Side プロノア
傭兵団の野営地から、少し離れた小高い丘の上。
夜風に、天幕の布がばさりと鳴った。内側では、卓上のランプが、小さな炎を揺らしている。
簡素な折り畳みの机には資料の束。そのどれにも、プロノアは目を通していなかった。天幕の入口の布が持ち上がり、青年が入ってくる。傭兵団に行っていた使者だ。
「……戻りました」
「ご苦労様。宝珠は、渡せたの?」
「はい。ヤルバートは、確かに受け取りました」
「そう。それなら、いいわ」
「しかし、代表。『従魔の宝珠』は、我らの宝物庫に残っていた最後の秘宝です。それを、傭兵に貸し出すなんて」
「貸したのではなく、投資したのよ」
プロノアは、冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
「あの女王は、何百年も部屋に閉じこもっているだけの存在。けれど、あれほどの城を持っているのだから、ポイントだけは、桁違いに溜め込んでいるはず。その気になれば、中級や上級の魔物を、いくらでも呼び出せる」
「だからこそ、宝珠で、その魔物を奪う……」
「ええ。女王の最大の切り札を、そのまま傭兵団の戦力に変える。これで、高額召喚という手段は、事実上、封じられたわ」
自分に言い聞かせるような声だった。
使者は、少しためらってから、口を開いた。
「ただ、代表。ヤルバート頭目からの伝言が、もう二つあります」
「聞くわ」
「一つ目は、ソフィア種が戦場に同行することを、拒絶されました。『足手まといだ』と。見物したければ、後ろの丘で覗け、とのことです」
プロノアは、わずかに眉を動かしただけだった。
「……そう。予想の範囲内よ。あの男は、私たちを見下しているのでしょう。戦場にも出したくない、と」
静かに言うと、プロノアは、天幕の入口へ視線を向けた。
「ポイントの半分を追加で要求してきたのも、同じ理由よ。あの男は、私たちを、金だけ出す依頼主としか見ていないの」
「……悔しくはないのですか」
使者が、遠慮がちに尋ねた。
「悔しいわ。でも、感情で動けば、計画が崩れるだけ」
プロノアは、淡々と答えた。
「それに、ポイントの半分なら構わないの。……肝心なものは、渡さないのだから」
「では、古城そのものと、吸血鬼の代表権のほうは……」
「ええ。城と代表権は、傭兵団には渡さない。契約書には、『宝』とだけ書いてあるわ。何が宝なのかを決めるのは、私たちよ」
プロノアは、眼鏡の位置を指で直した。
「それに、ポイントの所有権は渡しても、ショップを使えるのは、代表権の持ち主だけ。傭兵団が武具を呼び出したいなら、私たちの許可が要るのよ」
唇の端に、薄い笑みが浮かんだ。
「……さすがです、代表」
青年は、深く頭を下げた。
しかし、その肩が、わずかに強張っている。
「どうしたの。もう一つの伝言は?」
「その……」
使者は、言いにくそうに唇を結んだあと、思い切って顔を上げた。
「二つ目は、報告です。古城が、結界に覆われていました」
「……何ですって?」
プロノアの手が、止まった。
「半球状の、三重の結界です。傭兵団の魔導士が、探知魔法を当てましたが、触れた瞬間に霧散したと。ヤルバートは、『結界があるなんて聞いていない』と、ひどく苛立っておいででした」
「結界……?」
プロノアは、思わず聞き返した。それから、勢いよく立ち上がった。
「ここからでも、確かめられるはずよ」
天幕の入口の布を、押し上げる。
丘の下に広がる闇の向こう、遠く、古城の輪郭が見えた。その全体を覆うように、淡く青白い光の膜が、静かに揺れている。
「……本当に、張られているのね」
あれは、おそらくショップの防衛設備だ。ポイントさえあれば、誰でも買える。そのこと自体は、少しも不思議ではなかった。
不思議なのは、時期だ。
「なんで、最初から結界をつけておかないのよ……!」
苛立ちが、声に混じった。
あの女王は、何百年も、結界をつけていなかった。だからこそ、ポイントがあっても、防衛設備を買えない事情があるのだと、思い込んでいた。
「……今になって、突然。何があったの?」
まさか、答えが『ただ、面倒だったから』だとは、プロノアには、想像もつかなかった。
「ヤルバートに伝えなさい。結界の件は、こちらも把握していなかった。何かあれば、すぐに連絡を、と」
「承知しました」
青年が天幕を出ていったあとも、プロノアは、入口の隙間から見える青白い光を、見つめ続けていた。
胸の奥で、小さな不安が、じわじわと形を作っていく。
(……何かが、おかしい)
すべて計算どおりに進んでいるはずだった。
それなのに、見えない誰かの影が、盤面の向こう側に、立っている気がした。
「……いいわ。誰が相手でも、私は退かない」
静かにつぶやいて、眼鏡の奥の瞳に、再び執念の炎を灯す。
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