第47話 セレナの幸せ
【エリアナ視点】
ゴーンさんと話した翌日、私とリュカは領主館を訪ねた。焼き菓子の包みを抱えて門をくぐると、窓辺に飾られた花が見えた。新居祝いに来た日にも、あんなふうに花が置かれていた。
「エリアナちゃん、リュカ。よく来てくれたわね」
迎えてくれたセレナさんは、いつものように穏やかに笑った。後ろできちんとまとめた髪が、窓から入る風に少し揺れる。
「昨日、ゴーンさんに会ったんです。今日は、セレナさんのお顔を見たくて」
「ありがとう。どうぞ、座って」
椅子を勧められ、私は卓に焼き菓子の包みを置いた。セレナさんも向かいへ座り、包みを見て、うれしそうに目を細める。
「あとで、一緒にいただきましょうね」
「はい。お好きだといいんですけど」
「きっと、おいしいわ。それより、二人に聞いてほしいことがあるの」
何だろう。
セレナさんは一度、自分の手元へ目を落とした。それから、片手をそっとお腹に添えた。
「私、お腹に赤ちゃんがいるのよ」
私は、すぐには返事ができなかった。セレナさんの顔と、その手を交互に見てしまう。
「……赤ちゃん?」
「ええ」
「師匠と、セレナさんの?」
「もちろん」
隣で、リュカが小さく息を漏らした。自分で聞いておいて、私は急に頬が熱くなる。ほかに誰がいるというのだろう。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます、セレナ様」
リュカも背筋を伸ばして頭を下げた。セレナさんは私たちを見て、少し照れたように笑う。
「ありがとう」
短い返事のあとも、口元が緩んだままだった。私はもう一度、お腹に添えられた手を見た。まだ会えない小さな子が、そこにいる。
「師匠は、ご存じなんですか?」
「ええ。話したら、『俺が親になるのか』って、何度も言っていたわ」
「何度も?」
「何度も。そのたびに、そうよって答えたの」
師匠の声で、すぐに想像できてしまった。困ったように後頭部をかいて、それでも、同じことを聞き直すのだろう。
「師匠が赤ちゃんを抱っこするところ、見てみたいです」
「私も。今から楽しみなの」
セレナさんの指が、お腹の上でゆっくり動いた。弟が私の指を握ったときの感触を思い出す。あんな小さな手が、今度は師匠の指をつかむのかもしれない。
隣のリュカも、柔らかな顔でセレナさんの話を聞いていた。
やがて、卓にお茶が運ばれてきた。湯気から甘酸っぱい果実の香りが立つ。包みを開くと、焼き菓子の欠片が紙の上に落ちた。
「さあ、いただきましょう」
セレナさんがひとつ手に取ったので、私も続いた。軽く焼けた縁がサクッと崩れ、舌の上に、素朴な甘さが残る。
「おいしいわ」
「よかった。お店で焼き上がったところだったんです」
温かなカップを両手で包む。窓の外では、葉の揺れる音がしていた。結婚の約束を聞いて、師匠を問い詰めた日のことが、ふと浮かぶ。
あの日、卓の向こうに並んでいた二人に、赤ちゃんが生まれる。
うれしくて、私はお茶を飲んでから、もう一度セレナさんへ笑いかけた。
「それで、今度は海を渡るんですって?」
セレナさんに尋ねられ、私はうなずいた。
「はい。以前は船に乗る前に、師匠が帰っていらしたので。そのままになってしまって」
「そうだったわね。どちらまで行くつもりなの?」
「魔王のいた大陸へ。まずは港町を見てみたいんです」
セレナさんはカップを置き、少し窓のほうを見てから、私たちへ向き直った。
「それなら、サルデー島を経由することになるわね」
サルデー島。
カップを持つ手が、少し止まった。父と母と姉が、今、暮らしている島だ。三人をあの島へ送ると決めた日の声が、耳の奥によみがえる。
「あそこで、船を乗り換えるんですか?」
私が聞くより先に、リュカが尋ねた。
「ええ。ここからは、まずサルデー島へ。そこで大陸へ向かう船に乗り換えるの。商船の補給や中継に使われる港があるのよ」
「なるほど。では、先に島までの船を探せばいいんですね」
リュカがうなずき、私へ目を向けた。私はお茶をひと口飲んだ。果実の酸味が、口の中にゆっくり広がる。
「うん。そうしましょう」
島へ寄ることは、考えていなかった。けれど、港で船を乗り換えることまで、ためらう必要はない。私はカップを置き、セレナさんへ続きを促した。
「サルデー島なら、マチルダもいるわね」
「マチルダさん?」
「私たちと一緒に旅をした、魔法使いよ。セヴランやブリジットと一緒に、魔王を倒しに行った仲間なの」
私は、少し身を乗り出した。
師匠とセレナさん、それからブリジットさん。同じ旅をした人が、あの島にもいるのだ。
「今も、サルデー島にいらっしゃるんですか?」
「ええ。会えたら、私からもよろしくって伝えてちょうだい」
「はい。お会いできるといいな」
横ではリュカも、興味深そうにうなずいていた。昨日はゴーンさんから昔の戦いを聞いたばかりだ。マチルダさんなら、また違う話を聞かせてくれるかもしれない。
けれど、今いちばん気になるのは、目の前の人だった。
「帰ってきたら、また寄ってもいいですか?」
「もちろん。旅の話を聞かせてね」
「はい。それから、赤ちゃんのことも」
セレナさんが笑った。リュカも、帰ってからまた伺いますと、丁寧に頭を下げる。
帰り際、セレナさんは扉のところまで見送ってくれた。
「気をつけて行ってらっしゃい。二人とも、楽しい旅になるといいわね」
私はうなずいたあと、何か言いたくなって、少し迷った。
「……本当に、おめでとうございます」
セレナさんは、さっきと同じようにお腹へ手を添えた。
「ええ。ありがとう、エリアナちゃん」
◇◆◇
領主館を出た私たちは、その足で港へ向かった。
船着き場では荷物が運び込まれ、帆柱の間を、白い鳥が横切っていく。潮風に髪を押さえながら窓口で尋ねると、サルデー島へ向かう商船の予定を教えてもらえた。
出港までは、まだ間がある。私たちは二人分の船賃を払い、その船を待つことにした。
受け取った控えをかばんへしまい、私は窓口を離れた。以前、足りない硬貨を何度も数えた場所だ。今度は、帰りの分もちゃんと残してある。
「リュカ」
「はい」
「船を待っている間に、赤ちゃんの靴を見に行ってもいい?」
リュカは一度瞬きをして、それから笑った。
「ええ。親方のお店で、聞いてみましょうか」
「うん。まだ早いかもしれないけれど、小さな靴って、どんなのかなと思って」
「僕も、見てみたいです」
次の船が出たら、サルデー島へ向かう。それまでは、この町で待っていよう。私はリュカと並んで潮風亭へ戻りながら、小さな靴の並ぶ店先を思い浮かべた。
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