俺が守ってやる
わざと負けるのには、コツがある。
半歩だけ遅れること。それから、遅れたと、相手に思わせないこと。
最初に覚えたのは、会社のボウリング大会だ。高嶋部長より、ちょうど十だけ低いスコアで投げる。それが、営業の腕の見せどころだった。
村では、同じことを木剣でやった。四年のあいだ、ミモザに負け続けた。ミモザは勝つたびに疑ったけれど、一度も見破れなかった。
学園でも、やることは変わらない。
入学から、十日がたった。
隣の席には、毎朝ローワンが座る。椅子は、毎朝悲鳴を上げる。ネリネは前のほうで、あの日手招きしていた女の子と並んでいて、目が合えば会釈をくれた。それだけだった。
武術の授業は、学園の裏の演習場で行われた。白い砂が一面に敷いてあって、踏むと、きゅっと鳴る。塀の向こうに、城の塔の先が見えた。
冬至祭まで、あと五十日。
教官は、木剣の束を砂の上に放り出した。日に焼けた、首の太い人だった。
「二人一組。隣の者と組め。負けた者は抜けろ。勝った者は、次の相手を待て」
隣は、ローワンだった。
ローワンは木剣の束を素通りして、両の拳を二度、打ち合わせた。
「俺は、これでいい」
教官は、ちらりと見ただけで、何も言わなかった。
向かい合うと、壁が立っているみたいだった。
勝てば、上の段へ移される。この学園では、できる者から先へ進む。窓ぎわの、前から三番目の席を、離れることになる。
負けているあいだは、ここにいられる。
ローワンが、砂を蹴った。
大きな体が、まっすぐ迫ってくる。右の拳より先に、右の肩が動く。ゲームなら、親切すぎるくらいの予備動作だ。どこに来るのか、打つ前から全部見えている。
俺は、半歩だけ遅れる。
拳が肩に届く寸前、自分から後ろへ跳んだ。はたから見れば、殴り飛ばされたのと変わらない。
砂の上に、尻もちをつく。
どこかで、くすりと笑う声がした。
「わりい。大丈夫か」
差し出された大きな手につかまると、体ごと引っぱり上げられた。
「お前、軽いな。ちゃんと食ってんのか」
「……食ってる」
「足りねえんだよ」
ローワンは、俺の背中を叩いた。叩かれたところが、また、じんわりと熱い。
「心配すんな。何かあったら、俺が守ってやる」
「……頼む」
大真面目に頭を下げると、ローワンは歯を見せて笑った。
俺のあとも、ローワンは三人を続けて砂に転がした。一人目は木剣ごと、二人目は体ごと。拳を振るたびに、まわりの空気が、かげろうみたいに揺れた。三人目が転がったところで、教官がふと回廊のほうを見て、急に背筋を伸ばした。何があったのかは、わからなかった。
「あいつ、本当に十二かよ」
誰かが、小声で言った。
五人目に前へ出たのは、ネリネだった。
淡い色の髪を、うしろで高く結んでいる。木剣を一本取ると、重さを確かめるように、軽く一度振った。
「手加減、いるか」
ローワンが聞いた。からかう声ではなかった。
「いりません」
ネリネは、木剣を構えた。
書道のお手本みたいな構えだった。どこにも、余計な線がない。
ゲームのネリネは、いつも杖を持っていた。剣を持ったのは、一度きりだ。ふざけて俺の剣を持たせたら、三回振って、自分の足に落とした。痛くもないのに、みおは画面の向こうで本気で悔しがって、しばらく口をきいてくれなかった。
同じ顔が、今、俺の知らない剣を構えている。
ローワンが踏みこむ。
ネリネは、半歩だけ横へずれた。拳が、結んだ髪の先をかすめて空を切る。その内側へ、木剣がするりと入っていく。
木剣の先が、ローワンの喉元でぴたりと止まる。同時に、ローワンの拳も、ネリネの顔の前で止まっていた。指のすきまから、小さな炎がちろりとのぞいている。
「そこまで」
教官の声が飛んだ。
「相打ちだ。それと、火は使うな」
ローワンは拳を開いて、頭をかいた。炎は、煙みたいに消えた。
「わりい。熱くなると、出ちまうんだ」
「……少し、熱かったです」
ネリネは、表情を変えずに言った。まわりから、どっと笑い声が上がる。ネリネは笑われたわけがわからないらしく、首をかしげてから、小さく頭を下げた。
「次は、組で受けてみろ」
教官は、自分の木剣を拾い上げた。
「俺が打ちかかる。どう受けるかは、組で決めろ」
それから、名前を読み上げていった。最初に呼ばれたのは、ネリネと、俺だった。
