第45話 おかみさん、ただいま
【エリアナ視点】
王都の門を出たところで、私は一度、肩のかばんを掛け直した。朝の風が袖をふくらませ、街道の草が足元で揺れている。
「忘れ物は、ありませんか?」
「うん。お金も、着替えも。それに、靴も見てもらったし」
「歩きにくいところがあったら、教えてください」
リュカは私の足元を確かめてから、自分の荷物を持ち直した。手入れしてもらった靴は、足に気持ちよくなじんでいた。
王宮では、留守中の決裁について、オスヴァルトさんたちと相談し、必要な手配を済ませた。リュカも師匠に休みをもらい、騎士団の仕事の引き継ぎを終えている。
ブリジットさんには帰ってからの仕事を頼まれ、ニコラさんには旅先の料理の話を楽しみにされている。弟の顔も、出発する前に見てきた。
あとは、歩き始めるだけだった。
「まずは、コエンナね」
「はい。おかみさんは、お元気でしょうか」
「きっと、今日もお客さんにご飯を食べさせてるわ」
そう答えたら、もう焼き魚の匂いが恋しくなった。隣でリュカが笑う。私たちは川沿いの街道へ、並んで足を踏み出した。
◇◆◇
宿場で夜を過ごし、また歩く。道端でパンを分け、疲れたら休み、そうして何日か進んだ先で、風の匂いが変わった。
潮の匂いだ。
坂を上りきると、赤茶けた屋根の向こうに海が見えた。日の光を細かく散らす青い水面と、港に並んだ帆柱。私は立ち止まり、胸いっぱいに息を吸った。
「着いたわね」
「ええ。コエンナです」
初めて来たときと同じ言葉なのに、今度は知っている道を探していた。あの角を曲がれば市場へ出る。その先には靴屋があって、潮風亭は、もう少し海のほうだ。
坂を下りる足が、自然と速くなる。荷車の車輪が石を鳴らし、通りの向こうで魚を勧める声がした。角を曲がると、見覚えのある看板が目に入った。
潮風亭。
扉を押すと、焼けた魚と煮込みの匂いが、一緒になって迎えてくれた。
「いらっしゃいませ!」
明るい声に、私は顔を上げた。盆を持った、見知らぬ女の子が立っている。袖をきちんとまくり、こちらへ笑いかけていた。
「お二人ですか? こちらのお席へどうぞ」
「ありがとう。あの、おかみさんは――」
「レナ、奥のお客さんにパンを……おや?」
厨房から出てきたハンナさんが、足を止めた。頭の上でまとめた赤茶色の髪も、前掛けで手を拭く仕草も、ちっとも変わっていない。
「エリアナじゃないか!」
「おかみさん、ただいま」
言ってから、少し照れた。けれど、ハンナさんは笑って両手を広げ、私の肩をぎゅっと抱いてくれた。
「おかえり。リュカも、よく来たねえ」
「ご無沙汰しております」
「二人とも元気そうで、何よりだよ。ほら、顔を見せておくれ」
肩をつかまれたまま、少し離れて見つめられる。私が笑うと、おかみさんも、もう一度笑った。
「レナ。この子が、前に話したエリアナだよ。こっちは、一緒に来ていたリュカ」
「あっ。前に、ここで働いていた方ですか?」
「そうそう。今は王都で働いてるんだ」
レナちゃんは、盆を抱え直した。
「レナです。よろしくお願いします!」
「エリアナです。よろしくね、レナちゃん」
「あたしが新しく雇った子でね。よく気がつくし、よく食べるんだよ」
「おかみさん、後ろのほうは、言わなくてもいいです」
きっぱり言ったレナちゃんに、リュカが笑いをこらえていた。私も、口元を押さえる。
奥の卓でお客さんが手を上げると、レナちゃんはすぐに顔を向けた。
「パンの追加ですね。今、お持ちします!」
私たちの横を抜けて、厨房へ戻っていく。その背中を見送ってから、ハンナさんは私たちに空いた席を勧めた。
「今日は泊まっていくんだろう?」
「はい。お部屋、空いていますか?」
「空いてるよ。荷物を置いて、休んでおいで。ゆっくり話すのは、店を閉めてからにしよう」
