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【長編版】王子が生まれたので、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?  作者: 塩野さち


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第8話 どっちが好きなの?

【エリアナ視点】


「そう。次の丸へ足を出して、そのまま止まって」


 潮風亭の裏庭には、私が地面に描いた丸が並んでいた。


 子どもたちが一つずつ踏んで進み、最後の丸で棒を構える。トマは勢いよく行きすぎて丸を通り越し、ミナは足元を確かめながら、きちんと中へ収まった。


「トマ、走らなくていいよ」

「魔物が来たら、急がなきゃ」

「急いだ先で転んだら、もっと困るでしょう」

「じゃあ、転ばないように急ぐ!」

「それができるように、いま練習しているんだよ」


 トマは少し考え、うなずいた。素直に最初の丸へ戻っていく。


 今日は、よく話を聞いてくれる。


 そう思っていたら、隣の子と顔を寄せ、何かをささやき始めた。ミナまでこちらを見て、口元を押さえている。


 私は木剣を持ち直した。


「何か、聞きたいことがある?」


 トマの顔が、ぱっと上がった。


「ある!」


 剣の握り方だろうか。さっきから、何度も手の位置を変えていたから。


 私は少し身をかがめた。


「何かな」

「エリアナねーちゃんって、勇者とリュカのどっちが好きなのー?」


 木剣の先が、コツンと地面に当たった。


 五人の子どもが、ニヤニヤしながら私を見ている。


「……どうして、その二人が出てくるの」

「だって、ねーちゃん、勇者の話すると嬉しそうだし」

「リュカおにーちゃんが来ると、すぐ分かるよね」


 ミナが、真面目な顔で付け足した。


「この前も、わたしたちより先に気づいたよ」

「それは、靴の音が聞こえたから」

「靴の音で分かるんだ!」


 トマが振り返った。ほかの子たちが、何かに納得したようにうなずく。


 なぜだろう。きちんと説明したはずなのに、ますます悪くなった気がする。


「師匠は、私に剣を教えてくださった方でね」

「うん」

「リュカは、一緒に旅をしている、大切な……」


 言葉が止まった。


 仲間。


 そう続ければよかった。何もおかしくない。実際、そうなのだから。


 なのに、エプロンが似合うと言ってくれたときの顔を、こんなところで思い出してしまった。


 トマが一歩近づく。


「大切な?」

「そこを、繰り返さなくていいの」

「じゃあ、どっち?」

「だから、そういう話では――」


 厨房の裏口が開いた。


 ハンナさんだった。濡れた手を前掛けで拭きながら、こちらへ歩いてくる。

 私は、思わずその顔を見た。

 ハンナさんは一つうなずいた。


「こらこら、ねーちゃんをからかうんじゃないよ! で、どっちなんだい?」

「もーっ!!」


 子どもたちが、わっと笑った。

 ハンナさんまで肩を揺らしている。私は木剣を抱え直し、熱くなった頬へ手の甲を当てた。


「剣の練習をしに来たんでしょう!」

「うん!」

「じゃあ、その話は終わり。もう一度、足の運びから」

「はーい!」


 こういうときだけ、返事がそろう。

 私は丸の前へ立ち直った。子どもたちも棒を持ち直したが、まだ何人かの口元がゆるんでいる。


「見るのは、私の顔ではなくて足です」

「ねーちゃん、顔が赤い」

「足です」


 ミナが笑いをこらえながら、ようやく下を向いた。

 潮風が、洗濯物をふくらませる。

 もう少し強く吹いて、私の顔も冷やしてくれればいいのに。


◇◆◇


 昼の潮風亭では、師匠とリュカが同じ卓についていた。


 師匠はいつものように椅子へ深く腰を下ろし、リュカは上着の袖をきれいに折っている。靴屋の昼休みに戻ってきたところだった。


 私は厨房の入口で、足を止めた。


 さっきまで、何とも思わずにできていたことが、急に難しくなっている。


 ただ料理を運んで、卓へ置く。


 それだけだ。


「エリアナ、煮込み二つね」


 ハンナさんが、盆を差し出した。


「……はい」

「足元には気をつけるんだよ」

「分かっています」


 その顔を見てはいけない。


 きっと、まだ笑っている。


 私は盆の上を見つめて歩いた。豆と肉の煮込みが二皿。パンの籠が一つ。運び慣れた重さなのに、今日はやけに腕が固くなる。


「お待たせしました」


 師匠の前へ皿を置く。

 もう一皿も置く。


「今日は、ずいぶん多いな」


 師匠の声で、手が止まった。

 二皿とも、師匠の前にあった。


「……半分は、リュカのです」

「そうか。食う前に言えよ」


 リュカが笑って、自分の皿を受け取った。


「ありがとうございます、エリアナ様」


 顔を上げかけて、やめた。

 声は、いつもと同じだった。


 名前の呼び方も、皿を受け取る手も、何も変わっていない。

 変わっていないのに、ちゃんと見られない。


「どうなさいました?」


 リュカが、少し身をかがめた。

 私は、反対側を向いた。

 そこには師匠がいた。


「何だ。俺の皿に、まだ用があるのか」

「ありませんっ」

「なら、パンをくれ」


 差し出した籠から、師匠がパンを取った。

 大きな手だった。

 頭をなでてもらった感触まで思い出し、私は慌てて盆を胸の前へ立てた。


「お前、さっきから何やってんだ」

「何もしていません」

「そうは見えねえが」


 師匠とリュカが、顔を見合わせた。

 その二人を同時に見るのは、もっと困る。


 私は卓の木目へ視線を落とした。

 この節は、魚に似ている。こっちの傷は、たぶん以前、ダンさんが杯を倒したときのものだ。


 いま必要のないことばかり、よく見えた。


「エリアナ様、顔が赤いですよ」

「庭にいたから。日差しが、少し」

「水を飲まれますか」


 リュカが空いていた杯へ水を注いだ。


「はい。どうぞ」


 断る理由もなかったので、受け取った。


 冷たい水が喉を通る。けれど、頬の熱は、なかなか下がってくれない。


 師匠が、空いた椅子を足で少し引いた。


「疲れてんなら、座れ。立ったまま飲むこともねえだろ」


 今度は、座らない理由がなくなった。

 私は、その椅子にそっと腰を下ろした。


 向かいにはリュカ。横には師匠。

 どこを見ればいいのだろう。


 厨房からハンナさんが来て、私の前へ小さな皿を置いた。


「稽古のあとの腹ごしらえ。ついでに休んでおいで」


 焼きたての小さなパンだった。


 私は両手で受け取り、顔の前へ持ち上げた。これなら食べている間、少し下を向いていても、おかしくない。


 ハンナさんは楽しそうに私の肩をたたき、厨房へ戻っていった。


「何かあったのか」


 師匠が尋ねる。


「何もありません」

「子どもたちの稽古で、何か?」


 リュカまで、優しい声で聞いてくる。


 私はパンをかじった。

 皮がパリッと割れ、中から温かな湯気が出る。おいしい。ちゃんと、おいしい。


 けれど、二人の顔を見るには、もう少し時間が必要だった。

 窓の外では、帆がゆっくり揺れている。


 師匠は煮込みをおかわりし、リュカはパンをきれいに割って食べた。ハンナさんは鼻歌まじりに鍋をかき混ぜ、私は卓の木目を、すっかり覚えた。


 今日も平和でした。


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