第43話 私の幸せな日常
【エリアナ視点】
「エリアナ、煮込み二つ、頼む!」
「はい、ただいま!」
ニコラさんに呼ばれて、私は厨房へ向かった。大鍋から立ちのぼる湯気が、頬にふわりと触れる。胸肉とキャベツの煮込みをよそった木の器を盆に載せると、今度は食堂へ引き返した。
お昼のギルド酒場は、今日も賑やかだった。椅子を引く音、食器の触れ合う音、少し大きすぎる笑い声。開けた窓からは、通りを行く荷車の音まで聞こえてくる。
停戦が決まり、兵士さんたちが王都へ戻ってきてから、街は少しずつ、いつもの暮らしを取り戻していた。パン屋の店先には、その日の食事を買いに来た人が並んでいる。ギルドの厨房でも、山のようなパンを数える仕事はなくなった。
今は、目の前のお客さんに、温かい料理を運べばいい。
「お待たせしました。煮込みです」
「ああ、ありがとう」
器を置くと、ノエルさんがさっそく匙を取った。向かいにはアリスさん、その隣にはレミさんが座っている。レミさんはまだ足をかばって歩いていたけれど、食欲はすっかり戻ったらしい。
「皮の焼いたやつも、まだあります?」
「ありますよ」
「じゃあ、それも」
「さっき卵サンドを食べていませんでした?」
「食べました。でも、あれは朝ご飯なので」
きっぱり答えるレミさんに、アリスさんが笑った。
「さっきまで、昼は安い煮込みだけにするって言ってたのに」
「いい匂いがするから、仕方ないだろ」
「わかります。私も、運んでいるとお腹が空きますから」
そう答えると、三人が揃って笑った。私は追加の注文を覚えて、厨房へ戻る。
森で助け出したときには、こんなふうに食事の相談をする余裕もなかった。今は、煮込みに何を追加するかで悩んでいる。その様子を見るたび、私はつい、彼らの席へ目を向けてしまうのだった。
「ニコラさん、皮焼きもお願いします」
「ああ。それと、お前のまかないも残してあるぞ」
「ありがとうございます」
「残してあるだけじゃ食べられないからね。ひと段落したら、ちゃんと座りな!」
帳場から、ブリジットさんの声が飛んできた。
はい、と返事をして、私は次の皿を受け取った。今日のまかないも煮込みらしい。運ぶたびに匂いをかいでいたので、もうすっかり、その口になっていた。
◇◆◇
午後になって、お客さんの数が落ち着いたころだった。
入口の扉が開いて、師匠とセレナさんが入ってきた。師匠はいつもの気楽な格好で、セレナさんは、その半歩後ろから食堂を見渡している。
「おう、エリアナ。飯、まだ食えるか?」
「食べられますよ。何になさいます?」
「肉」
「それだと、だいたい全部ですね」
「じゃあ、うまい肉」
「それも、だいたい全部です」
私が答えると、セレナさんが口元を押さえて笑った。
「煮込みを二つ、お願いできるかしら」
「はい。パンもおつけしますね」
「あと麦酒な」
「まずはお水を飲みなさい。稽古のあとでしょう?」
師匠は少しだけ不満そうな顔をしたけれど、席に着くと、出された水を素直に飲んだ。魔王を倒した勇者が、今は奥さんに飲み物の順番を決められている。
私は笑わないようにして、厨房へ注文を伝えた。
料理を運び終えたところで、もう一度、入口が開いた。
「こんにちは、エリアナ様」
「あ、リュカ」
今日は休みだそうで、リュカは騎士団長の仕事をしているときより、少し柔らかな顔をしていた。師匠たちに挨拶をすると、その向かいの席へ腰を下ろす。
「卵サンドをいただけますか?」
「うん。煮込みは?」
「それもお願いします」
「リュカも、よく食べるようになったわね」
「ここの料理は、おいしいですから」
真面目な顔で言うものだから、私は少し照れてしまった。作っているのは主にニコラさんだけれど、それでも、働いているお店を褒められるのは嬉しい。
厨房で料理を受け取ろうとすると、ブリジットさんが、私の盆にもう一つ器を載せた。
「ほら、あんたの分。今のうちに食べてきな」
「でも、お客さんが」
「呼ばれたら、あたしが行くよ。冷めないうちにお食べ」
ありがたく言葉に甘えて、私も同じ卓へ座ることにした。
