第44話 そうだ、海の向こうへ行こう
【エリアナ視点】
「エリアナ様。今度の休暇なのですが」
リュカがそう切り出したのは、私が林檎の包み焼きを食べ終えたところだった。今日は二人とも休みで、市場を歩いたあと、川沿いの長椅子に座っていた。
膝の上の包み紙を畳むと、指先にまだ温かさが残っている。口の中には、林檎の甘酸っぱさが少し残っていた。向こう岸では洗濯物が揺れ、水面に映った白い色が、流れにほどけていった。
「休暇? 今日のお休みとは別に?」
「はい。仕事の引き継ぎを済ませれば、少しまとまった休みを取れそうなんです」
「それは、いいわね。何をするの?」
リュカは、橋を渡る荷車へ少し目を向けた。それから私に向き直り、いつもより、ゆっくり口を開く。
「もしご都合が合えば、どこかへ出かけませんか」
「いいわね。市場なら、さっき歩いたけれど」
「もう少し、遠くへ」
私は川の下流を見た。家々の間へ曲がっていく水の先は、ここからでは見えない。けれど、この流れの続く先に、あの港町がある。
コエンナへ着いた日の、潮の匂いを思い出した。坂の上から見えた海。風をいっぱいにはらんだ帆。それから、船着き場で開いた、あまりにも軽い財布。
「……そうだ」
思わず、背筋が伸びた。
「そうだ。まだ海の向こうへ行ってない!」
声が大きくなって、通りかかった人がこちらを見た。私は少し声を落としたけれど、膝の上の手は、もうじっとしていられなかった。
「船に乗ろうって言ってたのよね。お金をためたらって」
「ええ。二人で銀貨十二枚でしたね」
「食事は別です、って」
「帰りの船賃も、別でしたね」
顔を見合わせて、笑ってしまった。あのときは、二人のお金を合わせても足りなかった。海を見た勢いのまま、乗れるつもりで窓口へ行ったのだから、ずいぶんのんきな旅人だったと思う。
船賃を稼ぐために仕事を探して、私は潮風亭で働き始めた。リュカは靴屋へ行き、やがて師匠が帰ってきた。もう少しここにいたいと、私が出発を延ばしたのだ。
そのあとは、いろいろなことがあった。今は王都で働いていて、海の向こうへ行く話は、いつの間にか、毎日の暮らしの奥へしまわれていた。
「行ってみたいな。今でも」
川を渡った風が、頬に触れた。潮の匂いはしない。それでも、遠くに白い帆が見える気がして、私は少し目を細めた。
「リュカは、どう?」
「僕も、行ってみたいです。海の向こうの靴屋を、のぞいてみたいですね」
「やっぱり、靴なのね」
「こちらとは違う道具や、縫い方があるかもしれませんから」
話しているうちに、リュカの指が、腰の道具袋へ触れた。騎士団長になっても、革や糸の話をするときの顔は、あまり変わらない。
「私の靴も、また直してくれる?」
「もちろんです。でも、出発する前に見せてください。歩き始めてから底が取れたら、困りますので」
「うん。お願いするわ」
まるで、もう明日にでも旅へ出るような会話だった。おかしくなって笑うと、リュカも笑った。
以前、港町の靴を見たいと言っていた彼に、見に行こうと答えたことがある。今度は、海の向こうだ。知らない店先でリュカが足を止めるところを想像したら、私まで楽しみになった。
「私も、お店を見て回りたい。何を食べているのか、気になるわ」
「さっき、包み焼きを召し上がったばかりですよ」
「今すぐ食べる話じゃないの。旅先の話」
「はい。僕も、おいしいものは食べたいです」
リュカの膝にも、きれいに畳んだ包み紙があった。私が勧めた包み焼きを、彼もひとつ買ったのだ。食べる前には中身の熱さを教えてあげたので、今日は二人とも、慌てずに最後まで食べられた。
私は立ち上がり、肩掛けのかばんを持ち直した。
