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【長編版】王子が生まれたので、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?  作者: 塩野さち


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第10話 勇者の像は等身大で

【エリアナ視点】


「像を建てたいんです」


 朝の潮風亭で、その話が始まったとき、師匠は魚の骨を皿の端へよけていた。


「何の」

「勇者セヴラン様の」

「いらん」


 返事が早かった。


 向かいに座る木彫り職人のベルナールさんは、広げかけた紙を持ったまま固まった。船の飾りや店の看板を彫る人で、指の節に細かな傷が並んでいる。


「いえ、港の広場にですね」

「いらん」

「入港する船からもよく見えるように、こう、大きく――」

「なおさらいらん」


 私は水差しを持ったまま、立ち止まってしまった。


 ベルナールさんの紙には、剣を掲げた男の姿が描かれている。その足元にある小さな点をよく見ると、人間だった。


「……師匠、ずいぶん大きいですね」

「お前まで感心してんじゃねえ」


 ハンナさんが、カウンターの向こうで笑った。


「いいじゃないか。みんな、あんたにお礼をしたいんだよ」

「だったら魚を一匹くれりゃいい。町へ帰るたびに、自分の顔を見せられてたまるか」


 師匠はパンを取り、話は終わりだと言うように、残った煮汁をぬぐった。


 ベルナールさんが私を見た。


 ハンナさんも、私を見た。


 私は水差しを持ち直し、ひとまず、二人の杯を満たした。


◇◆◇


 師匠は、コエンナ伯である。


 私は王宮にいたころから、そのことを知っていた。各地の報告を整理するとき、領主の名が並ぶ中に『セヴラン』の文字を見つけると、そこだけ少し親しみを覚えたものだ。


 けれど、一度だけ、名前より先に数字へ目が止まったことがある。


 領内の税を、これまでの半分にする。


 その報告にも、師匠の名があった。


 数字を見間違えたのかと思い、前の年の書類まで取り出して確かめた。半分で間違いなかった。私は二枚を並べたまま、あの人らしいと思ったことを覚えている。


 その数字の先に、どんな暮らしがあるのか。


 いまは、少しずつ分かるようになっていた。


「あの減税がなきゃ、二階の雨漏りは、もう一年そのままだったよ」


 昼の片づけをしながら、ハンナさんが言った。


「修理できたんですね」

「ああ。寝具も買い替えた。客だって、懐に余裕ができりゃ、たまには外で食べようって気になるだろう?」


 窓の外を、荷車が通り過ぎる。


 向かいの店では、新しい日よけの布が張られていた。隣の店先には、以前はなかった小さな腰掛けが並んでいる。


 町が明るく見えるのは、海からの光ばかりではなかったらしい。


「剣で魔物を倒してくれたことも、もちろんありがたいさ。でも、毎日の暮らしが楽になったことは、毎日ありがたいんだよ」


 ハンナさんは皿を拭き、棚へ戻した。


「だからね、エリアナ」

「……はい」

「あんたから、頼んでくれないかい」


 やっぱり、そうなるのだった。


 午後には、ダンさんが来た。


「木刀のねーちゃん、伯爵様を口説いてくれよ」

「その言い方はやめてください」

「俺たちも金を出す。船が帰ってきたとき、港にあの人が立ってたら、いいだろう?」


 続いてベルナールさんが、今度は私だけを訪ねてきた。


「立派な木なら、うちにあります。船の飾りを作った残りですが、よく乾いていて、彫るにはちょうどいい」

「大きいんですか」

「最初の案よりは、ずっと」

「それ、師匠には言わないほうがいいと思います」


 夕方には、靴屋から戻ったリュカまで、同じ話を持ってきた。


「親方も、できることがあれば手伝うそうです」

「靴屋さんまで?」

「新しい靴を注文してくださる方が増えたのは、税が軽くなったおかげだと」


 私は、掃き集めたパンくずをちり取りへ入れた。


 師匠の名前を、今日は何度聞いただろう。


 誰も、立派な称号の話はしなかった。屋根が直せた。靴が買えた。船の仕事が増えた。


 そういう話ばかりだった。


◇◆◇


 師匠を見つけたのは、夕方の波止場だった。


 海へ向かって腰を下ろし、釣り糸を垂らしている。隣へ座ると、ちらりと私を見た。


「何だ。お前も釣るか」

「今日は、お話に来ました」

「像なら、いらん」

「まだ何も言っていません」

「顔に書いてある」


 私は頬へ触れた。


 師匠が笑う。からかわれたのだと分かり、手を下ろした。


「皆さん、師匠にお礼をしたいそうです」

「聞いた」

「私も、いろいろ聞きました。ハンナさんが宿を直せたこととか、靴屋さんの注文が増えたこととか」


 師匠は竿先を見ていた。


