本気でやった?
「この子、きっと負けず嫌いになるよ」というミモザの母さんの予言が正しかったと、俺は五歳の春に思い知った。
その日、ミモザはいきなり、俺に指を突きつけた。
「シオン、かけっこしよ。負けたほうが子分ね」
断る間もなく、もう走り出していた。
慌てて追いかけて、すぐに、まずいと思った。軽く地面を蹴っただけで、景色がぐんと後ろへ流れる。このままだと、五歳の子供が、車より速く走ることになる。
足をゆるめる。もっとゆるめる。
結局、俺はちゃんと負けた。全力の一万分の一くらいで走って、ぎりぎりで負けた。
「やった! 今日からあんた、あたしの子分だから」
ミモザは、胸を張った。鼻の頭に、泥がついていた。
それから毎日、ミモザに引っ張り回された。木登り。川遊び。畑のカエル探し。木に登れば、ミモザはいつも一番上の枝まで行く。俺は、その一つ下の枝で止まって、ミモザが落ちないかとハラハラしていた。
負けず嫌いで、無鉄砲で、思ったことは全部口に出す。転んでも泣かない。泣きそうになると、怒る。川に落ちたときは、ずぶ濡れのまま「川のくせに!」と川にキレていた。
みおとは、大学のサークルが同じだった。そのころは、たいして仲良くもなかった。ちゃんと話すようになったのは、社会人になってからだ。
だから、ゲームの中だけは、学生時代から一緒だったことにした。二人とも、幼馴染というものに憧れていた。
その幼馴染が、ここにいる。
みおじゃない女の子と、俺は本当に、子供のころから一緒にいる。
ミモザに手を引かれて走るたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。楽しいと思うことが、うしろめたかった。
それでも、その手は振りほどけなかった。
そばで守りたい人が、一人増えた。
母親同士が仲良しなので、ミモザはしょっちゅう、うちで夕飯を食べていった。
六歳の冬の夜も、そうだった。食べ終わると、俺はいつものように薪の山へ向かった。もう、父さんの手を借りなくても、一人でくべられる。
「あたしもやる!」
横から、ミモザが薪をひったくった。
「だめ」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。ミモザの手から、薪を取り返す。
ミモザが、目を丸くした。
俺がミモザに「だめ」と言ったのは、それが初めてだった。
「……なんで?」
答えられなかった。
かけっこでも、木登りでも、俺はいつもミモザに負けてやった。でも、薪だけは譲れなかった。
ゲームの中で、薪をくべるのは、みおの係だった。みおがいなくなってからは、一日も欠かさず、俺がくべてきた。
「けち!」
ミモザは頬をふくらませて、母さんの後ろに隠れた。
「ごめんね、ミモザちゃん。この子、薪だけは誰にも触らせないのよ。熱を出した夜だって、這ってくべに行ったんだから」
「それは本当の話だぞ。父ちゃんの話と違ってな」
父さんがそう言って、母さんに足を踏まれた。
薪を一本、暖炉に押し込む。火が、ぱちりとはぜた。
ミモザは口をとがらせたまま、俺の隣にしゃがんで、火を見ていた。
父さんの冒険話を、いちばん熱心に聞いていたのは、俺じゃない。ミモザだ。
父さんが竜の話を始めると、ミモザは膝を抱えて身を乗り出した。竜が大きくなるたびに、ミモザの目も大きくなった。エルフの姫が三人に増えても、ミモザは少しも疑わなかった。
八歳の夏、いつもの木のてっぺんで、ミモザが言った。
「あたし、冒険者になる」
そこからは、村の外へ続く道が見えた。王都まで、馬車で十日。新幹線なら、二時間もかからない。
俺は、いつもどおり一つ下の枝にいた。
「十二になったら、王都に行って、学園の試験を受けるの。魔法も剣も、全部教えてもらえるんだって。それで、竜を倒す。おじさんみたいに」
父さんの竜は、話すたびに大きくなる。言わなかった。
「隣村のお姉ちゃん、知ってる? すごく魔力が強くて、学園のほうから迎えが来たんだって。いまは、すごい魔術師になってるらしいよ」
「……帰ってきたの?」
「ううん。もう何年も帰ってきてない。忙しいんだよ、きっと」
ミモザは、うらやましそうに言った。
同じ話が、俺には違って聞こえた。
魔力の強い子には、迎えが来る。行ったきり、帰ってこない。
棒きれ一本で木を倒す力が知られたら、俺もきっと、ここにはいられない。
それに、王都の学園は。
ゲームの中で、俺とみおの「学生時代」が始まった場所だった。十二歳の秋の入学式。早送りした子供時代の先で、二人はそこで出会ったことにしていた。
