待ってなさい
答えられなかった。
俺は黙って、自分のシャツの裾を裂いた。ミモザの足に巻きつけて、きつく縛る。布は、すぐに赤く染まった。
ミモザを背負って、えぐれた林の道を歩いた。
足元の土は、まだ少し熱い。両側には、切りそろえたような木の断面が、白く並んでいる。高速道路を通すために削られた山を、地球で見たことがある。あれに似ていた。
ミモザは、ずっと黙っていた。
背中の体は、思っていたより軽い。いつも俺を引っ張り回していた手が、首の前で、ゆるく組まれている。
林の出口が見えたころ、背中で声がした。
「……全部、わざとだったの?」
足が止まりかけた。止めなかった。
「かけっこも。木登りも。一本も」
「……ごめん」
それしか言えなかった。
ミモザは、何も言わない。
「このこと、誰にも言わないでくれ」
返事はなかった。代わりに、首に回された腕に、ぎゅっと力が入った。息が苦しくなるくらいに。
泣きそうになると、怒る。ミモザは、そういう子だ。
家の前まで来ると、母さんが外に飛び出してきた。林のほうから、あんな音がしたのだから当然だ。
母さんは何も聞かずにミモザを寝台に寝かせ、足の布を手早く巻き直した。隣から、ミモザの母さんも青い顔で駆けつけてくる。
ミモザの母さんは、娘の足と俺の顔を、何度も見比べていた。
手当てが終わると、母さんは窓の外を見た。裏の林に、まっすぐな切れ目が一本、空まで抜けている。
母さんは、しばらくそれを見ていた。それから、俺を見た。
化け物を見る目で、見られるかもしれない。四歳のとき、そう思った。
母さんの目は、いつもと変わらなかった。
「おかえり」
遊びから帰ってきた日と、同じ声で。
それだけで、膝から力が抜けそうになった。
林のことは、その日のうちに、村中に知れ渡った。
見に来た大人たちは、えぐれた道の前で、誰も口をきかなかった。次の日から、村ですれ違う人の目が、少しだけ変わった。
三日後の夕方、父さんが帰ってきた。家には寄らずに、まっすぐ裏の林へ向かったらしい。追いかけると、父さんはえぐれた道の入り口に立って、その先を見ていた。
長いこと、何も言わなかった。
「今度は、雷じゃないな」
振り返らずに、父さんは言った。
庭に戻ると、父さんは物置から木剣を二本出してきて、一本を俺に放った。
「もう隠さなくていいぞ」
構えた父さんの顔は、ふざけていなかった。
踏み込みが、速い。村一番の力持ちで、元冒険者。本気の父さんの剣を、俺は初めて見る。
それでも、止まって見える。
一歩も動かずに、木剣の先で受けた。乾いた音がして、父さんの木剣が宙を回る。夕焼けの空に、くるくると。
それが地面に落ちるまで、父さんは、空っぽになった自分の手を見ていた。
「……父ちゃんの立場がないだろ」
そう言って、笑った。自分の冗談に、自分で一番笑うときの顔だった。
「お前、ミモザに負けるとき、いつも半歩遅れてたろ」
息が止まった。
「……知ってたの」
「父ちゃんを誰だと思ってる」
父さんは木剣を拾って、肩にかついだ。
「噂は、じきに王都まで届く。迎えが来て連れていかれるくらいなら、自分の足で行け。学園には、昔の仲間がいる」
「行かない」
声は、すぐに出た。
「ここにいる」
父さんは、少しだけ俺の顔を見た。
「決めるのはお前だ」
それだけ言って、家に入っていった。
ミモザが外に出られるようになったのは、夏の終わりだった。
足の布は、まだ取れていない。いつもの木の下に、二人で並んで座った。ミモザは何度か幹を見上げて、そのたびに悔しそうに口をとがらせた。
「おじさんに、行かないって言ったんでしょ」
誰に聞いたのか、とは聞かなかった。小さな村だ。
「……ここにいたい」
「あたしのため?」
何も言えなかった。
ミモザはしばらく、足元の草をむしっていた。
「林のときは、本気だった?」
顔を上げると、ミモザがまっすぐこっちを見ていた。
四年間、何十回も聞かれた。そのたびに、嘘をついてきた。
今度は、本当のことが言える。
「……本気だった」
「なら、いい」
ミモザは、むしった草を放り投げた。それから顔をしかめて、幹につかまりながら立ち上がった。
「そんな力があって村に残るなら、許さない」
座ったままの俺を、ミモザが見下ろしている。
「あたしのためなら、もっと許さない」
声が、少しだけ震えていた。
「あんたに勝った一本、いつか全部、本物にしてやるから」
そう言って、ミモザは笑った。泣きそうな顔のままで。
その夜、父さんに「行く」と言った。
父さんは驚きもせずに、棚の上から封をした手紙を下ろしてきた。宛名は、もう書いてあった。
出発の前の晩、母さんの煮込みは、やっぱり少し焦げていた。
荷造りは、母さんがしてくれた。着替え。靴。干し肉。父さんの手紙。袋の口から、なぜか薪が一本のぞいている。
「向こうに暖炉がなかったら困るでしょ」
「薪なら、王都にも売ってるぞ」
「売ってるのと、うちのとは違うの」
父さんは肩をすくめて、それ以上は言わなかった。
いつものように、暖炉に薪を一本くべる。
この家でくべる、最後の一本だった。
火が、ぱちりとはぜる。火を見ていると、いつも、もう一つの暖炉を思い出す。木の床と、人をダメにするソファのある家の。
顔を上げると、父さんがこっちを見ていた。
冗談の顔じゃなかった。
「……お前、たまに、ずいぶん遠くを見るな」
返す言葉が、見つからなかった。
父さんは、それ以上何も聞かなかった。大きな手で、俺の頭をくしゃくしゃにする。
「家の暖炉は、父ちゃんがくべとく」
十二歳の秋、出発の朝は、よく晴れていた。
王都へ向かう商人の馬車に、乗せてもらうことになっていた。村の外れには、思っていたより大勢が見送りに来ている。林のことがあってから、遠巻きに俺を見るようになった大人たちも、混じっていた。
母さんは、最後まで母さんだった。
「焦げてないご飯に飽きたら、帰ってきな」
「飽きないよ」
「生意気」
そう言って、母さんは俺のおでこにキスをした。小さいころ、寝物語の最後にそうしてくれたみたいに。やめてよ、と言う前に、もう離れていた。
父さんは何も言わずに、俺の背中を一度だけ叩いた。痛かった。
ミモザの姿だけが、なかった。
王都へ続く道は、いつもの木のそばを通る。近づいていくと、そのてっぺんに人影が見えた。
「シオン!」
ミモザだ。足はもう治って、一番上の枝に立っている。両手を、口に当てて。
「先に行って、待ってなさい! 必ず追いつくから!」
村中に響きそうな声。
俺は荷台から身を乗り出して、子分らしく、丁寧に返した。
「……お待ちしてます!」
言ってから、気づいた。
それは、みおが最後に送ってきた言葉だった。
あの夜は、みおが俺を待っていた。
今度は、俺が待つ番だ。
馬車は止まらずに、木の下を過ぎていく。
ミモザは、一番上の枝で手を振り続けている。
落ちるなよ、と思った。
その一つ下の枝には、もう誰もいなかった。




