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【長編版】王子が生まれたので、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?  作者: 塩野さち


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第9話 エリアナの要求、ユゴーの要求

【ユゴー視点】


 やっと見つけたお方は、木の棒を持った子どもたちに囲まれていた。


 王都から、歩いて数日。


 コエンナという港町である。地図の上では、何度も指でなぞった場所だった。これほど近くにおられたのかと、私は通りの端で息をついた。


 捜索には、何日もかかった。


 大っぴらに名前を出すことはできない。銀髪の若い女性を見なかったかと、街道の宿や渡し場で少しずつ尋ねてきた。


 最後に役立ったのは、王家の紋章でも、人相書きでもなかった。


 木刀を差した、やけに強い娘。


 港でそう尋ねると、すぐに『潮風亭』という宿を教えられた。


 表へ回った私の耳に、裏庭から明るい声が届いた。


「トマ、足を置いてから振って」

「置いた!」

「うん。今のは、よかったよ」


 低い塀の向こうで、銀髪が揺れる。


 私は王宮で、何度かエリアス殿下のお姿を拝見したことがある。白い制服に、銀の獅子。大人たちの話を、背筋を伸ばして聞いておられた。


 いま目の前にいる方は、子どもの足元へしゃがみ込んでいた。


 上着の袖をまくり、土のついた棒を一緒に拾い、女の子に何か言われて笑っている。


「もう一回、見てて!」

「見てるよ。ミナも、ゆっくりでいいから」


 あれほど気を張って捜していた名前が、この庭では、何のためらいもなく呼ばれていた。


「エリアナねーちゃん!」


 私はすぐには、声をかけられなかった。


◇◆◇


 稽古が終わり、子どもたちが表の通りへ出てきたところで、私は進み出た。


「失礼いたします。エリアナ様でいらっしゃいますね」


 彼女が顔を上げた。


 笑みが、静かに消えた。


「……どなたですか」

「ブライ侯ロドニーに仕えております、ユゴーと申します」


 声を落とし、封書を差し出す。


 彼女の目が、封蝋の印へ動いた。それから私の顔、背後の通りへと移る。


「侯爵から?」

「はい。ご本人へお渡しするよう、預かってまいりました」


 受け取る指は、落ち着いていた。


 ただ、先ほどまで子どもへ向けていた表情は、もうなかった。


「ここで読んでも?」

「もちろんです」


 封を切り、便箋を開く。


 私は一歩下がって待った。通りでは荷車が石を踏み、車輪の音が長く続いていた。


 読み終えた彼女は、手紙を元の折り目でたたんだ。


「お話をしたい、とありますね」

「はい」

「私を、連れ戻すために来たのですか」

「その命令は、受けておりません」


 彼女が、こちらを見た。


「主からは、まずご本人の望みを伺うようにと。お会いしたい旨を、お伝えするのが私の役目です」


 これは、言い方を選んだ返事ではない。


 王宮を離れた主が、馬車の中で私に告げた言葉だった。


 エリアナ様は手紙へ目を落とし、それから宿の入口を見た。


「少し、お話ししましょう。リュカにも、一緒にいてもらっていいですか」

「はい。お望みのように」


 彼女は、そこで初めて小さく息をついた。


◇◆◇


 潮風亭に入ると、焼けたパンと煮込みの匂いがした。


 旅の埃で乾いていた喉が、その匂いだけで動いた。


「ハンナさん。少し、お話をする場所を借りてもいいですか」


 女主人が、私を一度見た。


「奥の帳場(ちょうば)を使いな。今朝の仕込みは、あたしがやっておくよ」

「ありがとう。すぐ戻るね」

「慌てなくていいから」


 奥の卓で、灰色の髪をした男が杯を置いた。


「客か」

「はい。セヴラン師匠、少しお話ししてきます」

「おう」


 私は足を止めかけた。


 セヴラン。


 勇者まで、この宿にいるのか。

 いや、居て当然か。この勇者は、こう見えてコエンナ伯である。自分の領地にいるだけなのだ。ただ、宿にいるのは不思議だった。


 視線に気づいた男が、こちらを見た。無精ひげのある顔に、特別な表情はない。それでも私は、背筋を伸ばさずにはいられなかった。


「お前も何か食ってけ。朝から歩いてたんだろ」


 返ってきたのは、思いがけない言葉だった。


「……恐れ入ります」


 エリアナ様は少し笑い、奥へ進んだ。


 帳場には、小さな机と帳面の棚があった。窓から入る光の中で、干した薬草が揺れている。


 リュカと呼ばれた青年も、椅子を運んで入ってきた。腰には剣があったが、彼はそれに触れず、彼女の隣へ座った。


 エリアナ様が、机に手紙を置く。


「先に、私の希望をお伝えしてもいいですか」

「伺います」

「私は、王宮へ戻るつもりはありません」


 声は静かだった。


 机の端に添えられた指が、少しだけ曲がっている。


「侯爵のお話を聞くことと、戻ることは、別にしてください」

「承知いたしました。面会のお約束を、帰還への同意としてお伝えすることはいたしません」


 隣で、リュカの肩がわずかに下がった。


