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誰の剣だ

談話室の暖炉に、その夜の一本をくべた。


市場の薪が、ぱちぱちと鳴りはじめる。隣では、ローワンが干し肉をかじっている。火打ち石を見られた晩から、腹が減ると、ときどき下りてくるようになった。


「一本くべたら、演習場に来い」


戸口から、声がした。


振り返ると、灰緑のコートを着たローズマリーさんが立っていた。暖炉の中の薪に、ちらりと目をやる。


「手合わせも、一本でいい」


それだけ言って、戸口から消えた。


ローワンは、干し肉をくわえたまま固まっている。


「……誰だ、今の」


「ローズマリーさん。父さんの、昔の仲間」


干し肉が、ローワンの口から落ちた。


「ローズマリーって……あの、ローズマリーか」


「あのって、どの」


「王都でいちばんの魔法剣士だぞ。知らねえのか」


ローワンは、干し肉を拾うのも忘れて、まくし立てた。学園では、いちばん上の段の剣しか見ない。騎士団長も、あの人には頭が上がらない。若いころに竜を斬った話は親父の十八番で、寝る前に何十回も聞かされたという。


「新入生の相手なんか、絶対にしねえって話だぞ」


それは、本人から聞いた。


背中に、冷たい汗が浮いた。


入学の前、初めて会った日のことだ。俺は、あの人に聞いた。父さんに求婚して断られたっていう、エルフの姫ですか、と。


「……お前、顔が青いぞ」


「初めて会ったとき、エルフの姫ですかって聞いた」


ローワンの顔からも、血の気が引いた。


「本人にか」


「本人に」


門番が宛名を見て眉を上げたわけも、武術の教官が急に背筋を伸ばしたわけも、今になって、ようやくわかった。


父さんの話では、竜を倒したのは、父さんだった。ミモザは、その話を聞いて、冒険者になると決めたのだ。それなのに、ローワンの親父の竜の話には、父さんの名前が一度も出てこないという。


竜の話は、村へ帰る道のあいだに、父さんの話になったらしい。


「お前の親父、何者だよ」


「……村一番の、力持ち」


演習場へ向かう回廊は、暗かった。


王都でいちばんの魔法剣士。ゲームの中で、俺は何百回も、この王都を歩いた。騎士団長の顔なら、何度も見た。その騎士団長が頭の上がらない人の名前を、一度も聞いたことがない。


