第32話 酒場のアイドル・エリアナ
【エリアナ視点】
「エリアナちゃん、こっちにも麦酒を!」
「はい、ただいま!」
「こっちは煮込みのおかわり!」
「パンもお持ちしますか?」
「ああ、頼む!」
冒険者ギルドの酒場兼食堂で働き始めて、しばらく経った。料理の名前も、食器の置き場所も、だいぶ覚えた。
お客さんの顔も、少しずつわかってきた。
窓際に座ることが多いガエルさんは、煮込みを必ず大盛りにする。
槍使いのアデルさんは、食事の最初に麦酒を頼むけれど、仕事が残っている日は水にする。
そういう小さなことを覚えていると、注文を聞くのも楽しかった。
「アデルさん、今日はお水でよろしいですか?」
「よく覚えてるね。まだ報告を書かなきゃいけなくてさ」
「では、お水と、いつものお料理ですね」
「助かるよ」
笑ってもらえると、私もうれしい。
ただ、少し困ったこともある。
名前を覚えてもらったら、あちこちから呼ばれるようになったのだ。
「エリアナちゃん!」
「はーい!」
「こっちも!」
「順番にうかがいますね!」
お盆を持って戻ると、ブリジットさんが笑っていた。
「すっかり、うちの看板娘だねえ」
「呼ばれてばかりで、足が足りません」
「足は二本ありゃ十分だよ。ほら、こっちはあたしが持ってく」
ひょいと皿を取り上げ、ブリジットさんが客席へ向かう。
「エリアナばっかり呼ぶんじゃないよ! あたしに頼んだって、同じ料理が出てくるんだからね!」
食堂に、どっと笑いが起きた。
前世の言い方をするなら、アイドル、ということになるのだろうか。
私としては、おいしい料理を温かいうちに運べれば、それでうれしいのだけれど。
もっとも、初めから何もかも順調だったわけではない。
一度だけ、ちょっとした騒ぎがあった。
◇◆◇
それは、夕方のお客さんが増え始めたころだった。
「おい、ねーちゃん」
呼び止めたのは、体の大きな男の人だった。
卓上には、空になりかけた麦酒の杯がある。
「はい。何かございましたか?」
「これ、肉が少ねえぞ」
男の人は、煮込みの皿を指さした。
見たところ、ほかのお客さんと同じ量だった。
「お肉を追加なさいますか? 追加のご注文でしたら――」
「金を取るってのか?」
「はい。追加分のお代は、いただくことになります」
そう答えると、男の人は鼻を鳴らした。
「王族さまがお遊びで働いてる店なんだろ。そのくらい、おまけしろよ」
私は、少しだけ眉を寄せた。
お遊びのつもりはなかった。
それに、ここの食材は、私が勝手に配ってよいものでもない。
「おまけについては、私では決められません。店主を呼んでまいりますね」
いったん下がろうとすると、男の人が手を伸ばしてきた。
「待てよ。まだ話してるだろうが」
私の手首をつかんだ、その手に力がこもる。
お盆が、少し傾いた。
あ。
危ない。
反射的に体をずらし、つかまれた腕を返した。
相手の体勢が崩れたところで、その腕を押さえる。
「うおっ!?」
男の人が椅子から腰を浮かせ、そのまま床に片膝をついた。左手のお盆では、杯の中の麦酒が揺れていた。
こぼれていない。
よかった。
「手を離していただけますか」
「わ、わかった! 離す、離すから!」
つかんでいた指がほどけたので、私もすぐに手を離した。男の人は自分の腕を抱え、私を見上げていた。
その向こうから、ブリジットさんがやってくる。
「バスティアン。あんた、何やってるんだい」
声が、低かった。私に仕事を教えてくれるときとは、ずいぶん違う声だった。
「いや、ちょっと、その……」
「働いてる子の腕をつかむのが、ちょっとかい?」
男の人が黙った。ブリジットさんは、私のお盆を確かめるように見てから、もう一度そちらを向いた。
「そもそも、セヴランの弟子にちょっかい出すなんて、あんたも無茶をするねえ」
その言葉に、近くの席の人たちが顔を上げた。
「セヴランって、勇者の?」
「この子が?」
「ああ、そうだよ。本人が連れてきたんだからね」
ブリジットさんは、こともなげに答えた。
バスティアンさんの顔が、なんとも言えないものになった。