「あんたも行くの。子分なんだから」
ミモザが、枝の上で足をぶらぶらさせた。
俺は黙って、道の先を見ていた。
その夜から、ミモザは灯りの練習を始めた。
母さんが指を鳴らすだけでつく灯りを、毎晩、顔を真っ赤にしてにらむ。赤ん坊のころ、俺の指を握って離さなかったときの顔だ。
百回やって、一回だけ、蛍くらいに光った。
ミモザは、その場で跳び上がった。
ゲームなら、ここは早送りするところだ。
実際、それからの四年は、早送りみたいに過ぎていった。
ミモザは父さんに頼み込んで、剣を習い始めた。母さんには、灯りの魔法を。
「子分も一緒にやるの」
そういうわけで、俺も木剣を握ることになった。
父さんの稽古は、ふだんの冗談がうそみたいに厳しかった。ミモザは毎日、手のひらの皮をむいた。それでも、一日も休まなかった。灯りは十回に一回つくようになり、やがて、三回に二回つくようになった。
手合わせでは、俺はいつも、ミモザにぎりぎりで負けた。
ミモザの木剣が、まっすぐ来る。よけるのは簡単だ。止めるのも。俺は、半歩だけ遅れてみせる。肩に、軽い衝撃。
「一本!」
勝つたびに、ミモザは俺の顔をのぞき込んだ。
「あんた、本気でやった?」
「やったよ」
「ふうん」
それで、おしまい。ミモザはすぐに、次の一本を構えた。
父さんは腕を組んで、黙ってそれを見ていた。何にでも冗談をはさむ人なのに、そのときだけは、何も言わなかった。
十二歳になるころには、村の子供で、ミモザに勝てる者はいなくなった。俺も含めて、ということになっている。
負けているあいだは、ここにいられる。
大事な人のそばにいられなかった夜を、俺は一つ知っている。
もう、誰のそばからも離れたくなかった。
十二歳の夏。
父さんは、隣村に頼まれて狩りに出ていた。帰りは、三日後の予定だった。
「ねえ、林に行こ」
ミモザの腰には、木剣ではなく、本物の短い剣が下がっていた。父さんの物置から、こっそり持ち出してきたらしい。
「もう、林の魔物くらい、あたしたちで倒せるよ。あたし、あんたにだって勝てるんだから」
言い返せなかった。勝たせてきたのは、俺だ。
裏の林には、ときどき小さな魔物が出る。子供だけで入るなと、大人たちには言われていた。
止めるべきだった。わかっていた。
でも、俺がいる。いざとなれば、誰にも気づかれないように守ればいい。
林の奥で、最初の一匹が出た。犬くらいの大きさで、やけに牙の多い獣だった。
ミモザが踏み込む。父さんに習ったとおりの、まっすぐな突き。魔物が跳ぶ。ミモザは下がらない。二度目の突きが、魔物の喉に入った。
魔物が動かなくなると、ミモザは肩で息をしながら振り返った。
「……やった。やったよ、シオン!」
泥だらけの顔で、笑っていた。五歳の春に、鼻の頭に泥をつけて胸を張った、あの顔のままだった。
そのとき、林が静かになった。
鳥の声が、消えた。
木々の向こうから、それは来た。
狼の形をしていた。ただ、大きさは熊ほどもある。地球の動物園で見た熊を、狼の皮で包み直したみたいな化け物だった。
さっきの一匹は、こいつの群れの、ほんの端っこにすぎない。
「下がって、シオン!」
ミモザが、俺の前に出た。
俺を、かばうように。
魔物の前脚が、薙いだ。ミモザの体が、横に飛ぶ。
倒れたミモザの足から、血が流れている。それでもミモザは、剣を離さない。魔物をにらみつけている。泣いていない。
魔物が、身を低くした。
使えば、全部が終わる。
この力を見せたら、俺はもう、この村にはいられない。母さんの焦げた鍋も、父さんの冗談も、ミモザに引っ張り回される毎日も。
使わなければ、ミモザが死ぬ。
あの夜、俺は会社で、終わらない会議に出ていた。みおが一人で、知らない男に襲われていたとき、俺はそこにいなかった。
今度は、いる。
気づいたときには、体が勝手に動いていた。
足元の枝を拾う。構える。
四歳のとき、この林で、木を一本倒した。あのときは、ほんの冗談だった。
あの500日、怒りにまかせて繰り返した技だ。倒しても倒しても、腹の底にあるものは、少しも減らなかった。誰のためでもなく、ただ逃げるために積み上げた力。
それを初めて、誰かを守るために振った。
光が走った。
音は、少し遅れてやって来た。
魔物の姿は、もうどこにもなかった。その後ろの木々ごと、林が一本の道みたいに、まっすぐえぐれていた。その先に、入道雲が見えた。
手の中の枝は、何ともなっていない。
ミモザが、剣を握ったまま、俺を見上げていた。
「……今の、なに?」




