悲しみを処理しますか?
朝、スマホは震えなかった。
アラームが鳴る前に、自分で止めた。眠った記憶は、ほとんどない。
LINEを開く。トークの一番上は、まだみおのまま、既読もついてない。
休むという考えは、なぜか浮かばなかった。シャワーを浴びて、スーツに袖を通す。体だけが、いつもの朝を覚えていた。
会社に着くと、壁のモニターがいつものようにニュースを流していた。A国とC国の戦闘は、終わる気配はないらしい。
画面が切り替わる。
「昨日、西原区の公園で倒れているのが見つかった女性は、近くに住む会社員の橘みおさんと判明しました。警察は、殺人事件として捜査しています」
AIのキャスターが、戦争のニュースと同じ声で読み上げる。みおの名前を知らない声で聞くのは、初めてだった。
隣の席の宮本くんが、コーヒーを片手に画面を見上げた。
「うわ、公園の事件、殺人だったんですね。治安悪いですね、最近」
俺は、何も言えなかった。
治安悪いなー、最近。
昨日、営業車の中で同じことを思ったのは、俺だった。
宮本くんは、すぐに自分の画面に戻っていった。悪気なんて、どこにもない。
今日はもう、無理だ。しばらく休もうと、人事のアプリを開いた。
休暇の種類から「忌引き」を選び、続柄の欄をタップする。選択肢が、下に伸びた。
配偶者。子。父母。兄弟姉妹。祖父母。孫。配偶者の父母。
指でたどっていく。いちばん下にあったのは、「ペット(犬・猫)」だった。
交際相手は、どこにもない。
戻るボタンを押して、「年次有給休暇」を選ぶ。理由の欄には「私用」と打った。送信すると、すぐに返事が来た。
『申請を受け付けました。ゆっくりお休みください』
AIの返事は、いつも感じがいい。
「とうやくん」
顔を上げると、高嶋部長が立っていた。
「顔色悪いぞ。今日はもう帰って休め。……何かあったのか」
彼女が、と言いかけて、言葉が止まった。
「……友人が、亡くなって」
「そうか。こっちは何とかするから、無理すんな」
部長はそれ以上何も聞かずに、俺の肩を一度だけ叩いた。
さきから連絡が来たのは、その二日後だった。みおの高校からの友達で、三人で何度か飲んだこともある。
『とうやくんには、知らせなきゃと思って』
その下に、転送された訃報が貼られていた。
『故 橘みお 儀 永眠いたしました』
通夜の日時と、斎場の名前。最後に一行、『※告別式は近親者のみにて執り行います』とあった。
斎場の受付では、タブレットに名前を打ち込んだ。焼香の列には、知らない顔が並んでいた。みおの会社の人たち。高校の同級生らしい女の子たち。どこかで、すすり泣く声がする。
列は、思ったより早く進んだ。一人、三十秒くらいだ。
正面に、遺影があった。
みおが、笑っていた。
その写真を、俺は知っていた。去年の夏、スタバで二人で撮った自撮りだ。あいつがSNSのアイコンにしていた一枚。
遺影の中に、俺はいなかった。
隣にいたはずの俺の肩も、店も、テーブルのケーキも、きれいに消されている。背景は、薄い水色に塗り替えられていた。
一番いい笑顔の、理由だけが消されていた。
それを知っているのは、この会場で、たぶん俺だけだ。
抹香をつまんで、額の前に掲げる。手を合わせる。何か言おうとしたのに、何も出てこなかった。後ろの人が、静かに待っている。
遺族席の前で、頭を下げた。小柄な女の人が、顔を上げる。目元が、みおに似ていた。
「……とうやくん、ですか」
「はい」
「みおから、聞いてました」
少しだけ、笑ったように見えた。
「来てくれて、ありがとうございます」
それで、終わりだった。俺の後ろで、次の人が頭を下げていた。
明日も行っていいですか、とは聞けなかった。
それから一週間ほどして、仕事に戻った。家にいても、することがなかった。
営業車で、いつものラジオを流した。
「さて、ここでニュースです」
しげちゃんが、いつもの調子で原稿を読み上げる。
「先週、西原区の公園で会社員の橘みおさんが殺害された事件で、警察は今日、無職の男を殺人の疑いで逮捕しました。調べに対し、男は容疑を認めているということです」
「捕まって、ほんとによかったですねえ」
りんちゃんが、ほっとしたように言う。
「ねー。……さて、気を取り直して、お待ちかねのメールのコーナーいきましょう!」
スタジオに、笑い声が広がる。
俺は、ラジオを切った。
みおの家族のところには、きっと警察から電話が行ったんだろう。俺に教えてくれたのは、しげちゃんだった。
財布から、署でもらった名刺を出す。西原警察署、刑事課、片桐。
三回目のコールで、つながった。
「はい、片桐です」
「あの……橘みおと付き合ってた、とうやです」
「ああ。その節は」
「ラジオで、聞きました。捕まったって」
「……ええ」
少し、間があいた。
「あいつのスマホは、見つかったんですか」
返事はなかった。
「あの既読は、あいつだったんですか。それとも――」
「申し訳ありません」
片桐さんの声は、署で聞いたときと同じで、丁寧だった。
「捜査のことは、ご家族にしかお伝えできないんです」
「……そうですか」
「お力になれなくて、すみません」
電話が切れても、しばらくスマホを耳に当てたままでいた。
答えはもう、どこかにある。俺の知らない部屋で、家族だけが、それを聞いている。
他人の俺には、届かない。
その夜、写真フォルダを開いた。
去年の夏の、スタバの自撮り。切り抜かれる前の一枚には、全部残っていた。店の看板も、テーブルのケーキも、俺の肩も。
みおは、カメラを見ていなかった。腕を伸ばしてスマホを構える俺のほうを向いて、笑っていた。撮るなら盛れるやつね、と言いながら。
遺影のみおは、正面を向いていた。顔の向きまで、直されていたらしい。
画面の上から、通知が降りてきた。みおの顔に、重なる。
『カーム 強い悲しみの状態が続いています。悲しみを処理しますか?』
その下に、ボタンが二つ並んでいた。
[今すぐ処理する][あとで]
しない、はなかった。
眠れない夜の数も、上がりっぱなしの心拍も、スマホは全部知っている。カーム。フォーミュラ社の、感情ケアのAIだ。その社名をどこかで聞いた気がしたけど、思い出す気力はなかった。
指が、「今すぐ処理する」の上で止まる。
処理すれば、楽になるんだろう。
でも、楽になった俺は、きっとまた言う。
治安悪いなー、最近、って。
「……いらない」
声に出すと、スマホが短く震えた。
『かしこまりました。悲しみは、いつでも処理できます』
今日、スマホが震えたのは、それだけだった。
パソコンの電源を入れた。
聞き慣れたタイトル画面の音楽。ロードが終わると、いつものハウスだ。
木の床に、みおが勝手に置いた人をダメにするソファ。二人で素材を集めて作った暖炉の火が、小さくなっていた。
薪をくべるのは、いつもみおの係だった。火が小さいとハウスが寒く見える、とか言って、ログインするたびに一本ずつ足していた。
倉庫を開く。二人で集めた薪が、まだたくさん残っていた。
一本取り出して、暖炉にくべる。
火が、少しだけ大きくなった。




