第41話 勝利?~停戦~
【エリアナ視点】
パンを焼く日が続いていた。
朝から生地をこね、焼き上がったものをそろえて、送り出す。今日の分を数え終えると、明日の仕込みが待っている。最初のうちは忙しさに紛れていたけれど、繰り返しているうちに、腕や肩の重さが取れなくなってきた。
疲れているのは、私だけではなかった。
パンを届けに来る人たちの足取りも、少しずつ重くなっていた。受け取って礼を言うと、笑ってくれる。けれど、そのあとに、ふう、と長い息を吐く人が増えた。
「今日は、ひとつだけでごめんね」
「ひとつで十分です。ありがとうございます」
そう答えると、女の人は、また明日ね、と帰っていった。いつもより一個、多く焼いてくれている。それだけでも、その家の仕事は増えるのだ。
パン屋のアンドレさんも、眠そうな目で籠を下ろしていた。
「窯を使う時間を延ばしてるからな。焼き終わって片づけると、もう遅くて」
「少し休めていますか?」
「まあ、ぼちぼちだよ」
その答えを聞いて、私は何も言えなくなった。
ここへ届くパンは、誰かが手を動かして作ったものだ。二万個という数字だけを見ていると忘れそうになるけれど、一個にも、ちゃんと手間がかかっている。
そんなある日、ユゴーさんが来た。
◇◆◇
「お疲れのところ、失礼いたします」
私は手についた粉を払い、ユゴーさんを食堂の端へ案内した。ブリジットさんも仕事をいったんほかの人に任せ、そばへ来る。
「戦況を、お伝えしておこうと思いまして」
「どうなっていますか?」
尋ねると、ユゴーさんは、少し表情を引き締めた。
「現状は、五分と申し上げるほかございません。なかなか決着がつかない状況です」
「五分……」
師匠が率いている軍だ。一度はゴブリン軍を押し返し、勝ったという知らせも届いていた。
「この前の勝利で、敵は退いたんですよね?」
「はい。しかし、敗走した群れがほかの群れと合流し、すぐに態勢を整え直しました。敵の数が多く、森も広いため、倒したところから前へ進めるとは限らないのです」
勝ったから、終わるわけではなかった。
一つの群れを退けても、別の場所から集まってくる。進んだ先を確かめ、兵を動かし、また相手を押し返す。その間も、人は食べなければならない。
私は、厨房のほうを見た。
ニコラさんが、次の生地を確かめている。ノエルさんは、空いた籠を重ねていた。二人とも、いつもより口数が少ない。
このまま、いつまで続けられるだろう。
明日の二万個は、何とかそろえられるかもしれない。けれど、その次も、そのまた次も、同じようにできるとは限らなかった。
私はユゴーさんへ向き直った。
「停戦しましょう」
言うと、ユゴーさんが顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「はい。これ以上は、街の人が持ちません。きっと、前線の人もそうではないのでしょうか?」
誰も手を抜いてはいなかった。むしろ、できることを少しずつ増やしていた。それでも、疲れはたまっていく。
「まず、話し合いを申し入れたいです。前線へ案内していただけますか?」
ユゴーさんは、私の顔を見た。それから、ゆっくりうなずいた。
「承知いたしました」
◇◆◇
出発の前に、ブリジットさんへ事情を話した。
師匠には、王都に残るよう言われている。今から向かえば、きっと怒られるだろう。けれど、ユゴーさんに伝言を頼むだけではなく、自分で話したかった。ここで見てきた人たちの疲れを、私の言葉で伝えたかったのだ。
「パンのこと、お願いします」
「ああ。こっちは任せな」
ブリジットさんは、腕を組んで私を見た。
「でも、危ない真似はするんじゃないよ」
「はい。話をしに行ってきます」
ユゴーさんに案内され、王都を出た。道の途中では、前線へ向かう荷車とすれ違わず、しばらく同じ方向へ進んだ。積まれた籠の上には、私たちがギルドで使っているものと同じ布がかけられていた。
やがて、軍の旗が見えてきた。
森の手前に、いくつもの天幕が並んでいる。兵士さんたちが行き交い、馬を引く人や、荷物を下ろす人がいた。椅子代わりの箱に腰かけ、黙って休んでいる人もいる。
