第33話 弟の顔を見る日
【エリアナ視点】
私は、週に一度、弟の顔を見ることにしていた。かわいい弟である。まだ寝ている時間も長いけれど、起きているときに顔をのぞき込むと、こちらをじっと見てくれることがある。それだけで、来てよかったと思ってしまうのだから、私もずいぶん甘い姉になったものだ。
できれば、まっすぐ育ってほしい。偉大な王にならなくてもいい。もう魔王はいないのだから、歴史に名を残すような英雄になる必要もない。周りの人の話を聞いて、無理なことは無理だと言えて、毎日の仕事をひとつずつ片づけられる。そんな、凡庸な王でいいのだ。
もっとも、今の弟にとって大切なのは、よく飲んで、よく眠ることだろう。国のことを考えるのは、まだまだ先でよかった。
そんなわけで、次の休みの日も王宮へ行くつもりだったところに、ユゴーさんが来たのである。私はその日にうかがうと約束し、弟に会う前に、政務の部屋へ顔を出すことになった。
正直なところ、少し身構えていた。また、机からあふれるほどの書類が待っているのではないか。あちらの部署とこちらの部署で話が食い違い、誰も動けなくなっているのではないか。廊下を歩きながら、そんなことばかり考えてしまった。
ところが、扉が開いてみると。
「……あら?」
机の上が、きれいだった。
◇◆◇
書類が一枚もない、というわけではない。けれど、必要なものが種類ごとにまとめられ、手をつける順番もわかるようになっていた。以前のように、どこから探せばよいのかわからない山は、どこにも見当たらない。
私が思わず机を見回していると、摂政のオスヴァルトさんが、にこにこと笑った。宰相だったころよりも、心なしか顔色がよくなったように見える。
「いやはや、風通しが良くなったおかげで、ずいぶん仕事がやりやすくなりましたわい!」
「そうなんですか」
「ええ。担当者の報告が、そのまま上がってくるようになりましてな。問題があれば、関係する者を集めて相談できます。決まったことも、きちんと現場へ伝わるようになりました」
それは、よかった。
以前なら、報告を上げる前に、誰の顔を立てるかで揉めていた。必要な相談をするにも、相手の機嫌をうかがわなければならないことがあった。そういう手間が減るだけでも、仕事はずいぶん進むのだろう。
説明を聞くと、国の問題が全部なくなったわけではなかった。けれど、何が問題なのかを確かめて、誰が取りかかるかを決めるところまでは、ちゃんとできているらしい。私が戻ってこなくても、王宮の仕事は回っていた。
ほっとして肩の力を抜いた、そのときだった。
「すみません、エリアナ様。その……」
ブライ侯ロドニーが、小さな書類の束を持ってきた。
「印璽を押す仕事だけ、残っておりまして……」
印璽とは、要はハンコのことである。ただし、買い物の受け取りに押すようなものではない。王の正式な承認を示す、大事なハンコだ。
「ああ、それがありましたね」
書類を受け取り、一枚目をめくる。兵の配置に関する文書だった。その下には、任務を終えた部隊を各地へ戻すための命令書が続いていた。どれも必要な検討は終わっていて、最後の承認を待っているものらしい。
「陛下は、まだお小さくていらっしゃいますからな。私どもが確認したものを、殿下にもご覧いただき、代わって押印していただければと」
オスヴァルトさんの説明に、私はうなずいた。たしかに、弟にこれを持たせるのは、まだ無理だろう。印璽を渡すよりも先に、指を握られて終わりそうだった。
「じゃあ、やりますよ。でも、王宮に来たのは、私が休みの日に弟の顔を見に来ただけですからね」
「もちろん、承知しております」
「今日は、この分だけですか?」
「はい。こちらで全部です」
ロドニー侯が、きっぱりとうなずいた。私は書類の厚みをもう一度確かめてから、椅子に座った。これくらいなら、弟がお昼寝から起きるまでに終わりそうだった。
◇◆◇
内容を読み、添えられた説明にも目を通す。必要な人数も、動く日取りも、関係する部署で確認されていた。以前のように、私が一から話を聞き直す必要はない。ひとつずつ確かめながら、私は印璽を押していった。
