第11話 森のトロールさん
【エリアナ視点】
「森のトロールが、村に出ました!」
潮風亭へ駆け込んできた男の人は、扉の前で膝に手をついた。外套の裾に草の実がつき、額から汗が落ちている。
近くの村の村長、オーレンさんだった。
「伯爵様、どうかお力を。村の入口に居座って、動かないのです」
師匠は、口に運びかけたパンを止めた。
「トロール?」
「はい。あんな大きなものが、なぜ急に……」
リュカが立ち上がり、私も前掛けを外した。腰へ差すのは、先日、師匠に買っていただいた剣だ。
トロール。
名前は聞いたことがある。大きな体を持ち、傷を負ってもたちまち治る、森の魔物。
「誰か、怪我は」
「まだ誰も。ただ、怖くて近づけず、みんな家へこもっています」
師匠が立ち上がった。
「分かった。行くぞ」
短い返事だった。
私たちはオーレンさんと一緒に、町を出た。
◇◆◇
村へ着くと、本当に、入口にいた。
初めは岩かと思った。
灰緑色の背中が、低い石垣より高く盛り上がっている。横に置かれた手は、私の頭を丸ごと包めそうだった。肩には枯れ葉がつき、太い腕には苔のような色の毛が生えている。
その巨体が、道の端に座っていた。
家の窓から、村人たちがこちらを見ている。リュカがオーレンさんへ、皆さんはそのまま中で待っていてください、と声をかけた。
私は剣の柄へ手を添えた。
「抜くな」
師匠が言った。
「でも」
「知ってるやつだ」
そうして、巨体の前へ歩いていく。
「ゴーン」
トロールが顔を上げた。
大きな牙が、唇の間からのぞく。黄色がかった目が師匠を捉え、ゆっくり細くなった。
「……遅い」
「何がだ」
「来るのが、遅い」
師匠は腰に手を当てた。
「お前、森から出ねえって約束しただろ」
「おまえも、また来ると言った」
師匠が黙った。
私は、剣の柄から手を離した。
「海を渡ってたんだ」
「帰ってきたと、木を切るやつらが話していた」
「……ああ」
「待った」
ゴーンは、膝の上で大きな手を重ねた。
「木は、話しかけても返事をしない」
風が、森の葉を鳴らした。
師匠は頭をかき、長く息を吐いた。
「そいつは、悪かった。顔を出すべきだったな」
ゴーンの目が、少しだけ丸くなる。
「だが、村の連中を怖がらせるな。誰も外へ出られなくなってる」
「おれは、何も壊してない」
「知ってる。けどな、お前が道をふさいでたら、子どもは通れねえだろ」
ゴーンが、家々へ顔を向けた。
窓辺の小さな顔が、慌てて引っ込む。
それを見たゴーンは、足元へ目を落とした。
「……そうか」
立ち上がると、さらに大きかった。
私の隣で、リュカが小さく息をのむ。師匠はまったく動かず、その顔を見上げていた。
「戻るぞ」
「また、来るか」
「明日、行く」
「明日だな」
「ああ。今度は、この二人も連れていく」
急に目を向けられ、私は背筋を伸ばした。
「エリアナです」
「リュカと申します」
ゴーンは、私たちを順番に見た。
「……三人か」
その大きな口元が、ほんの少し、ゆるんだように見えた。
◇◆◇
ゴーンが森へ戻ったあと、師匠はオーレンさんに事情を話した。
今日はもう村へ出てこないこと。何かあったら、自分に知らせること。
家の扉が一つずつ開き、村の道へ声が戻ってきた。井戸へ向かう人を見送りながら、私は師匠へ尋ねた。
「お知り合いだったんですね」
「ああ。長い付き合いだ」
「師匠でも、倒せないんですか」
師匠は森を見た。
「斬っても、殴っても、あいつは治る。何度でもだ」
「では……」
「転がして、森へ押し戻すことはできる。だが、いつまでも殴り合ってるわけにはいかねえだろ」
木々の奥で、枝が揺れていた。
師匠は、ゴーンが森から出ないという約束を交わしたのだという。それからは、ときどき顔を合わせ、話をするようになったらしい。
「ゴーンさんは、師匠に会いたかったんですね」
「だったら、待ってりゃいいものを」
「ずっと待っていたんだと思います」
師匠は私を見た。
私は少し前、自分が潮風亭でこの人の上着をつかんだことを思い出していた。
言いたいことがたくさんあるのに、呼びかける相手がいない。
あの大きな背中が、急に少し違って思えた。
「……明日は、酒も持ってくか」
師匠が言った。
「ゴーンさん、お酒を飲むんですか」
「好きだぞ」
「では、何か食べるものも持っていきましょう」
リュカがそう言うと、師匠はうなずいた。
「ああ。三人分のつもりで用意するなよ」
◇◆◇
翌日、私たちは森へ入った。
師匠は酒の小樽を肩に担ぎ、リュカはパンや干し肉の包みを持っている。私は杯と、ハンナさんが分けてくれたチーズを運んでいた。