「いちばん強いのと、いちばん弱いのか」
ローワンが、肘で俺をつついた。
「よかったな、シオン。守ってもらえよ」
ネリネが、木剣を手に隣へ来た。
「よろしくお願いします、シオンさん」
教官が、木剣を振りかぶる。
考えるより先に、体が動いていた。
気がつくと、ネリネの前に立っていた。
足を開いて、相手に半身を向け、後ろの気配を確かめる。ゲームでは、いつもこうだった。前に立つのは俺で、ネリネは後ろ。背中には、いつも、杖の光の温かさがあった。
「シオンさんは」
後ろから、静かな声がした。
「誰かの前に立つのに、慣れているんですね」
答えられなかった。
何年も、この顔の前に立ってきた。言えるはずがない。
「でも、わたし」
ネリネが、俺の横をすり抜けた。
「前のほうが、得意なんです」
結んだ髪が、目の前で揺れる。
この顔の背中を見るのは、初めてだった。
前に出た背中なら、もう一つ知っている。「下がって、シオン!」と叫んで、俺の前に飛び出した背中。
伸ばした右手が、宙で止まった。
教官の木剣が、振り下ろされる。
ネリネは、半歩だけ踏みこんだ。木と木が触れ合う、乾いた音が一つ。教官の一撃が、するりと横へ流れていった。
「ほう」
教官が、片方の眉を上げた。
ネリネは構えを解いて、こちらを振り返った。
「大丈夫でしたか」
宙に浮かせたままの手を、下ろす。
「……ああ」
守るはずの相手に、守られた。
向こうで、ローワンが腹を抱えて笑っていた。
木剣の束を抱えて運んでいると、回廊の柱の陰に、人が立っているのに気づいた。
教官が背筋を伸ばした理由は、それでわかった。
腕を組んで、黙ってこちらを見ている。村で手合わせを見ていた父さんも、こうして腕を組んでいた。
ローズマリーさんだった。
「負け方が、上手すぎる」
挨拶より先に、それが来た。
「……見てたんですか」
「見に来たと言った」
ローズマリーさんは、俺が尻もちをついたあたりの砂に、目をやった。
「殴られる前に、自分から跳んだな。勝ち方を知らない子供は、ああは負けない」
言い返せなかった。四年かけて覚えたコツを、一度見ただけで言い当てられた。
「……一年目に、いたいんで」
「子分だからか」
「……はい」
ローズマリーさんは、それ以上は聞かなかった。代わりに、砂の上で片づけをしているネリネとローワンのほうを見た。
「赤毛の拳は、悪くない。あの娘の剣は、もっといい」
それから、俺に目を戻した。
「お前のは、まだ見ていない」
さっきから、教官がこちらをちらちらと気にしている。目が合うたびに、背筋が伸びた。
「……教官と、知り合いなんですか」
「昔、少し稽古をつけた」
それだけ言って、ローズマリーさんは回廊の奥へ歩きだした。数歩行ったところで、振り返らないまま、声だけが返ってきた。
「今夜も、一本か」
「一本です」
談話室には、もう誰もいなかった。
暖炉の前にしゃがんで、脇の火打ち石を取る。
右手を見た。昼間、宙で止まった手だ。
石を打つ。火花が、焚きつけに落ちる。小さな火が育つのを待って、市場の薪を一本、そっとのせた。
「毎晩どこ行ってんのかと思ったら、こんなとこにいたのか」
階段の上から、声が降ってきた。寝ぐせのついた頭で、ローワンが下りてくる。
「……起こしたか」
「腹が減って起きた」
ローワンは干し肉をかじりながら、俺の隣にしゃがみこんだ。
「ここ、冬までは火を入れちゃいけねえんじゃなかったか」
「一本だけ、許しをもらってる」
「誰に」
「……父さんの、昔の仲間」
ローワンは、俺の手元をのぞきこんで、目を丸くした。
「その火打ち石、飾りじゃなかったのか」
「村じゃ、火は自分でつけるもんだった」
「王都じゃ、火は灯り番からもらうもんだ」
ローワンは、なぜか胸を張った。
「うちの親父、灯り番なんだ」
窓の外には、同じ間をあけて、同じ色の灯りが並んでいる。王都に着いた日の夕暮れ、長い棒の先でともされていった灯りだ。
「街灯も、家の暖炉も、王都の火は全部、城の火から分けた火なんだぜ」
干し肉を持ったままの手で、ローワンは窓の外を指した。
「千年、一度も消えたことがない」
誇らしそうな声だった。
答えずにいると、薪が、ぱちりとはぜた。
暖炉の中では、俺が火打ち石でつけた火が、小さく燃えていた。
その千年とは、何の関係もない火だ。