「それから、ここでは、私の昔の身分を話さないでください。ハンナさんも、子どもたちも、知りません」


 私はうなずいた。


「私から、町の方へお話しすることはございません。ただ、主には、お居場所をご報告する必要がございます」

「それは構いません。お会いするなら、侯爵にも分かっていただかないと」


 彼女は一度、閉じた扉を見た。


「でも、王宮の人たちを連れてきたり、ここの人に私の様子を調べさせたりは、しないでほしいんです」


 表の店から、ハンナという女主人の声が聞こえた。続いて、皿を重ねる音がする。


 彼女が守ろうとしているものは、この小部屋のすぐ外にあった。


「そのご希望を、主へそのままお伝えします。主がどこまでお約束できるかは、私の一存では申し上げられません」

「……はい」

「お返事をいただいてから、面会をお決めいただく形で、よろしいでしょうか」


 エリアナ様は、ゆっくりうなずいた。


「そのほうが、ありがたいです」


 私は手帳を開き、伺った条件を書き留めた。読み返して確かめていただくと、彼女は一つずつ、うなずいた。


◇◆◇


「では、私からも、一つお願いしてよろしいでしょうか」


 彼女が顔を上げた。


「はい」

「条件について主からお返事が届きましたら、どうか一度、直接お話を聞いていただきたいのです」


 彼女の指が、手紙の上で止まった。


「主は、王都の軍や地方の仕事に混乱が出ていると、お話しでした。そのうえで、ご自身がエリアナ様にお会いしたいと」


 私は言葉を切った。


 主から聞いた以上のことを、付け加えるべきではない。


「何をお頼みするのか、その内容を決める権限は私にはございません。ただ、私の説明だけで、主のお考えをすべてお伝えすることもできません」

「だから、ご本人のお話を」

「はい。お引き受けになるかどうかは、そのあとでお決めください」


 エリアナ様はしばらく黙っていた。


 リュカも、代わりに答えなかった。机の上の手紙を見て、それから彼女へ視線を戻しただけだった。


「私が断ったら、ユゴーさんは困りますか」


 思いがけない問いだった。

 私は少し考え、正直に答えた。


「お会いできなかった理由を、主へご報告することになります」

「叱られたりは」

「私の役目は、お返事を伺うことです。望んだ返事を、無理にいただくことではございません」


 彼女の指が、手紙から離れた。

 長く、細い息がこぼれた。


「……分かりました。条件を聞いていただけるなら、私も侯爵のお話を聞きます」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます」

「ただし、場所はコエンナでお願いします」

「こちらへ、お越しいただくのですね」

「はい。私にも、ここの仕事がありますから」


 彼女は少し考え、続けた。


「お昼どきは、お客さんが多いんです。できれば、そのあとに。ハンナさんにも相談して、ゆっくりお話しできる時間を作ります」


 私は、手帳へ筆を戻した。


 王都の屋敷でも、謁見室でもない。港町の宿で、昼の客が引いたあと。


 主にお伝えする面会の段取りを、そのとおりに書き留めた。


「ご希望を主に伝え、お返事をお持ちいたします」

「はい。お待ちしています」


 彼女の表情が、ようやく少しやわらいだ。


「ユゴーさんも、何か食べていかれますか」

「いえ、すぐに便りを――」


 腹が鳴った。


 狭い帳場では、隠しようがなかった。

 リュカが、口元へ手を当てる。


 私は手帳を閉じた。


「……少し、いただけますでしょうか」

「もちろん」


 エリアナ様が笑った。


 裏庭で見たのと、同じ笑顔だった。


◇◆◇


 表の卓へ戻ると、ハンナが煮込みを出してくれた。


「話は済んだかい」

「はい。お部屋をありがとうございました」

「そりゃよかった。冷めないうちにお食べ」


 匙を入れると、湯気が上がった。口へ運んだ豆はやわらかく、肉の味がよく染みている。


 肩に入っていた力が、ようやく抜けた。


 エリアナ様は前掛けをつけ、隣の卓へ水を運んでいた。リュカは女主人へひと言断り、靴屋へ向かうらしく、道具袋を腰へ直している。


 勇者……いや、コエンナ伯は、皿に残った煮込みをパンですくっていた。


 私は食事を終えてから、主への報告を書いた。


 お探しの方は、コエンナの潮風亭にいらっしゃること。


 お元気で、ご自身の仕事を持っておられること。


 面会にあたっての条件と、侯爵ご自身のお話を聞く意向がおありになること。


 筆を止め、店内を見た。


「エリアナねーちゃん、明日も同じ時間?」


 入口から、先ほどの少年が顔を出していた。


「うん。遅れないでね」

「ねーちゃんもな!」

「私は、ここに住んでいるんだけど」


 女主人が笑った。


 私は手紙の最後に、面会場所をもう一度記した。


 『ご希望をご承諾いただけるなら、お話はコエンナにて。侯には、こちらへお越しいただきたく存じます』


 主は、ご本人の望みを伺えとお命じになった。


 その返事を、私はようやくお届けできる。


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