「……悪かった」
今度は、ちゃんと私に向けた言葉だった。
「次からは、お話だけにしてくださいね。料理を落とすと困りますので」
そう言うと、男の人は何度もうなずいた。
そのあとは、ブリジットさんが引き受けてくれた。
私は、持っていた麦酒を、待っているお客さんのところへ運んだ。
幸い、泡もまだ残っていた。
◇◆◇
その日のうちに、私が勇者の弟子だという話は、食堂中に広まった。王族だということは知っていても、剣を習っていたことまでは知らなかった人が多いらしい。
「なるほどねぇ」
最初にそう言ったのは、ガエルさんだった。
「皿を運ぶときも、やけに足運びがしっかりしてると思ったんだよ」
「そうなんですか?」
「あの混み合ったところを、よくぶつからずに通るなってな」
自分では、あまり意識していなかった。
でも、師匠に何度も足の置き方を直されてきたのは、たしかだ。
給仕の仕事にも、役に立っていたらしい。
「なるほどねえ」
次に言ったのは、アデルさんだった。
「セヴランさんが来ても、普通に給仕してるからさ。王族だから気後れしないのかと思ってた」
「師匠とは、長いお付き合いなので」
「あの人に剣を教わってるのか。そりゃ、強いわけだ」
ほかにも、目を輝かせて質問してくる人がいた。
「勇者の稽古って、どんなことをするんだ?」
「まず、構えと素振りです」
「……もっと、すごい技とかは?」
「構えを崩すと、そのたびに注意されます」
なぜか、少し残念そうな顔をされた。
けれど、本当なのだ。
師匠は、そういうところにとても厳しい。
何度も何度も繰り返しているうちに、考えなくても足が動くようになる。
さっきのことも、そのおかげだと思う。
「エリアナちゃんにも、ちょっと教わりたいな」
「剣の稽古でしたら、師匠の道場へどうぞ」
そう答えると、横からブリジットさんが口を挟んだ。
「そうそう。うちの給仕を、仕事中に借りていくんじゃないよ」
また、笑い声が上がった。
勇者の弟子だとわかってからも、お客さんたちの態度は、それほど変わらなかった。
剣の話を振られることは増えたけれど、頼まれるのは相変わらず、煮込みやパンや麦酒だった。
ただ、私の腕をつかもうとする人は、それきりいなくなった。
それは、とても助かった。
◇◆◇
そうして、私の毎日は、賑やかに過ぎていった。
仕事へ行く。
エプロンをつける。
お客さんの話を聞き、料理を運ぶ。
忙しい時間が過ぎれば、ブリジットさんたちとまかないを食べる。
ときどき師匠が顔を出して、最近の稽古はどうだと聞いてくる。
リュカも、仕事の合間に食事へ来ることがあった。
「騎士団長さん、今日は何になさいますか?」
「その呼び方は、少し落ち着かないですね」
「じゃあ、リュカ。今日の煮込み、おすすめよ」
「では、それをお願いします」
そんなやり取りができるのも、うれしかった。
自分で選んだ場所で働き、自分で稼いだお金を使う。
帰り道においしそうな焼き菓子を見つけたら、ひとつ買う。
明日は何をしようかと考える。
そういう暮らしを、私は気に入っていた。
そして、その日も。
「エリアナ、窓際の皿を下げておくれ」
「はい!」
いつも通りに働いていた。
食べ終わった皿を重ね、お盆に載せる。
扉が開く音がしたので、私は顔を上げた。
「いらっしゃいま――」
言葉が、途中で止まった。
冒険者たちの間に、きちんとした身なりの人が立っていた。
背筋を伸ばし、こちらを見つけると、丁寧に頭を下げる。
よく知っている顔だった。
「……ユゴーさん?」
「お仕事中に失礼いたします、エリアナ様。王宮から参りました」
私は、お盆を持つ手に、少し力を込めた。ユゴーさんは、いつもの礼儀正しい顔で続けた。
「少々、お時間をいただけますでしょうか」
食堂では、相変わらず、お客さんたちが楽しそうに話している。
厨房からは、煮込みのいい匂いがしていた。
私は、その賑やかさの中で、そっと息を吸った。
……嫌な予感がする。
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