シオンさん
返事が、出てこなかった。
口は開いているのに、声にならない。
久しぶり、とは言えない。会いたかった、とも言えない。この子にとって、俺は、今日初めて会う相手だ。
ネリネは首をかしげたまま、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……あの」
「……シオン」
やっと出たのは、名前だけだった。
「シオンさん」
ネリネは、初めて聞く言葉を確かめるみたいに、ゆっくりとくり返した。
この顔に、さん付けで呼ばれたことは、一度もない。シオン、と呼び捨てにされるのが、当たり前だった。
「遅れてしまって、すみません。道に迷ってしまって」
まだ少し、息が上がっている。ネリネは膝の上で両手を重ねて、恥ずかしそうに付け足した。
「地図は、昔から苦手なんです」
昔から。この子には、この子の昔がある。
「よろしくお願いします」
口を閉じたまま小さく笑って、ネリネは前を向いた。
壇の上で、杖が床を三度打った。
講堂が、しんと静まる。色のついた窓ガラスから落ちる光が、壇の上に、赤や青のまだらを作っていた。
そこに立っていたのは、小柄な老人だった。真っ白なひげが、胸のあたりまで垂れている。
学園長のセージだ。
ひげの長さも、杖を三度鳴らしてから話しはじめる癖も、ゲームの中で見たとおりだった。
「よく来た。この学園の門は、王都が王都になる前から、学ぶ者のために開いてきた」
小さな体のどこから出ているのかと思うくらい、よく通る声だった。
最初の一言で、わかった。この先も、一字一句、覚えているとおりだ。
口が、勝手に先を追っていた。声には出さず、唇だけが動く。次は、年も生まれも問わない、という話。その次が、冬至祭の話だ。
高嶋部長も、毎年四月の朝礼で、一字一句同じ話をしていた。三年目には、新人の誰より先に、締めの冗談を言えるようになっていた。
「ここでは、年も、生まれも問わぬ。問うのは、何を学んだかだけだ」
前の列では、俺より小さな子が、もう舟をこいでいる。後ろの列には、父さんより年上に見える人も座っていた。
「先へ急ぐ者は、急げばよい。誰かを待つ者は、待てばよい。学びは、逃げぬ」
ゲームのころは、聞き流していた一節だった。
学園長は、講堂をゆっくりと見渡した。
「冬至祭の夜には、諸君にも白いローブをまとい、灯りを手に、大通りを城の丘まで歩いてもらう。王都の人々に、新しい学生を披露する夜だ」
「灯りは、持つ者の魔力で、色も明るさも変わる。恥じることはない。己の色を、高く掲げなさい」
俺の灯りは、たぶん、掲げないほうがいい。
「丘に着いたら、城の塔に火を入れる。いちばん長い夜を、皆の灯りで越えるのだ」
そして、締めの一言が来る。その前に、学園長は少しだけ間をあける。それも、覚えているとおりだった。
「学ぶのに、遅すぎるということはない」
杖が、もう一度床を打つ。
「……ただし、遅刻は別だ」
講堂が、どっと笑った。
隣で、ネリネが首をすくめる。
ゲームでは、この一言が来るたびに、チャット欄が同じ言葉で埋まった。遅刻は別だ。遅刻は別だ。遅刻は別だ。何百人もが、学園長より先に打ちこんでいた。
みおも、毎回打ちこんでいた。誰より早く打てたと、そのたびに得意げだった。
今、この言葉を先に知っていたのは、俺一人だ。
あの何百人は、どこへ行ったのだろう。
「今、先に言っていませんでしたか」
前を向いたまま、ネリネが小声で言った。唇の動きを、見られていたらしい。
「……毎年、同じ話をするらしいから」
嘘ではない。ゲームの中で、何度も聞いた。
ネリネは少し考えてから、大真面目な顔でうなずいた。
「では、来年は、わたしも先に言えますね」
吹き出しそうになって、なんとかこらえた。ネリネは、どうして俺が肩を震わせているのか、わからないという顔をしていた。
壇の上では、学園長が杖をつきながら、ゆっくりと下がっていくところだった。
あの人は、何も変わっていない。
あの人の中に、誰かがいたことはない。だから、変わりようがないのだ。
