ヤロスラフは羊肉に齧りつきながら、しきりに周囲の獣人たちを物珍しそうに眺めている。
「乾杯しよう。明日のために」
カレルが小さなグラスを四つ並べた。透明な液体が注がれる。
「スリヴォヴィツァ。プラムの蒸留酒だ。レオニスのは——きつい」
マルクスはグラスを受け取り、一口含んだ。
——喉が焼けた。
アルカで飲み慣れたスリヴォヴィツェとは、明らかに別物だった。荒々しく、鋭い。プラムの芳醇な香りの奥に、山の寒さをそのまま凝縮したような烈しさがある。
「……きつい酒だな」
「これがレオニスだ」
カレルが笑った。ヤロスラフは一口で咳き込み、ミラダは静かに唇を湿らせただけで、グラスをテーブルに戻した。
窓の外では、山間の宿場町に夜が降りていた。アルカでは見られない星空が、山の稜線の上に広がっている。空気は澄み、虫の声が遠く聞こえた。
マルクスはもう一口、スリヴォヴィツァを含んだ。二口目は、最初ほど烈しくない。舌がレオニスの流儀を受け入れ始めたのか。
(明日。——黄金の盾が何を残していったのか、この目で確かめる)
グラスの底に残った最後の一滴を飲み干し、マルクスは早めに席を立った。明日は、夜明けに出る。
(第1節 了)
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### 解説:カプストニツァ(Kapustnica)
レオニスの山岳地帯に広く根付いた伝統スープ。ザワークラウト(酸漬けキャベツ)を煮出した酸味のある汁に、燻製肉とキノコを加えて仕上げる。寒い季節に体を温める料理だが、山の宿では夏でも定番として出てくる。
**外見と香り:** 赤みを帯びた褐色のスープ。パプリカの赤い脂が表面に浮き、ザワークラウトの鋭い酸味とキノコの土の香りが湯気に混じって立ち上る。燻製肉の旨味が奥から追いかけてくる。
**味わい:** 酸味・塩気・燻煙の旨味が三位一体になって舌に来る。キノコの風味が底から静かに補い、全体を奥行きのある味にまとめる。アルカのスープより野趣があり、素朴な力強さがある。山の仕事で消耗した身体に沁みる一杯だ。
**旅のお供:** 宿の女将に頼めば魔法瓶に分けてもらえることもある。マルクスが翌日の遺跡調査に持ち込んだのもそのため。冷えた地下で飲む一杯は、地上よりも旨い。
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### 解説:レオニスのスリヴォヴィツァ
アルカでも飲まれるスリヴォヴィツェ(プラム蒸留酒)と同じ原料だが、レオニスの山岳地方で造られるものは別物に近い。アルカ産が琥珀色でまろやかな口当たりなのに対し、レオニス産は無色透明で荒々しい。
山の厳しい寒暖差が、プラムに特有の野性味を与える。蒸留も荒削りで、余分な工程を省く。結果として、喉を焼くような強烈な一杯になる。度数はアルカ産より高い。
「乾杯する」ことに意味を置く文化があり、山の集落では客に振る舞う際に必ず出してくる。一口で咳き込んでもそれが礼儀だと、レオニスの者は笑いながら二杯目を注ぐ。