ありがたくお願いすると、おかみさんは私のかばんを見て、少し目を細めた。
「今度は、どこへ行くんだい?」
「海の向こうへ。今度こそ、船に乗ろうと思って」
「そうかい。やっと船賃がたまったんだねえ」
私は、リュカと顔を見合わせて笑った。
◇◆◇
夜になり、酒場の最後のお客さんが帰ると、ハンナさんが扉に閉店の札を掛けた。さっきまで歌声のしていた店内に、皿を重ねる音が響く。
「おかみさん、これ、いつもの棚でいい?」
「ああ。覚えてたんだね」
私は拭いた杯を棚へ戻した。リュカは卓をひとつ空け、四人分の椅子を並べている。レナちゃんは水差しを置くと、厨房のほうを気にした。
「何か、お手伝いすることは?」
「もうできるよ。みんな、座っておくれ」
ハンナさんが運んできた大皿を見て、私は声を上げた。
「サバサンド!」
「好きだったろう? 今日はこれにしようと思ってね」
「王都でも、食べたいなって思ってたの」
皮にこんがり焼き目のついたサバが、薄切りの玉ねぎと一緒にパンへ挟まれている。隣には煮込みの鍋も置かれ、卓がたちまち、温かな湯気でいっぱいになった。
「さあ、みんなで食べようかねぇ」
「いただきます!」
最初のひと口は、少し大きすぎた。香ばしい皮がパリッと割れ、魚の脂に、ソースの酸味が重なる。玉ねぎをかむ音まで懐かしくて、私はゆっくり、次のひと口をかじった。
「……これ、これが食べたかったの」
隣でリュカもうなずいている。向かいでは、レナちゃんが私の顔を見て笑っていた。
「私も、これがいちばん好きです。片づけの途中でも、焼いている匂いがすると、お腹がすいちゃって」
「だから、皿を拭く手が止まるんだね」
「一回だけです」
「昨日も止まってたよ」
レナちゃんがパンに目を落としたので、今度は、こらえきれずに笑ってしまった。
「わかるわ。私も、王都のお店で料理を運んでいると、食べたくなるもの」
「王都でも、給仕をしていらっしゃるんですね」
「うん。煮込みとか、焼いたお肉とか。それから、卵サンドも」
「卵を、挟むんですか?」
ハンナさんも、食べかけのパンを少し下ろした。私は、ゆでた卵をつぶして、塩で味をつけるだけだと説明する。
「それなら、朝の忙しいときにも出せそうだね」
「作るのも簡単なの。お客さんが、自分で卵をつぶして楽しんでくれたりもして」
「ああ。自分の分だけ、山ほど挟むんだろう」
「……はい。そういうこともあります」
思い当たる顔がいくつか浮かんだ。リュカが、手元のパンを見ながら口を開く。
「多く挟んだほうが、おいしい気がするんです」
「こぼさずに食べられたらね」
「それは、少し難しいですね」
真面目な返事に、おかみさんが声を上げて笑った。レナちゃんも笑い、私も、パンを持ったまま肩を揺らした。
王都のお店の話。リュカが明日は靴屋へ挨拶に行くという話。レナちゃんが初めて大皿を運んだとき、料理ばかり見ていて、お客さんに道を譲ってもらった話。
話しているうちに、煮込みの器が空になった。おかみさんが、まだ聞いてもいないのに、お玉を持ち上げている。
「もう少し、食べるかい?」
「うん。いただきます」
差し出した器に、湯気の立つ煮込みがよそわれる。おかみさんはレナちゃんとリュカの器にも順に足してから、ようやく自分の席へ戻った。
「今度こそ、ゆっくり食べてくださいね」
レナちゃんがそう言って、パンの籠をおかみさんのほうへ寄せた。私も、まだサバサンドの残った大皿を、その隣へ置く。
ハンナさんは私たちの顔を見比べ、少し笑った。
「はいはい。それじゃ、あたしもいただくよ」
窓の向こうで、夜の潮風が通りを抜けていった。私は温かい器を両手で包み、おかみさんがサバサンドを頬張るのを見てから、自分も匙を取った。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




