第34話 私の寄り道
【エリアナ視点】
王宮からの帰り道、いつもなら曲がる角を、そのまま通り過ぎてみた。通りの先に、いくつもの布屋根が見えていたからだ。風にはためく赤や黄色の下から、品物を勧める声が聞こえてくる。
市場だった。
籠いっぱいの野菜を並べた店もあれば、布や糸を売っている店もある。吊るされた小さな鈴が鳴り、その向こうを、大きな袋を抱えた女の人が歩いていった。私は道の端へ寄ってその人を通すと、空いた場所から店先をのぞき込んだ。
特に、買わなければならないものはない。何時までに戻らなければ、という予定もなかった。気になるものがあれば立ち止まり、なければ次へ行けばいい。
そう思って歩き始めたところで、甘い匂いがした。
「お嬢さん、焼きたてだよ。ひとつどう?」
呼ばれたほうを見ると、店のおばさんが天板を置いたところだった。こんがり焼けた包み焼きが並んでいる。端のほうから、煮た林檎が少しだけのぞいていた。
「これ、中は林檎ですか?」
「そう。甘く煮たのを入れてあるんだよ。今なら、まだ熱々だ」
王宮を出るまでは、お腹が空いていると思っていなかった。けれど、目の前に焼きたてを並べられると、急に食べたくなる。私は財布を開き、言われた分の銅貨を取り出した。
「ひとつください」
「はいよ。端っこから食べな。中が熱いからね」
紙に包まれたそれを受け取ると、指先まで温かくなった。店の脇へよけて、教わった通り、端をひと口かじる。薄い生地がさくっと割れ、そのあとから、甘酸っぱい林檎の味が広がった。
「……おいしい」
思わず、もうひと口かじってしまった。
「あふっ」
今度は、中身までしっかり届いた。
熱い。
口を閉じることもできずにいると、おばさんが笑った。
「ほら、言っただろ。ゆっくり食べな」
「は、はい……」
なんとか飲み込んでから、私も笑った。次のひと口は、ちゃんと息を吹きかけて冷ますことにする。包み紙の中に落ちた欠片まで惜しくなるくらい、おいしかった。
王太子だったころなら、通りで買ったものを、その場でかじることはなかった。食べたいと言えば、誰かが用意してくれただろうけれど、目の前で焼き上がったものを受け取って、熱さに慌てながら食べるのは、まったく別の楽しさだった。
「ありがとうございました。また買いに来ます」
「うん。またおいで」
気軽な返事を背に受けて、私は残りを少しずつ食べながら歩き出した。
◇◆◇
次に足が止まったのは、布小物の店だった。手拭いや袋物の間に、小さなよだれかけが並んでいる。白い布に、黄色いひよこが刺繍されていた。
レオンに、どうだろう。
さっき会ってきたばかりなのに、もう弟の顔が浮かんだ。身の回りのものは十分そろっているはずだけれど、お姉ちゃんからの小さなお土産が、ひとつくらいあってもいいと思う。
「贈り物かい?」
店の女の人に声をかけられて、私はうなずいた。
「弟に。まだ、赤ちゃんなんです」
「だったら、こっちの布が柔らかいよ。触ってごらん」
勧められたものに指を添えると、ふわりと柔らかかった。同じ布で、ひよこの刺繍と、小さな兎の刺繍がある。私は二枚を見比べ、ひよこを手に取り、それから、もう一度兎を見た。
「……どちらも、かわいいですね」
「迷うだろう?」
「はい」
ひよこは三羽並んでいた。兎は一匹だけで、少し首をかしげている。レオンに当ててみたところを想像すると、どちらも似合う気がした。
難しい。
書類なら、条件を比べて決められる。けれど、弟にひよこと兎のどちらが似合うかなんて、どうやって決めればよいのだろう。
「お姉ちゃんの気に入ったほうで、いいんじゃないかい」
女の人が、笑いながら言った。
お姉ちゃん。
その呼び方がうれしくて、私はもう一度、手元のひよこを見た。よく見ると、三羽のうち一羽だけ、少し上を向いている。
「こちらにします」
「はいよ。包んでおこうね」
薄い紙に包んでもらう間、私は棚に残った兎を見ていた。あちらも、やっぱりかわいい。でも、今日はひよこだ。次に弟に会う日は、これを持っていこう。
