第17話 『パートナー』
胸の奥に落ちた小さな問いが、私の頭の中で静かに広がり、浸食していく。
目を覚ましたのは、ほんの昨日のことだ。
名前も、過去も、自分がどこの誰なのかすら、思い出せないまま、二つの月が浮かぶ異世界に一人放り出された。
今の「アトラ」という名前さえ、ルーナにもらったものだ。
言葉や知識だけが頭の中に不自然に詰まっていて、どれほど不気味に感じたか。
(……そもそも、私の知識はこの世界とは違う地球のものだ。私は地球で生まれた人間なの?それとも……)
それなのに、目覚めてからの私は、立ち止まる暇すら与えられなかった。
4日後に敵が攻めてくると言われ、地下へ行くのも面倒くさがる、ぐうたら女王ルーナの「お世話係」になり、生き残るために必死でポイントを計算し、古城を大掃除した。
大食堂では、ダストゴーレムとの激闘もあった。
頭上に巨大な拳が振り上げられたとき、
(……これで、いっそ楽になれるんじゃないかしら)
一瞬でも、そんな考えが頭をよぎってしまうほどだった。
ずっと、冷静なしっかり者を演じてきた。
そうしていなければ、自分が「空っぽの存在」であるという事実に押し潰されそうだったから。
「……怖いな」
暗闇と静寂の中で、不意にその本音がこぼれ落ちた。
自分が何者かも分からない恐怖。
強大な敵が押しかけてくる重圧。
この城を守りきれなかったら、私は居場所を失い、一人ぼっちになってしまうという孤独感。
一度あふれ出した不安は、もう止められなかった。
(……私、ちゃんと……守れるのかな……)
胸が締め付けられて、息がうまく吸えない。
(……あ)
視界が、かすむ。
ぽろりと落ちた大粒の雫が、湯船の静かな水面を小さな音で揺らした。
声を殺そうと、両手で顔を覆う。けれど、目からあふれ出る雫はどうしても抑えきれなかった。
「……ッ……ぐ……、ぅ……っ」
湯船の中で、私は膝に顔を押し当て、声を殺してポロポロと泣き続けた。
(私は一体どこのだれで、どうして記憶がないのだろうか?)
そう、『何度』も『何度』も自問自答を繰り返した。
どれだけ自問自答を繰り返しても、浴槽からは何の答えも返ってこない。
誰にも見せられない、見せたくない、情けなくて惨めな姿。
――その時だった。
「……んぁ……? アトラ……ちゃん……?」
ベッドの方から、パタパタと裸足で石床を叩く音が近づいてきた。
爆睡していたはずのルーナが、目を擦りながら歩いてきたのだ。
異変を察したのか、ルビー色の瞳を半分だけ開けて浴槽を覗き込んでくる。
次の瞬間、ルーナの顔がカッと見開かれた。
「えっ……!? ア、アトラちゃん……!? どうした……の!?」
いつも怒ったり、ツッコんだりしてくるアトラが、膝を抱えてボロボロと涙を流している。
それはルーナにとって、生まれてから数回しかない異常事態だった。
「ど、どうしたの……!? どこか痛いの!? な、何かあったの……!?」
パニックを起こしたルーナは、浴槽の周りをオロオロと行き来し始めた。
慌ててベッドから抱き枕を持ってきて浴槽に落としそうになったり、空のケーキ皿を持ってきたりと、まったく要領を得ない。
「あ、そうだ! 何か甘いもの食べる? ショップでケーキ召喚する……?」
「う、う……っ、ちが、うの……っ」
慌てふためくルーナの姿が愛おしくて、けれどそれ以上に温かくて、涙がますます溢れて止まらなくなる。
「痛くも……何も……ないのよ……っ。ただ……、涙が……止まらなくて……っ」
私は途切れ途切れに言葉を吐き出した。
「私……自分が…誰かも、分からないのよ……っ。名前も……過去も……何もなくて……。敵が来るのに……私、ちゃんとできてるのかな……って……っ。この城を失ったら……私、どこに行けばいいのか……っ」
ずっと胸の底に押し込めていた、弱音と情けない本音。
呆れられると思った。面倒くさがられると思った。
けれど――。
「……アトラちゃん」
静かで、温かい声が頭上から降ってきた。
バシャリ、とお湯が揺れる。
ルーナが浴槽のフチに膝をつき、そのまま湯船の中の私に向かって、身を乗り出すように抱きついてきたのだ。
服が湯船に浸かるのも構わず、華奢な小さな両腕で、私の頭と肩をぎゅっと抱きしめてくる。
「……?」
「アトラちゃんは、アトラちゃんだよ〜」
ルーナの細い腕から、体温が伝わってくる。
吸血鬼女王の身体は、お湯よりも温かかった。
「どこから来たとか、昔のことが分かんなくたって……今、私を起こしてくれて、一緒にケーキ食べて、お風呂に入ってくれたアトラちゃんが、本物のアトラちゃんだよ〜」
私の耳元で、ルーナは静かに、けれど真っ直ぐに言う。
「名前なら、私があげたでしょ? アトラちゃんは私のお世話係で、大切なパートナーなんだから……どこにも行かなくていいんだよ。ここが、アトラちゃんの居場所なんだから」
「ルーナ……」
「それにね……」
ルーナは私を抱きしめたまま、ふんすと胸を張った。
「私、吸血鬼の女王様なんだよ〜? アトラちゃんが泣いちゃうくらい怖い敵なら、私がみーんな返り討ちにしてあげる! だから、心配しないで、もっと私に甘えていいんだよ」
そう言って優しく頭を撫でていたルーナの手が、ふと止まる。
私を抱きしめる腕に少しだけ力がこもり、ルビー色の瞳に、見たこともない鋭い光が宿った。
まるで時が止まったような重圧があった。
悠久のときを生きる本物の『吸血鬼の女王』としての威厳が、その場の空気を一瞬で塗り替える。
「……なんなら、今から敵の基地、全部滅ぼしてこようか? 創造神の神罰くらい、私なら力ずくで乗り越えてみせるよ。それに――『あいつらはダストゴーレムと同じ魔物だから法典の適用外だ』って、創造神を説得したっていいんだし」
「ダメよ……、そんなの……っ」
かすれそうな声で、弱々しく反応した。
私が消えないために、ルーナが消えてしまうなんて絶対に嫌だ。
私の制止を聞くと、ルーナの瞳からふっと重圧が消え、いつもの幼い顔立ちに戻って「えへへ」と可愛らしく笑った。
「そっか〜。アトラちゃんがダメっていうなら、やめとく〜」
不器用な手つきで、ポンポンと私の濡れた頭を優しく撫でるルーナ。
その真っすぐな温もりが、私の胸の奥に溜まっていた最後の氷を完全に溶かし去った。
「あ……ぅ……っ……うああぁぁっ……!!」
私は我慢するのをやめ、湯船の中でルーナの服にしがみついて、声をあげて大泣きした。
ルーナは嫌がる素振りも見せず、身体が濡れるのも気にせずに、私が泣き止むまでずっと抱きしめ続けてくれた。
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