生まれ直してから、何もかも覚えているとおりのものに会うのは、初めてだった。少しだけ、肩から力が抜けた。
変わったのは、誰かが動かしていたほうだ。
隣の横顔は、式辞を、初めて聞いた顔をしていた。
組分けの掲示の前には、人だかりができていた。自分の名前を見つけて、跳び上がって喜ぶ声。友達と離れたのか、ため息をつく声。
自分の組は、見なくてもわかっていた。
それでも人の頭ごしにのぞくと、本当に、ゲームのときと同じ組だった。
教室も、覚えているとおりだった。窓ぎわの、前から三番目。ゲームでは、ここが俺の席だった。
座って、鞄を隣の椅子に置く。
置いてから、手が止まった。
ゲームでは、最初の日から、隣はネリネの席だった。決まっていたわけじゃない。そういうことにしたのは、俺たちだ。
ネリネは、少し遅れて教室に入ってきた。同じ組だった。
目が合うと、小さく会釈をする。それから、前のほうで手招きしている知らない女の子のところへ行って、その隣に座った。
隣の子と、小声で何か話している。一度も、こちらを振り向かなかった。
鞄は、隣の椅子にのったままだった。
「ここ、空いてるか」
頭の上から、声が降ってきた。
見上げると、壁みたいな体があった。肩幅が、俺の倍はある。首も腕も太くて、赤みがかった髪を短く刈っている。どう見ても、父さんと腕相撲でもしていそうな大人だった。
「……先生ですか」
「十二だ。お前と同じだろ」
そいつは、俺の鞄を見下ろした。
「誰か来るのか」
少しだけ、迷った。
「……いや。空いてる」
鞄を膝にのせると、そいつは椅子を引いて、どかりと腰を下ろした。椅子が、悲鳴みたいな音を立てる。
「ローワンだ」
「シオン」
「おう。よろしくな、シオン」
大きな手で背中を叩かれて、息が詰まった。叩かれたところが、しばらく、じんわりと熱かった。
ローワンは、俺の目の先を追った。前のほうの、淡い色の髪。
「知り合いか」
「……いや」
声が、思ったより低くなった。
「知らない子だ」
嘘ではない。この世界では。
ローワンの顔には、見覚えがなかった。これだけ大きければ、ゲームで一度でも見ていれば、覚えていそうなものだ。会わなかったのか。忘れたのか。それとも、この世界にしかいない人なのか。
どれなのか、俺には決められなかった。ローズマリーさんのときと、同じだ。
寮に戻ると、相部屋の相手も、ローワンだった。
「なんだ、お前か」
ローワンは寝台に荷物を放り投げて、歯を見せて笑った。
こっちの台詞だった。
ローワンは荷物の底から干し肉の塊を出して、二つに割った。片方を、こっちに放る。
「食うか」
受け取ってから、気づいた。大きいほうだった。
ローワンは、横になったとたんに眠った。部屋を出ても、いびきは階段の途中まで追いかけてきた。
談話室には、もう誰もいなかった。
暖炉の前にしゃがんで、薪を出そうとした。
そのとき、気づいた。
右手の指先が、宙を、二度つついていた。
ゲームで、一覧を開くときの動きだ。持ち物も、地図も、次の行事も、フレンドリストも、全部そこに並んでいた。
ハウスの暖炉にくべる薪も、いつもそこから出していた。みおがいなくなってからの500日あまり、毎晩、この指で。
村にいるうちに、とっくに抜けたと思っていた癖だった。
この学園には、ゲームの景色が多すぎる。
フレンドリストのいちばん上には、最後の日まで、みおの名前があった。
宙は、何も開かなかった。
指を握りこんで、袋の口を自分の手で開ける。火打ち石で焚きつけに火をつけ、市場の薪を一本、そっとのせた。
火が、ゆっくりと薪に移っていく。しばらくして、ぱちり、とはぜた。
今夜も、母さんの薪とは違う匂いがする。
火を見ながら、学園長の話を思い出していた。白いローブ。灯りの行列。塔の火。
指が、また動きかけた。
今度は、何を開こうとしたのか、わかった。次の行事だ。開けば、その日までの日数が並んでいた。
開かなくても、数えられる。冬至祭まで、あと二月。
ゲームでは、あの夜、塔に火がともったとたん、王都じゅうの灯りが、一度に消えた。