「税を半分にしてくださったこと、皆さん、覚えていらっしゃいます」

「自分の金が手元に残ったんだ。そりゃ覚えてるだろ」

「それを決めたのは、師匠でしょう」


 波が石の壁へ触れ、低い音を立てた。


「俺の顔を彫る金で、ほかにできることがあるだろうが」

「像のお金を税で集めるわけではないそうです。出したい人が出すんですって。ベルナールさんは、木と、自分の仕事を出すと」


 師匠の指が、釣り糸を少し引いた。


「……あいつ、ただ働きする気か」

「自分が彫りたい、と言っていました」


 私は海へ目を向けた。


 帆をたたんだ船が、ゆっくり港へ入ってくる。岸から誰かが手を振ると、船の上からも手が上がった。


「師匠が旅をしている間も、皆さんはここで暮らしているんですね」

「そりゃそうだ」

「ダンさんは、船で帰ってきたとき、師匠の像が見えたら嬉しいそうです」


 師匠は何も言わなかった。


 私は少し迷い、その横顔を見た。


「私も、見てみたいです」

「お前は、本物を毎日見てんだろ」

「はい。でも、皆さんがどんな師匠を彫りたいのか、見てみたいです」


 竿先が、小さく揺れた。


 師匠が合わせる。けれど針は空っぽで、餌だけがなくなっていた。


「……逃げた」

「ごめんなさい。私が話しかけたから」

「いや」


 師匠は針を引き寄せ、しばらく眺めていた。


 それから、長いため息をついた。


「でかいのは禁止だ」


 私は顔を上げた。


「作っても、いいんですか」

「俺よりでかくするな。等身大まで。それよりでかいのを彫ったら、頭から削らせる」

「はい」

「剣を空へ突き上げるのも、なしだ。あんな格好で立ってたら、肩がこる」

「分かりました」


 思わず笑うと、師匠は困ったように目をそらした。


「……お前に頼まれると、断りづれえな」


 私はその言葉を、少しだけ胸の中にしまってから、立ち上がった。


「皆さんに、お伝えしてきます!」

「走るな。そこの板、濡れてるぞ」


 私は足を止め、乾いたところを選んで歩いた。


 港に立つ像にも、きっと、こういう顔をしていてほしかった。


◇◆◇


 その夜、潮風亭で決まりを伝えると、ベルナールさんはすぐ紙に書きつけた。


「等身大まで。剣は上げない。……分かりました」


 師匠の前へ、細い縄を持って立つ。


「では、背丈を」

「なんで俺が立たなきゃならねえ」

「等身大にするためです」


 師匠は、嫌そうな顔で立ち上がった。


 ハンナさんが笑いをこらえ、縄の端を押さえる。私が長さを書き留める横で、リュカは机の上を片づけて、次の図面を広げる場所を作った。


「髪の高さは、どうしましょう」

「盛るな」

「分かりました」


 話を聞きつけたトマとミナも、入口からのぞいている。


「勇者様と、同じ大きさになるの?」

「ああ」

「じゃあ、並んだら二人だ!」


 トマが嬉しそうに言った。


 師匠は、ますます嫌そうな顔になった。


◇◆◇


 それから数日、ベルナールさんの仕事場には、木の香りが満ちていた。


 私は用事のついでに立ち寄り、大きな木の塊から肩が現れ、腕が現れるのを見た。船の飾りを彫る仲間たちも手を貸し、足元の木くずは日に日に増えた。


 やがて、港の広場に低い台が据えられた。


 その上に立った師匠は、空へ剣を掲げてはいなかった。


 旅の上着を着て、片手を剣の柄へ添えている。結んだ髪も、無精ひげも、そのままだった。少し先へ歩き出しそうな姿に、通りかかった人たちが足を止める。


 足元には、小さく文字が彫られていた。


 『コエンナ伯セヴラン。私たちの勇者に、感謝をこめて』


 師匠は、その文字をしばらく見ていた。


 ハンナさんも、ダンさんも、今日は何も言わなかった。


「……でかくは、ねえな」


 ようやく出た声に、ベルナールさんがうなずいた。


「きちんと、測ったとおりです」


 師匠が像の横へ立つ。


 たしかに、同じ大きさだった。


 ただ、木の師匠は、本物より少しだけ優しい顔をしていた。


「俺、こんな顔してるか」

「していますよ」


 私が答えると、師匠はこちらを見た。


「子どもたちの稽古を見ているときとか、釣った魚を見せたときとか」

「……そうかよ」


 師匠は首の後ろをかき、像から目をそらした。


 その顔を見て、ベルナールさんが、ほっと笑った。


 ミナが木の像を見上げ、次に本物の師匠を見た。トマも同じように、交互に見比べている。


「ねえ、エリアナねーちゃん」

「何?」

「像のほうは、照れないね」


 師匠が咳払いをした。

 私は笑いをこらえきれず、口元を押さえた。


 潮風が、港を吹き抜けていく。

 町の勇者は、今日から一人増えた。


 どちらも、等身大だった。


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