王都で見ていた疲れが、ここにもあった。
剣を持つ手も、パンをこねる手も、ずっと動かし続けられるわけではない。私はその景色を見ながら、ユゴーさんのあとを歩いた。
◇◆◇
師匠とリュカは、私を見ると驚いた。
先に口を開いたのは、師匠だった。
「おい、来るなと言っただろ」
眉間に、深いしわが寄っている。リュカも、すぐにこちらへ来た。
「エリアナ様、ここは前線です。危ないですよ」
二人とも、思ったとおりの反応だった。
私は、少しだけ笑った。ちゃんと心配してくれる。そのことは、うれしかった。
「私は平和の使者としてきたのです。害されることがありますでしょうか?」
少し改まった言い方をすると、師匠は、ますます難しい顔になった。リュカも、すぐには何も答えなかった。
私は、続けた。
「今日は、話し合いをお願いしに来ました。王都の人たちは、毎日のパン作りに疲れています。このまま続けば、今までどおりには作れなくなります」
家庭からパンを持ってきてくれる人たちのこと。夜遅くまで窯を使っているパン屋のこと。ギルドの厨房で、明日の分を仕込んでいる人たちのこと。
私は、見てきたことを話した。
「こちらでも、疲れている人を見ました。勝ったあとに、また戦わなければならないのなら、一度、話をしてみませんか?」
師匠が、口を閉じた。
その横で、リュカが陣の外へ目を向けた。休んでいる兵士さんたちを、私と同じように見たのだと思う。
「私は、殿下を支持しますぞ!」
声を上げたのは、ブライ侯ロドニーだった。
領地から兵を率いてきた侯は、ここで軍に加わっていた。私の話を最後まで聞いてから、師匠へ向き直る。
「相手が交渉に応じるか、まずは確かめてみましょう。話し合いの余地があるなら、試みる価値はあります」
師匠は、しばらく考えていた。
それから、短く息を吐く。
「……わかった。まず、使いを出す」
「ありがとうございます」
「お前は、ここで待ってろよ」
最後のひと言は、私に向けられたものだった。
私は、今度は素直にうなずいた。
◇◆◇
「では、私が参ります」
ユゴーさんが、使者として敵陣へ向かうことになった。
交渉を申し入れる書状を携え、出ていく姿を見送る。私は、天幕の入口に立ったまま、その背中を見ていた。さっき自分で平和の使者と言ったけれど、実際に敵のところへ行く人を待つのは、落ち着かないものだった。
リュカが、そばに立った。
「少し、お座りになりませんか」
「うん。でも、もう少しだけ」
森のほうを見ても、ユゴーさんの姿は、もう見えなかった。
思ったより早く、戻ってきた。
遠くに姿を見つけて、私は思わず一歩前へ出た。ユゴーさんは落ち着いた足取りで近づいてきて、私たちの前で頭を下げる。
「向こうは、交渉に応じるとのことです」
「……応じてくれたんですね」
「はい。三日後に、話し合いの場を設けたいとの返答を受け取りました」
私は、ようやく息を吐いた。
まだ、停戦が決まったわけではない。どんな話になるのかも、何を求められるのかも、わからない。
けれど、向こうも話を聞くと言ってくれた。
それなら、私たちにも話せることがある。
◇◆◇
交渉の日を待つ間にも、王都からパンは届いた。
籠を下ろす人たちを見て、私は受け取りを手伝った。そろった丸いパンの間に、少し細長いものも、形の違うものも混じっている。街のあちこちで焼かれたものが、ここまで運ばれてきていた。
兵士さんが、その一つを手に取った。
「ありがとう」
短く礼を言い、仲間のところへ戻っていく。
私は空いた籠を持ち上げながら、今日も焼いてくれている人たちの顔を思い浮かべた。話し合いがまとまるまでは、この仕事も続く。だからこそ、きちんと話をしたかった。
そして、三日後。
約束の日の朝は、静かだった。
天幕の外で、支度をする人たちの足音が聞こえる。私は服を整え、待っているユゴーさんのところへ向かった。
「エリアナ殿下、お時間です」
私はうなずいた。
ついに、停戦交渉の日が来た。
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