第33話 平穏な日々を
しばらく、二人とも黙って湯に浸かっていた。湯気の向こうで、ルーナが気持ちよさそうに目を閉じている。
「ねぇ、アトラちゃん」
「なに?」
「ラーメン、おいしかったね〜」
「ええ。気に入ってもらえて、よかったわ」
「また食べたいな〜。あ、毎日じゃなくていいよ? たまにで〜」
「……ちゃんと分かってるのね」
「えへへ〜。アトラちゃん、ポイントのこと、すっごく気にしてるもん〜」
ルーナは、からかうように笑った。
「それにね、ホネホネさんたちも、頑張ってたね〜。お廊下も、お部屋も、さっきよりきれいになってたし」
「そうね。頑張ってたわ」
「あの子たち、疲れないんでしょ〜? ずっと、お掃除してくれるのかな〜」
「……休ませる日も、作ってあげないとね」
「やっぱり、アトラちゃんは優しいね〜」
「そういうことじゃなくて、効率の問題よ」
そう言い返すと、ルーナは「はいはい〜」と、ふにゃりと笑った。
少しだけ間が空いて、ルーナは、のんびりと続けた。
「おいしいご飯食べて、お風呂に入って、ホネホネさんたちがお掃除してくれて……こんな日が、ずっと続くといいね〜」
何気ない、ひとり言のような声だった。
「……そうね」
そう答えたものの、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
明後日には、この穏やかな日々を壊そうとする人たちが、攻めてくる。
湯の中で、そっと拳を握る。
「アトラちゃん?」
「……なんでもない。のぼせる前に、上がりましょう」
「えぇ〜、もうちょっと〜」
「ダメ。明日も忙しいんだから」
◇◇◇
お風呂から上がると、ルーナは風魔法で髪と体をぱっと乾かして、一目散にベッドへ飛び込んだ。
「ちょっと、ちゃんと拭いてから……って、魔法で済ませたのね」
「アトラちゃんも、やってあげるよ〜?」
「遠慮しておくわ。ルーナは加減ができないでしょう」
「ひどい〜」
ふくれっ面のルーナを横目に、私はタオルで髪をしっかりと拭いた。湯上がりの体は、まだほかほかと温かい。これなら、少しは眠れるかもしれない。
それから、ソファのほうへ歩いていった。
「アトラちゃん、どこ行くの〜?」
「ソファで寝るわ。二人でベッドは狭いでしょう」
「え〜……」
少し、さみしそうな声だった。聞こえなかったふりをして、毛布を広げる。
「……おやすみ、ルーナ」
「……おやすみ〜」
毛布をかぶって、目を閉じた。
◇◇◇
眠れなかった。
何度寝返りを打っても、まぶたの裏に、橙色の光が浮かぶ。ひとつ、ふたつ、と数えているうちに、また増えていく気がして、目を開けてしまう。
(開戦は明後日の正午。ルールがある以上、今夜は攻めてこないはず。……それでも、偵察や嫌がらせを仕掛けてこないとは限らない)
考えれば考えるほど、不安だけが増えていく。
(コウモリたちには、交代で外を見張るよう頼んである。骸骨兵士たちも、城の中を巡回している。大丈夫……大丈夫、なはず)
そう言い聞かせても、胸のざわつきは消えなかった。
カーテンレールのほうから、きゅう、と小さな鳴き声がした。見張りの交代だろうか。窓がかすかに開く音がして、ひとつの羽音が外へ出ていく。
もう一度、寝返りを打った、そのときだった。
「……アトラちゃん」
小さな声が、暗闇の中でささやくように響いた。
「……起きてたの」
「うん。アトラちゃん、寝てないでしょ〜」
「……どうして分かるの」
「だって、ソファが、ぎしぎしいってたもん〜」
「…………」
ばれていたらしい。
「眠れない、の〜?」
「……少しだけ」
「そっか〜」
少しの沈黙のあと、ルーナが、もぞもぞと動く音がした。
「アトラちゃん、こっち来る〜?」
「え?」
「ベッド。ひろいから、二人でも寝れるよ〜」
「……大丈夫よ。ソファでも、ちゃんと休めるから」
反射的に、そう答えてしまった。
「えぇ〜、遠慮しないでよ〜」
「遠慮じゃなくて……」
「アトラちゃんが寝てないと、私も気になって眠れないもん。一緒に寝よ~」
「…………」
(そんなふうに言われたら、断れないじゃない)
「……本当に、いいの?」
「いいよ〜。ほら、おいでおいで〜」
暗闇の中で、ルーナが、バタバタと布団を叩く音がした。
少しだけ迷ったあと、私は、そっと立ち上がった。ルーナはベッドの端っこへ詰めて場所を空けてくれた。
「……入るわよ」
「どうぞ〜」
ふかふかの布団に体を沈めると、ほのかな温もりが、背中に伝わってきた。お風呂上がりの、石けんの匂いがする。
「どう〜?」
「……悪くないわね」
「でしょ〜?」
ルーナが微笑んでくれた。
「ねぇ、アトラちゃん」
「なに?」
「私ね、戦えないけど〜」
ルーナの声が、いつもより、少しだけ冷静だった。
「アトラちゃんが、本当にあぶなくなったら、ちゃんと出るから〜。約束したもん〜」
「……うん」
「だから、安心して寝ていいよ〜」
「……ありがとう」
そう答えた声は、自分でも、少しだけ震えていた。
ルーナは何も言わなかった。ただ、布団の中で、そっと私の指先に触れてきた。
その小さな手の温度を感じているうちに、胸のざわつきが、少しずつ静かになっていく。
どれくらい、そうしていただろう。
隣から、すぅ、すぅ、という規則正しい寝息が聞こえてきた。
(……もう寝てる)
早すぎる。呆れながらも、口元が緩んだ。
隣にいる温もりが、不思議なほど、心を落ち着かせてくれる。まぶたが、少しずつ、重くなっていく。
(……明日は、カメラの実験ね。それから、トラップの設置。明後日は――)
考えているうちに、意識が、ゆっくりと遠のいていく。思考が、少しずつ、まとまりを失っていく。橙色の光も、百人という数字も。
そんな中でも、繋いだ指先の温もりだけが、最後まで、はっきりとそこにあった。
ルーナの寝息を聞きながら、私も、静かに眠りに落ちた。
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