誰かのお土産を選ぶだけで、こんなに時間が経つとは思わなかった。急かされることもなく迷っていられたので、買い終わったあとまで、なんとなく楽しかった。
◇◆◇
市場を抜けようとしたところで、また足が止まった。
今度は、木工品の店だ。
匙や小皿、蓋つきの箱などが並んでいる。その端に、丸くなって眠る猫がいた。もちろん、本物ではない。手のひらに載るくらいの、小さな木彫りの猫だった。
鼻先を尻尾に埋め、目を細く閉じている。ずいぶん気持ちよさそうな顔だ。
「手に取ってもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
店主のおじさんに言われ、持ち上げてみた。背中はすべすべしていて、親指で撫でると、ちょうど手に馴染む。横には、座っている猫と、伸びをしている猫もいた。
「これは、何かに使うものですか?」
「置いとくんだよ」
「……置いておく」
「棚とか、窓辺とかにな」
なるほど。
小物入れになっているわけでも、何かを挟めるわけでもない。ただ、猫が寝ているだけだった。
私はもう一度、その顔を見た。
かわいい。
部屋の窓辺に置いたら、朝も夜も、この顔で寝ているのだろう。仕事から帰ってきても、きっと寝ている。こちらが忙しく支度をしていても、やっぱり寝ている。
なんだか、それがよかった。
「この子、ください」
「寝てるやつかい?」
「はい。よく寝ているので」
おじさんは、少し笑って値段を教えてくれた。私は財布の中を確かめ、銅貨を数える。今日のお買い物は、これでおしまいにしておこう。
お金を渡すと、猫は小さな紙袋に入れられた。受け取ってからも、私は袋の口を少し開けて中を見た。選んだばかりの猫が、暗い袋の底でも、変わらずすやすや眠っていた。
◇◆◇
市場の先には、川沿いの道があった。
水面に日差しがきらきらと反射し、向こう岸では、洗った布が風に揺れている。橋の上を荷車が通り、そのあとを子供が二人、何か話しながら歩いていった。
少し歩いたところで、空いている長椅子を見つけた。座ってみると、足が思ったより疲れていたことに気づく。夢中になって、ずいぶん店をのぞいていたらしい。
膝の上に買ったものを並べた。レオンのよだれかけと、私の猫。食べてしまった林檎の包み焼きは、もう残っていないけれど、口の中には、まだ少し甘い味がした。
猫を袋から出し、手のひらに載せてみる。日に当たると、背中の木目がよく見えた。お店で見たときより、少し明るい色に見える。
「あなた、よく寝るわね」
もちろん、返事はない。
ひとりでそんなことを言って、私は少し笑った。通りかかった女の人が猫に目を留め、「かわいいねえ」と言ってくれたので、うれしくなって、少し持ち上げて見せた。
「そこの市場で買ったんです」
「あら、あとで見てみようかしら」
女の人は、そのまま歩いていった。ほんの短いやり取りだったけれど、自分の選んだものを褒めてもらえた気がして、私はまた猫の背中を撫でた。
王太子のころにも、たくさんの品物を見た。けれど、必要かどうかもわからない木彫りの猫を、自分のお金で買って帰ったことはなかった。今日のこれを誰かに説明するとしたら、かわいかったから、としか言えない。
それで、よかった。
帰ったら、窓辺に置こう。朝起きたら目に入る場所がいい。レオンのお土産は、次の休みに忘れないよう、別にしておかなければ。
そんなことを考えながら、猫を袋へ戻した。川を渡ってきた風が頬に触れ、私は少しだけ顔を上げる。市場の声は、ここまでは届かなかった。水の音と、橋を渡る人たちの足音が聞こえている。
まだ、日が暮れるまでは時間がある。
私は買い物袋を膝に載せたまま、長椅子に座り直した。もう少しだけ、ここでのんびりしてから帰ろうと思った。
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