木々の間は、町より涼しかった。湿った土が長靴の下でやわらかく沈み、葉の隙間から落ちる光が、道へ細かく揺れている。
少し進んだところで、向こうの茂みが動いた。
ゴーンだった。
私たちを見ると、一歩だけ近づき、それから止まった。森の中だが、こちらの歩く場所を空けてくれている。
「来た」
「来るって言ったろ」
「三人とも、来た」
「一人減らしてどうすんだ」
師匠が小樽を持ち上げる。
ゴーンは、それを見て目を細めた。
「酒か」
「おう」
「座れ」
案内されたのは、大きな木の下だった。
平たい石が置かれ、落ち葉が払ってある。私とリュカが並んで座っても、まだ余るほど広い。
脇には、太い丸太を削った器があった。
「それは、お鍋ですか」
リュカが尋ねた。
「杯だ」
「……杯」
「小さいのは、持ちにくい」
ゴーンが、太い指で器の縁をつまんでみせた。
私たちの杯は、その中へ三つとも入りそうだった。
師匠が樽の栓を開ける。ふわりと、甘酸っぱい酒の匂いが広がった。
ゴーンの器へ注ぎ、私たちの杯にも少しずつ分ける。
「じゃあ、飲むか」
師匠が杯を持ち上げた。
ゴーンも真似をし、私とリュカも続いた。ぶつけると私たちの杯が壊れそうだったので、四人で少し持ち上げるだけにした。
口に含むと、果実の酸味が舌に残り、喉の奥が温かくなった。
ゴーンは大きくひと口飲み、満足そうに息を吐いた。
その息で、足元の落ち葉が動いた。
「うまい」
「ゆっくり飲めよ。その樽、全部お前のじゃねえからな」
「分かってる」
ゴーンはうなずきながら、小樽を自分の近くへ引き寄せた。
少しだけ、怪しい。
リュカがパンと干し肉を広げると、ゴーンは両手を膝へ置き、配り終わるまで待っていた。
大きな手に渡したパンは、小さなお菓子のように見えた。
「足りますか」
「うまい」
「量のほうを、聞いたのですが」
リュカの困った声に、師匠が笑った。
私も笑いながら、もう一つ渡した。
ゴーンはチーズをひとかけ食べ、しばらく真剣な顔でかんでいた。それから、杯を取った。
「これも、うまい」
「ハンナさんに、お伝えしておきますね」
「ハンナ」
「私たちが泊まっている宿の、おかみさんです」
ゴーンは一度、その名前を繰り返した。
そうして、今度は私たちの話を聞いた。
港のこと。靴屋のこと。子どもたちに剣を教えていること。
海の向こうで師匠が食べたものの話になると、ゴーンは身を乗り出した。
「そんなに、大きい魚か」
「ああ」
「おれより?」
「お前は、まず何でも自分と比べるのをやめろ」
大きな笑い声が、木々の間を転がった。
ゴーンが手近な枝をどかしたとき、折れた先で手の甲に赤い筋がついた。けれど、本人が次の話を始めるころには、その傷はもう閉じていた。
私は、その手を見た。
こんなふうに治ってしまう相手と、師匠は何度も向かい合ったのだ。
いまは、その二人が、干し肉の最後の一切れを半分に分けている。
「たまには、話に来い」
ゴーンが、ぽつりと言った。
師匠が杯を下ろす。
「ああ。顔を出す」
「私も来ていいですか」
「おまえも、来い」
ゴーンは私を見て、それからリュカを見た。
「おまえも」
「はい。また、ご一緒させてください」
ゴーンはうなずいた。
そのあとで、膝元へ寄せていた樽を、私たちにも届くところへ戻した。
◇◆◇
帰るころには、葉の隙間から差す光が、ずいぶん斜めになっていた。
空いた杯を包み、食べ物の紙を集める。師匠が軽くなった樽を肩へ載せると、ゴーンも立ち上がった。
森の端まで、一緒に歩いた。
村へ続く道が見えたところで、ゴーンは足を止めた。
今度は、木々の影から出なかった。
「次は、いつ来る」
「そんな毎日来られるか」
「毎日とは、言ってない」
「明日って顔をしてるぞ」
ゴーンが黙った。
私は笑いかけ、その顔を見て、言葉を変えた。
「お休みの日に、また来ます。次も、お酒を持って」
「パンも」
リュカが口元をゆるめた。
「パンも、持ってきます」
「……待ってる」
大きな手が、ゆっくり上がった。
私たちも手を振り、村へ続く道を歩き出した。
振り返ると、ゴーンはまだ木の下に立っていた。私がもう一度手を振ると、向こうの手も、もう一度動いた。
「師匠」
「何だ」
「お友達が、増えましたね」
師匠は森をちらりと見て、口元をゆるめた。
「酒の減りも、早くなるな」
リュカが笑い、私も笑った。
潮風亭へ戻ったら、次の休みをハンナさんに聞いてみよう。
森には、私たちを待っている友達がいるのだから。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




