第48話 エリアナ様、ダウン
【リュカ視点】
「リュカ、あれよね? 私たちが乗る船!」
出港の朝、エリアナ様は桟橋を歩きながら、何度も帆柱を見上げていた。朝日に照らされた頬は明るく、肩のかばんまで、足取りに合わせて弾んでいる。
「はい。あちらの船です」
「大きいわね。ねえ、あの帆、全部広げるのかしら」
「沖へ出たら、見られると思います」
「楽しみね!」
僕も、つられて笑った。船に乗るお金が足りず、二人で財布をのぞき込んでいたころが、ずいぶん前のことに思える。
船員さんに乗船の控えを見せ、船と桟橋の間の板を渡った。足元が軽く揺れる。エリアナ様はその揺れさえ面白そうに確かめ、甲板へ上がると、すぐに港を振り返った。
「ここからだと、町が違って見えるわ」
僕は二人分の荷物を教わった場所へ置き、隣に立った。縄をほどく声が響き、帆が風をはらむ。船が岸から離れ始めると、エリアナ様は僕の袖を引いた。
「動いた。リュカ、動いてる!」
「はい。いよいよですね」
港の屋根が、少しずつ遠ざかっていく。エリアナ様は髪を押さえながら、いつまでも楽しそうに海を眺めていた。
少なくとも、港の外へ出るまでは。
◇◆◇
「……リュカ」
呼ばれて振り向くと、エリアナ様が黙って僕の腕をつかんだ。さっきまでの笑顔が消えている。唇を結び、何か言おうとして、一度飲み込んだ。
「どうなさいました?」
「なんだか、気持ちが……」
船が波を越え、甲板がゆっくり持ち上がった。その直後、エリアナ様が口元を押さえた。
「うっ……」
「船酔いだな。ほら、これを使いな」
近くの船員さんが、桶を差し出してくれた。僕は慌てて受け取り、エリアナ様の前へ持っていく。
「うえええっ……!」
間に合った。
桶を支えると、エリアナ様はその縁を握り、何度も吐いた。肩が震えるたび、背中へ添えた手にも力が伝わってくる。
船員さんが、通路から外れた日陰を教えてくれた。エリアナ様が少し息をつけたところで、僕は桶を持ったまま、そちらへ付き添う。
「こちらへ、座れますか?」
「……うん」
エリアナ様は荷箱に背を預け、甲板へ腰を下ろした。桶を膝の前へ置くと、またすぐに身を折ってしまう。
「おえっ……うう……」
僕は横に膝をつき、髪が顔へ掛からないように押さえた。船が傾き、戻り、また傾く。そのたびに、エリアナ様の指が桶の縁を握り直す。
「……こんなに、揺れるなんて」
声が、すっかり細くなっていた。
船員さんに水を分けてもらい、かばんから布を出した。口元を拭けるように渡すと、エリアナ様は小さくうなずく。
「ごめんね。楽しみに、してたのに」
「謝らなくて大丈夫です。僕は、ここにいますから」
布を持つ手が下がるのを待ち、僕は桶を少し寄せた。次の波が来る前から、エリアナ様はもう、その中をのぞき込んでいた。
◇◆◇
しばらくして、船の向こうで声が上がった。
「クジラだ!」
顔を上げると、遠くの海に、白い水の柱が立っていた。その下に黒い背中が見える。ずいぶん大きい。船の上から見ても、そう思うほどだった。
やがて背中が沈み、大きな尾が、海へゆっくり消えていった。
「……何か、いたの?」
エリアナ様が、目を閉じたまま尋ねた。
「クジラです。今、潮を吹いていました」
「クジラ……見た……うえっ」
僕はすぐに桶を押さえた。
クジラの尾はもう見えなくなっていた。海には、広い波紋だけが残っている。エリアナ様の呼吸が落ち着くまで背中をさすり、そのあとで、僕はもう一度、青い海へ目を向けた。
さっきの大きな生き物が、あの水の下を泳いでいる。
少しだけ、肩の力が抜けた。