この国には、王にしか決裁できない仕事がある。軍に関することは、その代表だった。もともとアルヴェリアは、魔王と戦うための軍事国家だ。兵を集め、武器をそろえ、食料を送り出す。長い間、内政よりも軍事が優先されてきた。
それが必要だった時代は、たしかにあったのだと思う。魔王軍が迫っているときに、のんびり町を豊かにしようと言っても、守れなければ失われてしまう。けれど、師匠たちは魔王を倒した。あの人たちが戦い抜いてくれた先で、私たちは今、暮らしている。
これからは、国を富ませなければならない。
荒れた土地を立て直し、道を直し、人や品物が行き来できるようにする。働いた人が、その日の食事を楽しみにできるようにする。食堂でお客さんの顔を見ていると、そういうことが、以前よりもずっと身近に感じられた。
何のために魔王に勝ったのか。
その問いには、戦いを終えたあとの私たちが、答えを出していく必要があるのだろう。師匠に、もう一度強い剣を振るってもらうような話ではない。今、机の向こうで仕事をしている人たちにも、畑を耕す人にも、料理を作る人にも、それぞれにできることがある。
最後の一枚を確かめ、印璽を押した。書類をそろえて返すと、ロドニー侯が丁寧に受け取った。
「助かりました、エリアナ様」
「では、私はレオンのところへ行きますね」
「ええ。どうぞ、ごゆっくり」
オスヴァルトさんは、もう次の報告書を手に取っていた。その様子を見て、私は安心して部屋を出た。
◇◆◇
弟の部屋には、柔らかな日差しが入っていた。乳母のイレーヌさんに声をかけると、ちょうど目を覚ましたところだと教えてくれる。寝台をのぞき込むと、レオンは小さな手を動かしながら、天井のあたりを見ていた。
「レオン。お姉ちゃんが来ましたよ」
声をかけると、ゆっくり顔がこちらへ向いた。私のことがわかっているのか、ただ声のするほうを見ただけなのかは、まだわからない。それでも、目が合ったような気がして、つい頬が緩んでしまう。
イレーヌさんに手伝ってもらい、弟を抱き上げた。腕の中の体は温かくて、思っていたよりもしっかり重い。頭をそっと撫でると、レオンは私の袖口に手を伸ばし、小さな指で布をつかんだ。
「いい子ね。ちゃんとお留守番してたのね」
弟からすれば、ここが家なのだから、お留守番も何もないのかもしれない。けれど、ほかに何を話せばよいのかわからなくて、私は今日のお天気や、食堂であったことを、ぽつぽつと聞かせた。レオンはときどき口を動かしながら、私の腕の中に収まっていた。
この子に物心がついたら、父や母、姉のことも教えなければならない。どんな人たちだったのか。何をして、なぜ今はサルデー島で暮らしているのか。まだ言葉もわからない弟を前にすると、ずっと先のことのように思えるけれど、いつかは話す日が来る。
そのとき、会いたいと言うだろうか。それとも、会いたくないと思うだろうか。
それは、弟に任せようと思った。私には私の気持ちがある。けれど、レオンが自分の家族をどう思うかまで、私が決めることではない。わかるように話して、尋ねられたことに答えて、そのうえで、あの子自身に考えてもらおう。
今はまだ、この小さな頭を、いい子いい子と撫でていられればよかった。
◇◆◇
しばらくすると、弟のまぶたが重たそうになってきた。袖をつかんでいた手からも力が抜け、やがて、小さな寝息が聞こえ始める。私はイレーヌさんに弟を預け、寝台へ戻された顔を、もう一度のぞき込んだ。
「また来週ね、レオン」
もちろん、返事はない。けれど、気持ちよさそうに眠っているのを見れば、それで十分だった。
王宮を出ると、門の外には、いつもの王都の賑わいがあった。仕事は片づいたし、弟の顔も見られた。今日はまだ、私の休みが残っている。帰り道を少し遠回りしてみようかと考えながら、私は日差しの暖かな通りへ歩き出した。
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