やっと笑った
「え? これ、なに?」
そう言ったつもりだった。口から出たのは、ふにゃ、という情けない声だ。
体が、思うように動かない。柔らかい布で、ぐるぐる巻きにされている。重たいまぶたをこじ開けると、ぼやけた光の中に、女の人の顔があった。
一瞬、みおかと思ったが、知らない人だった。
汗で、前髪が額に貼りついている。目のまわりが赤い。それなのに、口の端だけが、うれしそうに上がっていた。
「生まれてから、ちっとも泣かないんだもん。心配したよ」
女の人は、俺の頬を指でつついた。
「呼んでも呼んでも黙ってるのに、急に笑うんだから。変な子」
その指が、やけに大きい。いや、違う。俺が小さいんだ。
視界の端で、何かが動いた。持ち上げてみると、それは手だった。しわくちゃで、指の短い、赤ん坊の手。
俺の手だ。
「泣かずに笑って生まれる子には、神さまが宿るっていうけどねえ」
部屋の隅で、白い前掛けのおばあさんが言った。
「神さまが宿ってるなら、ついでに俺の稼ぎも何とかしてほしいね」
ドアのほうから、男の声がした。大きな体の男が、頭をかがめて入ってくる。丸太みたいな腕なのに、俺をのぞき込む顔は、今にも溶けそうだった。
「よう、シオン。父ちゃんだぞ」
「めちゃくちゃ可愛いな、この天使」
シオン。
それは、俺がゲームで使っていたキャラの名前だ。
赤ん坊の仕事は、寝ることと泣くことらしい。
ここ最近泣いた記憶はないが、お腹が空いたとき、一人で寂しいとき、構ってほしいときにどんどん泣ける。
そもそもお腹が空くとか寂しいなんて感情が久しぶりだ。
ある夜、夢を見た。
スタバの窓際の席で、みおがこっちに手を振っていた。何か言っている。声は、聞こえなかった。
目が覚めたとき、俺は泣いていた。腹が減ったからでも、寂しいからでもない。
声を上げて、泣いた。
あの夜から、一度も泣けなかったのに。葬式でも、裁判の日でも、涙は一滴も出てこなかったのに。
すぐに、足音が来た。
「はいはい、どうしたの。怖い夢でも見た?」
母さんは、理由も聞かずに俺を抱き上げた。
体を揺らしながら、知らない歌を鼻歌で歌う。下手だった。ところどころ、音が外れていた。
俺は、その腕の中で泣き続けた。
みおがいなくなってから、初めて、みおのことで泣いた。
母さんは、俺が泣きやむまで、ずっと歌っていた。
父さんの高い高いは、高すぎた。
天井の梁に、俺の頭がかすりそうになる。そのたびに母さんが「ちょっと!」と怒鳴り、父さんは「大丈夫だって、俺の息子だぞ」と笑う。何が大丈夫なのか、俺にはさっぱりわからなかった。
父さんは昔、冒険者だったらしい。俺を膝にのせては、若いころの話を聞かせてくれた。竜の尻尾を素手でつかんだ話。エルフの姫に求婚されて、断った話。話すたびに竜が大きくなり、姫が一人ずつ増えた。
「父ちゃんが一番強かったころはな、王都の騎士団だって——」
「はいはい、その話、昨日も聞いた」
台所から母さんの声が飛んできて、父さんは大きな肩をすくめた。
少しずつ、わかってきたことがある。
ここは、アヴァターラの世界だ。
天井には太い木の梁が渡り、壁は白い漆喰で塗られている。窓の外には、ゲームで見たのと同じ形の山が並んでいた。夜になると、母さんが魔法で灯りをつけてくれるので、夜の家の中はコンビニの前くらい明るい。
この国はヒューマンの王国で、俺が生まれたのは、その端っこにある小さな村だ。王都までは、馬車で十日かかる。森と畑のほかには、ほとんど何もない。
ヒューマンのほかにも、この世界にはいろんな種族がいる。耳の長いエルフ。獣の耳と尻尾を持つ獣人。背が低くて、腕っぷしの強いドワーフ。村にもときどき、獣人の行商人がやって来た。初めて見たときは、どう見てもよくできた着ぐるみだった。
魔族の話は、母さんの寝物語で聞いた。昔、空に開いた黒い穴から現れて、人の感情を食べたという、おとぎ話の化け物だ。
「悪い子のところには、魔族が来るんだからね」
そう脅すくせに、話の最後には決まって、俺のおでこにキスをした。
どれも、知っている。ゲームで何年も遊んだのだから。
なのに、この家のことは何も知らない。
ゲームでは、赤ん坊のころも子供のころも、時間設定を早くして飛ばしていた。だからこの家も、この村も、この二人も、俺は初めて見る。
母さんは、よく笑う人だ。
口調が軽くて、肝が据わっていて、料理はあまりうまくない。鍋を焦がした日も、黒くなった煮込みを皿に盛って、胸を張った。
「香ばしくなった」
父さんは文句ひとつ言わずに、全部食べた。食べ終わってから、こっそり水を三杯飲んでいた。
俺は、二人の顔を見比べて、笑った。赤ん坊の口で、声を出して笑った。
二人とも、俺がどこから来たのかを知らない。
それでいいと思った。
隣の家には、俺と同じ月に生まれた女の子がいた。名前は、ミモザ。
母親同士が仲良しで、俺たちはよく、ひとつの毛布に並べて寝かされた。
ミモザは、俺の指をつかむと離さなかった。赤ん坊のくせに、すごい力だった。そっと引き抜こうとすると、顔を真っ赤にして、もっと強く握った。
「この子、きっと負けず嫌いになるよ」
ミモザの母さんが笑った。その予言は、数年後、見事に当たることになる。
歩けるようになって、最初に覚えたのは、暖炉までの道。
夜になると、俺はよちよちと薪の山まで行き、自分の腕ほどもある薪を一本、引きずってくる。それを暖炉に押し込もうとして、毎回、父さんに抱き上げられた。
「危ないって。……ああもう、わかったわかった」
止めても聞かないので、そのうち父さんが、後ろから手を添えてくれるようになった。二人で一本くべるのが、毎晩の決まりになった。
「この子は、ほんとに火が好きねえ」
母さんは、そう言って笑った。
好きなわけじゃない。ただ、そうしないと眠れなかった。
ゲームの中で、薪をくべるのは、いつもみおの係だった。
火がぱちりとはぜるたびに、この家は温かいと思った。そう思うたびに、少しだけ、うしろめたかった。
力のことに気づいたのは、四歳のとき。
裏の林で、拾った棒きれを振ってみた。ゲームで何万回も繰り返した、剣の技。ほんの冗談のつもりだった。
棒の先から、何かが走った。
目の前の木が、音もなく斜めにずれた。少し遅れて、どさりと倒れる。切り口は、磨いた石みたいに滑らかだ。
棒きれは、何ともなっていない。
しばらく、その場から動けなかった。
力は、そのまま残っていた。サーバーで一番になった、あのときのまま。
怖かった。
四歳の子供が、棒きれ一本で木を切り倒す。そんなところを見たら、父さんも母さんも、どんな顔をするだろう。
化け物を見る目で、見られるかもしれない。
それだけは、嫌だ。
倒れた木は、雷が落ちたことにした。
夕方、狩りから戻った父さんは、倒れた木の前でしばらく黙っていた。それから、雲ひとつない空を見上げた。
「雷か。……晴れてたのにな」
そう言って、父さんは笑った。
四歳にして、俺は初めて、親に嘘をついた。




