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11/12

俺が守ってやる

わざと負けるのには、コツがある。


半歩だけ遅れること。それから、遅れたと、相手に思わせないこと。


最初に覚えたのは、会社のボウリング大会だ。高嶋部長より、ちょうど十だけ低いスコアで投げる。それが、営業の腕の見せどころだった。


村では、同じことを木剣でやった。四年のあいだ、ミモザに負け続けた。ミモザは勝つたびに疑ったけれど、一度も見破れなかった。


学園でも、やることは変わらない。


入学から、十日がたった。


隣の席には、毎朝ローワンが座る。椅子は、毎朝悲鳴を上げる。ネリネは前のほうで、あの日手招きしていた女の子と並んでいて、目が合えば会釈をくれた。それだけだった。


武術の授業は、学園の裏の演習場で行われた。白い砂が一面に敷いてあって、踏むと、きゅっと鳴る。塀の向こうに、城の塔の先が見えた。


冬至祭まで、あと五十日。


教官は、木剣の束を砂の上に放り出した。日に焼けた、首の太い人だった。


「二人一組。隣の者と組め。負けた者は抜けろ。勝った者は、次の相手を待て」


隣は、ローワンだった。


ローワンは木剣の束を素通りして、両の拳を二度、打ち合わせた。


「俺は、これでいい」


教官は、ちらりと見ただけで、何も言わなかった。


向かい合うと、壁が立っているみたいだった。


勝てば、上の段へ移される。この学園では、できる者から先へ進む。窓ぎわの、前から三番目の席を、離れることになる。


負けているあいだは、ここにいられる。


ローワンが、砂を蹴った。


大きな体が、まっすぐ迫ってくる。右の拳より先に、右の肩が動く。ゲームなら、親切すぎるくらいの予備動作だ。どこに来るのか、打つ前から全部見えている。


俺は、半歩だけ遅れる。


拳が肩に届く寸前、自分から後ろへ跳んだ。はたから見れば、殴り飛ばされたのと変わらない。


砂の上に、尻もちをつく。


どこかで、くすりと笑う声がした。


「わりい。大丈夫か」


差し出された大きな手につかまると、体ごと引っぱり上げられた。


「お前、軽いな。ちゃんと食ってんのか」


「……食ってる」


「足りねえんだよ」


ローワンは、俺の背中を叩いた。叩かれたところが、また、じんわりと熱い。


「心配すんな。何かあったら、俺が守ってやる」


「……頼む」


大真面目に頭を下げると、ローワンは歯を見せて笑った。


俺のあとも、ローワンは三人を続けて砂に転がした。一人目は木剣ごと、二人目は体ごと。拳を振るたびに、まわりの空気が、かげろうみたいに揺れた。三人目が転がったところで、教官がふと回廊のほうを見て、急に背筋を伸ばした。何があったのかは、わからなかった。


「あいつ、本当に十二かよ」


誰かが、小声で言った。


五人目に前へ出たのは、ネリネだった。


淡い色の髪を、うしろで高く結んでいる。木剣を一本取ると、重さを確かめるように、軽く一度振った。


「手加減、いるか」


ローワンが聞いた。からかう声ではなかった。


「いりません」


ネリネは、木剣を構えた。


書道のお手本みたいな構えだった。どこにも、余計な線がない。


ゲームのネリネは、いつも杖を持っていた。剣を持ったのは、一度きりだ。ふざけて俺の剣を持たせたら、三回振って、自分の足に落とした。痛くもないのに、みおは画面の向こうで本気で悔しがって、しばらく口をきいてくれなかった。