会わなかったのか。忘れたのか。それとも——。


ゲームの登場人物は、何万といた。全員を覚えているわけじゃない。


そう思うことにした。



夜の演習場は、白い砂が月の光を吸って、ぼんやりと明るかった。


塀の向こうに、城の塔の先が見える。てっぺんで、火が小さく燃えていた。


ローズマリーさんは、演習場の真ん中に立っていた。腰の細身の剣を、ゆっくりと抜く。


足もとに、木剣が一本、放られた。


「俺より強い、とあいつは書いてきた」


「お前のは、まだ見ていない」


木剣を拾うと、足の下で、砂がきゅっと鳴った。


向かい合っても、構えらしい構えはなかった。細身の剣の先が、だらりと下がったままだ。


刃が、来た。


速い。それに、刃が空を切る音すらしない。振りかぶる気配もないまま、気づいたときには、もうそこにある。


見えてはいた。俺はいつものように、半歩だけ遅れて、後ろへ跳んだ。


刃は、肩の手前で、ぴたりと止まっていた。


「まだ、当てていない」


もう一度。今度は、脇腹の手前で止まる。もう一度。首の手前。そのたびに俺は、誰にも打たれていないのに、一人で夜の中へ跳んでいた。


止まる場所は、毎回、紙一枚ぶんだけ手前だった。斬るより、止めるほうがずっと難しい。ゲームの中でも、こんな剣には、ほとんど会ったことがない。


打たれたふりをするには、打ってくれる相手が要る。


四度目は、自分から砂に尻もちをついた。


「その転び方は、もう見た」


遊ばれている、と思った。もっとも、遊んでいるのは、こっちも同じだ。


そう思っていられたのは、そこまでだった。


剣先が、すっと上がった。


今度は、止まらなかった。


肩。脇腹。また肩。刃が、紙一枚の手前を通りすぎて、本当に届きにくる。半歩遅れれば、そのまま斬られる。遅れて見せるための半歩が、どこにもない。


木剣で受ける。受け損ねたふりをして、よろける。そのつもりで足を出すと、もう次の刃が、そこにある。


わざと負けるには、相手より速く動かなければならない。四年かけて覚えたコツの、いちばん大事なところだ。その「相手より速く」が、この人の前では、ぎりぎりだった。


息が上がっている。この体で、初めてのことだった。苦しいのは、剣を受けるほうじゃない。手を抜きつづけるほうだ。


砂が、きゅっ、きゅっ、と鳴りつづける。鳴っているのは、俺の足だけだ。


「次は、当てる」


刃が、淡い青紫に光った。


来る、と思った。


その次に覚えているのは、両手に残ったしびれだけだ。


青紫の刃は、俺の肩の上を抜けて、夜を斬っていた。俺は、その刃の内側に立っていた。木剣の先から、あの人の胸元まで、拳一つぶんもない。


どちらも、動かなかった。


肩が、少し涼しい。見ると、袖が一筋、きれいに切れていた。肌には、傷一つない。


当てる、と言ったのは、袖のことだったらしい。


塔のてっぺんで、火が揺れている。


「……砂が、鳴らなかったな」


足もとを見た。


踏みこんだ跡が、白い砂にくっきりと残っている。それなのに、音を聞いた覚えがない。さっきまで、あれだけ鳴っていた砂が。


あの人の足跡は、最初の場所から、半歩もずれていなかった。


ローズマリーさんは、剣を下ろした。


「今のは、あいつの剣じゃない」


それから、俺の目をまっすぐに見た。


「誰の剣だ」


「……父さんに、習いました」


「あいつの剣は、もっとうるさい」


言い返せなかった。


本当の答えは、この世界の、どこにもない。


しばらく、何も言われなかった。顔は若いのに、目だけが、ずっと年を取っている。


剣が、鞘に収まる音がした。


「言いたくないなら、いい」


灰緑のコートが、背を向けた。


「明日も、一本だ」


一人になった演習場で、もう一度、砂を踏んでみた。


きゅっと、鳴った。



あれから毎晩、薪を一本くべたあと、木剣を一本持って演習場へ出ている。


ローズマリーさんは、最初の晩の続きを待っている。俺は、その続きを見せない。砂も、毎晩ちゃんと鳴っている。


冬至祭まで、あと三十日。行列の練習が始まった。


火を入れないランタンを持って、王都に着いた日に馬車で通った大通りを、城の丘のふもとまで歩く。組ごとに一本ずつ大通りを受け持って、上から見ると、灯りの車輪になるのだという。


小学校の運動会の、入場行進の練習を思い出した。前の人の後頭部だけを見て、同じ速さで、ひたすら歩く。


並びは、灯りで決まった。明るい灯りが前、色の出なかった者は後ろ。


先頭は、デイジーだった。うれしそうに、ランタンを胸の前に抱えている。ローワンは列の真ん中で、ひびの入っていない新しいランタンを、両手で大事そうに持っていた。


いちばん後ろは、俺と、ネリネだった。


「いちばん後ろですね」


隣で、ネリネが言った。


「わたし、前のほうが得意なんですけど」


「……知ってる」


ネリネは、少し首をかしげた。


大通りは、城の丘のふもとの、丸い広場で終わる。灯り番の詰所の白い壁に、長い棒が並んでいる。


広場の真ん中で、武術の教官が声を張った。


「当日は、大通りの両側に、騎士団が並ぶ」


隣に、灰緑のコートが立っていた。腕を組んで、黙って列を見ている。


前のほうで、デイジーが手を挙げた。


「ノクスの人が紛れこんでも、ですか」


「獣人が何人紛れこもうが、行列には、指一本触れさせん」


教官が胸を張ると、まわりから、ほっとしたような笑い声が上がった。


俺は、広場を見回した。


あの夜、この広場は、何百人ものプレイヤーで埋まっていた。


派手な鎧。頭の上に浮かぶ名前。あちこちで光る、色とりどりの魔法。みんな、塔に火が入るのを待っていた。灯りが消えた瞬間、その全員が、いっせいに剣を抜いた。


あの夜、ここで死んだ生徒を、俺は数えもしなかった。


今、広場にいるのは、ここで暮らしている人だけだ。焼き栗の屋台。洗濯物を抱えた女の人。鳩を追いかける子供。


今度は、誰も来ない。


隣で、ネリネが、火の入っていないランタンを両手で持っていた。


死者は、ゼロ。


ゲームでいえば、ノーデスだ。


答えは言うな。客に見つけさせろ。高嶋部長の口ぐせだった。


休憩になると、俺は、ローズマリーさんの隣へ行った。


「村じゃ、火が消えたら、自分でつけ直すんです」


目だけが、こちらを向いた。


「王都じゃ、火はもらうもんだって、ローワンが言ってました」


「そうだな」


「もらう火が、全部いっぺんに消えたら、王都の人は、どうするんですか」


「消えない。千年、そうだ」


「……ですよね」


それ以上は、言わなかった。


ローズマリーさんも、それきり黙った。腕を組んだまま、塔のてっぺんを、じっと見上げていた。


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