匙を入れると、柔らかく煮えたキャベツが、ほろりと崩れた。胸肉を一緒に口へ運ぶ。塩味の汁がよく染みていて、ひと口食べたら、急にお腹が空いていたことを思い出した。
「働いてると、飯がうまいだろ」
師匠が、パンをちぎりながら言った。
「はい。今日は、特に」
「ちゃんと休むのも仕事のうちだからね」
セレナさんに言われて、私はうなずいた。隣ではリュカが卵サンドをかじっている。パンの脇から卵が少しこぼれ、慌てて皿で受け止めていた。
「挟みすぎじゃない?」
「僕が作ったわけではないんですが」
「卵が多いと嬉しいでしょう?」
「はい。それは、嬉しいです」
そう答えて、リュカは皿に落ちた卵も丁寧に食べた。
しばらくは、食べるのに忙しかった。師匠が煮込みを褒め、セレナさんがパンを半分に分け、私は残った汁を匙ですくう。窓から入ってきた風が、首筋を通り抜けて気持ちよかった。
「レオン殿下は、お元気ですか?」
食事がひと段落すると、リュカが尋ねた。
「うん。この前は、私の指をつかんだまま、なかなか離してくれなくて」
「それは、困りましたね」
「困ったわ。帰るのを少し遅らせちゃった」
言いながら、私は自分の指を見た。小さな手に握られていた感触は、まだ覚えている。
弟の顔は、相変わらず、週に一度見に行っていた。王宮の書類はきちんと整理されていて、私が目を通し、印璽を押す仕事もある。それを済ませたら、弟のところへ行く。
いつか、あの子にも好きなものができるだろう。どんなものを好きになるのか、今から少し楽しみだった。
「次は、もう少し長くいようかな」
「では、お帰りが遅くなっても、心配しないようにします」
「心配してたの?」
「少しだけ」
リュカは、残っていたパンを手に取った。私はその横顔を見てから、自分の器へ視線を戻す。
そのうち、一緒に弟の顔を見に行くのもいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、師匠が空になった器を置いた。
「よし。もう一杯、煮込みをもらうか」
「まだ食べるんですか?」
「稽古のあとだからな」
「それなら、仕方ないですね」
私は笑って立ち上がった。厨房へ向かうと、ニコラさんは師匠の席をちらりと見て、何も言わずに大きめの器を取った。
◇◆◇
夕方になると、酒場にはまたお客さんが集まり始めた。
師匠たちは帰り、リュカも席を立つ前に、また食べに来ますと言ってくれた。私は空いた卓を拭いて、椅子を元の位置へ戻す。窓の外では、西日を受けた石畳が、淡い金色に光っていた。
厨房から、鳥の皮が焼ける音がする。通りを歩いていた人が、その匂いにつられたように足を止め、入口の献立を眺めていた。
私はその人を見ながら、胸肉を使ってみたいと申し出た日のことを思い出した。卵サンドを作った日も、最初はただ、自分が食べたかっただけだった。
食べたいものを作ってみる。休みの日には市場を歩く。小さな置物を買って、窓辺に飾る。会いたい人のところへ行って、帰ってきたら、またここで働く。
王太子だったころには、そんな一日を、自分で選べるとは思っていなかった。
「ここ、まだ席あるかい?」
入口に立っていた人が、顔をのぞかせた。私は布巾を置き、拭き終えたばかりの卓へ案内する。
「ありますよ。こちらへどうぞ」
「いい匂いだねえ。何を焼いてるんだい?」
「鳥の皮です。塩を振って焼いたものなんですけど、おいしいですよ」
お客さんは少し驚いてから、それを頼んでくれた。煮込みとパンも、と続いたので、私はうなずいて注文を覚える。
奥の席では、今日の仕事を終えた冒険者たちが杯を合わせていた。ブリジットさんの笑い声が、その間を通り抜けてくる。
私もつられて笑った。
ここでなら、明日何を食べようかと考えながら、今日の仕事を終えられる。次の休みを楽しみにして、また朝になったら、エプロンを結べばいい。
「エリアナ、料理ができたぞ!」
「はい、ただいま!」
私は厨房へ向かった。温かな器を盆に載せ、待っているお客さんのところへ運んでいく。
今日も、私の好きな一日だった。
【完】
塩野さちの次回作にご期待下さい!
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