船は、白い波を立てて進んでいった。細かな波しぶきが風に運ばれ、頬に当たる。唇をなめると、塩の味がした。
船員さんが空の桶と取り替えてくれた。お礼を言って立ち上がると、今度は船の横へ、小さな背びれが現れた。
ひとつではなかった。ふたつ、三つ。灰色の背中が波を追い越し、海面から跳ねる。
「今度は、イルカか」
桶を持った船員さんも、笑っていた。
イルカたちは船に並び、潜ったかと思うと、少し前からまた顔を出した。楽しそうだ。こちらの船が揺れるたびに、向こうは、すいすい進んでいく。
思わず口元が緩んだところで、袖が引かれた。
「……いいもの、見てる?」
「はい。イルカが、船の横を泳いでいます」
「そう……」
エリアナ様は、少しだけ顔を上げた。けれど、海を見るところまではいかなかった。すぐに眉を寄せ、桶へ戻ってしまう。
「……あとで、教えて」
「はい。陸へ着いて、落ち着いてから」
僕は布を受け取り、きれいなところを水で濡らした。もう一度隣に膝をつき、額へ当てると、エリアナ様のまぶたが、少しだけ緩んだ。
あれほど元気に港を眺めていた人が、今は、立ち上がることも難しい。何かできればと思うのに、桶を支えて、布を替えるくらいしかできなかった。
それでも、袖をつかむ手が離れるまでは、ここにいようと思った。
やがて、海の先に島の緑が見えてきた。僕は脚を伸ばそうと立ち上がり、岸のほうへ目を向けた。
岩の多い岸辺を通ったとき、波の間に、人のような姿が見えた。岩に腰を下ろし、長い髪を肩へ垂らしている。
けれど、足があるはずのところで、尾びれが光った。
「……人魚?」
「ああ。あの辺りには、時々いるよ」
船員さんは、何でもないことのように答えた。
僕は、もう一度岩を見た。人魚は尾を動かし、そのまま水へ滑り込んだ。光るしぶきが散って、あとは、波が岩を洗うだけになった。
本当に、海を渡っているのだ。
クジラがいて、イルカがいて、人魚までいる。見慣れた港の外には、こんな景色が続いていた。
「……今度は、何?」
「人魚がいました」
「人魚……?」
エリアナ様が、ゆっくり目を開けた。
「見たかった……」
その声のあとに、また、桶を引き寄せる音がした。
僕は再び膝をつき、背中へ手を添えた。帰りには、二人で見られるといいのだけれど。今は、その言葉を飲み込み、吐き終えるのを待った。
◇◆◇
船の動きが変わり、岸の人たちの声が近づいてきた。
帆が畳まれ、縄が投げられる。荷物を運ぶための板が、桟橋へ渡された。ようやく、サルデー島に着いたのだ。
「エリアナ様。到着しました」
「……ほんとに?」
「はい。もう、下りられます」
エリアナ様は桶の縁から手を離し、顔を上げた。まだ青白いけれど、目の前の桟橋を、じっと見ている。
桶を船員さんに返してお礼を伝え、布をかばんへしまった。荷物は先に桟橋へ運んでもらい、僕はエリアナ様の横にかがむ。
「立てそうですか?」
「うん。つかまっても、いい?」
「もちろんです」
差し出した腕に、エリアナ様の手が重なった。ゆっくり立ち上がり、一歩ずつ、板の上を進む。
桟橋へ足が下りたところで、エリアナ様は立ち止まった。船を振り返り、それから、足元を確かめる。
「……揺れないって、すてきね」
「はい」
僕はうなずき、エリアナ様の腕を支え直した。そのまま桟橋の先へ目を向けて、足を止める。
行き交う人たちの間に、見覚えのある顔があった。エリアナ様の姉君、セレスティア様。
その人が、桟橋に立ち、僕たちをキッと睨みつけていた。
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