同じ顔が、今、俺の知らない剣を構えている。


ローワンが踏みこむ。


ネリネは、半歩だけ横へずれた。拳が、結んだ髪の先をかすめて空を切る。その内側へ、木剣がするりと入っていく。


木剣の先が、ローワンの喉元でぴたりと止まる。同時に、ローワンの拳も、ネリネの顔の前で止まっていた。指のすきまから、小さな炎がちろりとのぞいている。


「そこまで」


教官の声が飛んだ。


「相打ちだ。それと、火は使うな」


ローワンは拳を開いて、頭をかいた。炎は、煙みたいに消えた。


「わりい。熱くなると、出ちまうんだ」


「……少し、熱かったです」


ネリネは、表情を変えずに言った。まわりから、どっと笑い声が上がる。ネリネは笑われたわけがわからないらしく、首をかしげてから、小さく頭を下げた。


「次は、組で受けてみろ」


教官は、自分の木剣を拾い上げた。


「俺が打ちかかる。どう受けるかは、組で決めろ」


それから、名前を読み上げていった。最初に呼ばれたのは、ネリネと、俺だった。


「いちばん強いのと、いちばん弱いのか」


ローワンが、肘で俺をつついた。


「よかったな、シオン。守ってもらえよ」


ネリネが、木剣を手に隣へ来た。


「よろしくお願いします、シオンさん」


教官が、木剣を振りかぶる。


考えるより先に、体が動いていた。


気がつくと、ネリネの前に立っていた。


足を開いて、相手に半身を向け、後ろの気配を確かめる。ゲームでは、いつもこうだった。前に立つのは俺で、ネリネは後ろ。背中には、いつも、杖の光の温かさがあった。


「シオンさんは」


後ろから、静かな声がした。


「誰かの前に立つのに、慣れているんですね」


答えられなかった。


何年も、この顔の前に立ってきた。言えるはずがない。


「でも、わたし」


ネリネが、俺の横をすり抜けた。


「前のほうが、得意なんです」


結んだ髪が、目の前で揺れる。


この顔の背中を見るのは、初めてだった。


前に出た背中なら、もう一つ知っている。「下がって、シオン!」と叫んで、俺の前に飛び出した背中。


伸ばした右手が、宙で止まった。


教官の木剣が、振り下ろされる。


ネリネは、半歩だけ踏みこんだ。木と木が触れ合う、乾いた音が一つ。教官の一撃が、するりと横へ流れていった。


「ほう」


教官が、片方の眉を上げた。


ネリネは構えを解いて、こちらを振り返った。


「大丈夫でしたか」


宙に浮かせたままの手を、下ろす。


「……ああ」


守るはずの相手に、守られた。


向こうで、ローワンが腹を抱えて笑っていた。


木剣の束を抱えて運んでいると、回廊の柱の陰に、人が立っているのに気づいた。


教官が背筋を伸ばした理由は、それでわかった。


腕を組んで、黙ってこちらを見ている。村で手合わせを見ていた父さんも、こうして腕を組んでいた。


ローズマリーさんだった。


「負け方が、上手すぎる」


挨拶より先に、それが来た。


「……見てたんですか」


「見に来たと言った」


ローズマリーさんは、俺が尻もちをついたあたりの砂に、目をやった。


「殴られる前に、自分から跳んだな。勝ち方を知らない子供は、ああは負けない」


言い返せなかった。四年かけて覚えたコツを、一度見ただけで言い当てられた。


「……一年目に、いたいんで」


「子分だからか」


「……はい」


ローズマリーさんは、それ以上は聞かなかった。代わりに、砂の上で片づけをしているネリネとローワンのほうを見た。


「赤毛の拳は、悪くない。あの娘の剣は、もっといい」


それから、俺に目を戻した。


「お前のは、まだ見ていない」


さっきから、教官がこちらをちらちらと気にしている。目が合うたびに、背筋が伸びた。


「……教官と、知り合いなんですか」


「昔、少し稽古をつけた」


それだけ言って、ローズマリーさんは回廊の奥へ歩きだした。数歩行ったところで、振り返らないまま、声だけが返ってきた。


「今夜も、一本か」


「一本です」



談話室には、もう誰もいなかった。


暖炉の前にしゃがんで、脇の火打ち石を取る。


右手を見た。昼間、宙で止まった手だ。


石を打つ。火花が、焚きつけに落ちる。小さな火が育つのを待って、市場の薪を一本、そっとのせた。


「毎晩どこ行ってんのかと思ったら、こんなとこにいたのか」


階段の上から、声が降ってきた。寝ぐせのついた頭で、ローワンが下りてくる。


「……起こしたか」


「腹が減って起きた」


ローワンは干し肉をかじりながら、俺の隣にしゃがみこんだ。


「ここ、冬までは火を入れちゃいけねえんじゃなかったか」


「一本だけ、許しをもらってる」


「誰に」


「……父さんの、昔の仲間」


ローワンは、俺の手元をのぞきこんで、目を丸くした。


「その火打ち石、飾りじゃなかったのか」


「村じゃ、火は自分でつけるもんだった」


「王都じゃ、火は灯り番からもらうもんだ」


ローワンは、なぜか胸を張った。


「うちの親父、灯り番なんだ」


窓の外には、同じ間をあけて、同じ色の灯りが並んでいる。王都に着いた日の夕暮れ、長い棒の先でともされていった灯りだ。


「街灯も、家の暖炉も、王都の火は全部、城の火から分けた火なんだぜ」


干し肉を持ったままの手で、ローワンは窓の外を指した。


「千年、一度も消えたことがない」


誇らしそうな声だった。


答えずにいると、薪が、ぱちりとはぜた。


暖炉の中では、俺が火打ち石でつけた火が、小さく燃えていた。


その千年とは、何の関係もない火だ。


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