終章(「Lyle」・完)
終章
地球はアメリカ、ニューシティの銀河連盟執政官室に、チャーリィ・オーエンは、一人深々と椅子にもたれている。百二十階にある執政官室の大きな窓を覆うテクタイトガラスから、薄闇がゆっくりと忍び込んできていた。
どっしりとしたオークのデスクには、今、彼が作成し終えた一通の文書が乗っている。この書類は、明日一番に、銀河中のテレックスに送られ、コンピューターに納められることだろう。
執政官辞任の通達書であった。銀河中の連中がどんなに騒ぎ立てようとも、彼はそれを引っ込める気はなかった。
もう、世界は過去を振り捨て、新しい時代へと歩み始めて良い頃だった。次の執政官任命推薦も同署してある。アルフレッド・ハーレィ・ブルー。彼なら、新しい時代に適任だ。
「四十一年だ。四十一年経ったのだ」
チャーリィはひっそりと呟いた。赤い髪はすっかり白くなり、これまでの辛苦が深い皺となって厳しい顔に掘り込まれていた。
銀河中、いや、宇宙中の危機であった、あの恐ろしい災厄から、四十一年が経っていた。
ライルの命を掛けた防御によって、『意志』の脅威はこの宇宙から永遠に去った。銀河の半分は失われたが、それでも全てを失ったわけではなかった。
人々は、まず、太陽系を拠点として、建て直しに掛かった。恐慌に陥り、何もかも失った人々を、統率し秩序立てるのは骨の折れる仕事だったが、チャーリィは辛抱強くそれをやり遂げていった。
彼らは、もはや、絶望に脅える必要はなかったのである。彼らの前には、希望と未来があった。
その一つの希望が、小さな宇宙艇という形で現れた。ライルの持っていた船の一つだ。
初め、それを聞いた時、チャーリィはライルが戻ってきたのかと、狂おしい希望を抱いた。
だが、宇宙艇には誰も乗ってはいなかった。
何かメッセージでもないかと、チャーリィは船の中に入った。狭いコクピットである。
シートに座った時、彼にしか判らない方法で小さなカプセルを見つけた。それだけだった。
しかし、その船には知識が詰まっていたのである。
コンピューターが蓄積していた情報の一つに、熱量死した太陽と惑星の再生の手段があったのだ。既に砕けてしまった星々や分解してしまった惑星は無理であったが、まだ、質量が残されている世界の人々は、さっそくその仕事に取り掛かった。
もちろん、これには長い時間と努力が要る。未だ、全てが戻っているわけではなかった。だが、既に、人々は自分達の故郷に戻り始め、世界を復活させようと努力を続けている。
そして、確実な速度で、世界の人口は再び増え始めていた。
まだ、何もかも全て以前のように戻っているわけではなかったし、同じ道を歩む必然もなかった。
ただ、人々を猜疑心に陥れ、欲望と暴力の果ての争い事はずいぶん姿を消したような気がする。
人々の特性として、既に蓄積されているこれらの暗い衝動は、決してなくなりはしないだろうし、これからも、権力や欲望の為に、血を流す争いも続いていくだろう。
だが、それによって、『生命』そのものが脅かされる危険はなくなったのである。人々は争い、憎しみ、戦い、そして、学んでいくのだろう。真の進化の道を。
銀河はM15星団辺りの広大な宙域と、オリオン大星雲を失った。尊い犠牲となったのである。その辺りは、ただ、何もない暗黒の空間が広がっている。
いつしか、闇が部屋の中まで滲み広がっていた。ガラス越しに星々の瞬きが臨まれる。空を見れば、今は既にないオリオン座の姿が見える。
チャーリィの思いは、またしてもあの時に戻る。
オリオンのライルの船の中で、最後に抱き締めた肌をチャーリィの腕はまだ忘れない。あの甘い唇を、彼の唇はまだ覚えている。
まるで、昨日あったことのように、チャーリィの中でライルは瑞々しく甦る。ライルはあの時、初めて言ったのだ。
『愛している』と。
――私はなんと未練がましく扉を叩き、何度も名を呼んだことだろう。
(約束したではないか。全てが終わったら、結婚すると。子供を作って育てようと)
だが、扉は二度と開かれなかった。ライルは闘うために行ってしまった。
チャーリィは若かりし頃を回想する。近頃、それがめっきり多くなってきた。もう、八十を越している。最近、疲れがひどく堪えるようになってきていた。
「もう、私も仕事を降りてもいいだろう? ライル。私は充分に、責任を果たしたぞ」
思えば、ライルはずいぶんと重い仕事を、自分に押し付けてくれたものだ。
あれから、四十一年。考えてみれば、あっという間だったのかもしれない。
チャーリィはついに誰とも結婚もせず、仕事を人生の生き甲斐として夢中で働き続けてきた。
ミーナはいつまでも若々しい素敵なおばあちゃんになっていた。
彼女の夫、エドモンド・ハーレイが死んだ時、彼女と結婚しようかと考えたこともあった。しかし、やはりチャーリィは、ライルを忘れる事ができなかったのだ。
ミーナは養子を取り、その子は立派な男に成長した。栗色の髪と緑灰色の瞳のアルフレッドを、彼女は溺愛したけれど、なかなかまっとうな人物に育ったと思う。後を託してもいいと、思うほどに。
「あの頃は良かったな。勇がいて、シャルルがいて、みんながいた。そして、お前がいた」
チャーリィは部屋の灯りを点けず、闇が濃く沈んでいくままにまかせていた。その闇の中に話しかける。側面の窓から、星の光とシティの不夜の輝きが、広い執務室をぼんやりと照らしていた。
今夜はなぜか、ライルの存在がとても身近に感じられる。
彼はオリオン星雲と一緒に消滅したはずなのだが、チャーリィには、どうしてもそれが信じられない。
ライルの肉体は滅んでも、その精神は存在し続けているのではないのだろうか?
宇宙の『生命』とひとつになって。
チャーリィは時々ライルが側に居て、彼を見守ってくれているような気がしてならなかった。
ドアの向こうから、足音が近づいてきた。軽やかで、規則正しい……。チャーリィは、その足音を良く覚えている。足音は、ドアの前で止まった。
ドアが静かに開かれる。夜の風が吹き込んできた。
「ライル……。待っていたよ」
チャーリィは満足そうに呟いた。
二千三百七年十二月十五日、銀河連盟全権執政官チャーリィ・オーエン氏、死去。八十二歳。
災厄と呼ばれる最終戦争から今日までの銀河種族へ果たした彼の貢献を感謝して、銀河の尊父の尊称を贈る。
翌年、一月一日付けで、新連盟執政官アルフレッド・ハーレィ・ブルー就任。年号を改め、新世紀とする。これは、故前全権執政官の遺志である。
追記:
チャーリィ・オーエン氏の葬儀は行われなかった。死亡宣告は、銀河の全世界のメディアを通して発表されたが、発信元はついに特定されなかった。
彼の遺骸が発見されていないという噂も一部で囁かれているが、真偽のほどは今もって不明である。
 