「じゃあ、行きましょう! 今度こそ、船に乗りに」
◇◆◇
ギルド酒場へ寄ると、厨房から、お肉を焼く音が聞こえていた。まだ夕方の混雑が始まる前で、ブリジットさんは卓の上に杯を並べている。
「おや、休みなのに、どうしたんだい?」
「少し、お話があって」
「座りな。リュカも一緒なんだね」
勧められた席に座ると、ニコラさんが厨房の入口から顔を出した。私は、二人で旅行へ行きたいと思っていることを話した。
「海の向こうへねえ。そりゃ、楽しみだ」
「はい。ただ、しばらくお仕事を休むことになるので……」
「いつ出るんだい?」
「まだ、決めていません。リュカのお仕事と、王宮のほうも相談してからになるので」
言ってみると、考えておかなければならないことが、いくつもあった。リュカには騎士団の仕事がある。私も、週に一度、王宮で書類を確認して、印璽を押している。
海の向こうへ行って帰ってくるまで、何日かかるのだろう。いつもの休みのように、明日の朝にはエプロンを結ぶ、というわけにはいかない。
「あの、戻ってきたら、またここで働きたいんです」
気づいたら、そう付け足していた。ブリジットさんは、並べかけの杯を置き、私を見た。
「そりゃ、働いてもらうよ。ずっと休まれちゃ、困るからね」
「……はい」
「日取りが決まったら、早めに教えとくれ。こっちも人のやりくりがあるんだ」
「ありがとうございます。決める前に、必ずご相談します」
隣で、リュカが小さくうなずいた。私も、膝の上で握っていた手をほどく。旅から帰ったら、またここで注文を聞き、料理を運べる。
ニコラさんは厨房へ戻りかけて、ふと足を止めた。
「向こうでうまいものを食べたら、覚えてきてくれよ」
「味を、ですか?」
「材料や作り方も、わかる範囲でな」
「はい。できれば、自分でも作ってみたいです」
まだ船に乗ってもいないのに、帰ってからの楽しみまでできてしまった。ブリジットさんが笑い、奥からは、焼けたお肉の香りが流れてくる。
ちょうど扉が開き、冒険者のお客さんたちが入ってきた。私はつい立ち上がりかけ、休みだったと思い出して座り直す。
「今日は、あたしに任せときな」
ブリジットさんは私の肩を軽く叩き、お客さんのほうへ歩いていった。
◇◆◇
酒場を出たあと、帰り道でリュカと、これからの相談をした。彼は騎士団の仕事の引き継ぎと、師匠への相談。私は、摂政のオスヴァルトさんに、留守中の決裁をどうするか尋ねる。
出発の日は、その話が済んでから決めよう。
「コエンナへ行ったら、おかみさんに会いたいわね」
「靴屋の親方にも、ご挨拶したいです」
「うん。どちらにも行こう」
角でリュカと別れてからも、私は歩きながら、潮風亭の入口を思い浮かべていた。今度は、旅行の途中に寄るのだ。おかみさんは、どんな顔で迎えてくれるだろう。
部屋へ戻り、ためていたお金を出してみた。卓に置いた硬貨が、チリンと鳴る。日々の暮らしに使う分とは別に、少しずつ残してきた給金だった。
船の料金は、港で確かめなければならない。向こうで泊まるお金も、食べるお金もいる。帰りの分は、先に取り分けておこう。数えながら、あの窓口で教えられたことを、ひとつずつ思い出した。
窓辺では、木彫りの猫が、相変わらず丸くなって眠っている。私は硬貨を袋へ戻し、椅子に掛けたかばんを手に取った。
まだ旅の荷物は入れていない。着替えは何組あればいいだろう。靴を見てもらう日は、いつにしよう。考えることが増えたのに、口元は勝手に緩んでしまう。
私はかばんを開き、出発の日に持っていくものを、ひとつずつ思い浮かべた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




