第3話 玉座に届かなかった仕事
【ブライ侯ロドニー視点】
「なぜ、これほど書類がたまっている」
国王アルベルト陛下が、卓上の束を手で払った。一枚が滑り落ち、私の靴先に触れる。拾い上げると、国境の砦から届いた食糧の請求書だった。隅に赤い字で、三度目の催促とある。
エリアス殿下が王宮から姿を消して、十日余り。
私は領内の橋の修繕について協議するため、王都に来ていた。ところが通された会議室では、内閣の閣僚たちが朝から声を荒らげていた。
窓辺の茶は冷えきっていた。茶請けの焼き菓子に、誰も手をつけていない。
「たまっているだけなら、まだよろしい」
王国軍総司令官のガスパールが、低く言った。日に焼けた太い指が、私の拾った紙を示す。
「兵糧が届いておりません。砦では、兵が食事を減らしてしのいでいます」
「軍の補給は、お前の仕事であろう」
「倉庫には食糧がございます。運ぶ荷馬車が来ないのです」
財務大臣マティアスが、眼鏡を押し上げた。
「運送費は支払い済みです。馬車も確保したと報告を受けています」
「その馬車なら、橋の工事へ回っております」
答えたのは、内務大臣エドガーだった。革の書類入れから一枚を抜き、卓の中央へ置く。
「陛下のご命令です。春の増水で傷んだ橋を、優先して直せと」
ガスパールも、懐から命令書を出した。
「こちらには、軍の輸送を最優先にせよとあります」
二枚の紙に、同じ国王の印が押されていた。
私はそれを見比べた。日付は一日違い。同じ地域の荷馬車を、同じ期間に使うよう命じている。
「どちらかが融通すればよいではないか」
「融通をつけるため、五日前から内閣へ裁定を求めております」
ガスパールの声が、少しだけ大きくなった。
「返事はございません。補給の約束だけが、部隊へ三度届きました。兵たちは、王都が自分たちを見捨てたのかと言い始めています」
陛下の指が、卓をたたいた。
「不満を口にする暇があるなら、任務に当たらせろ」
「腹をすかせた兵に、誤った到着日を伝え続けることはできません」
ガスパールは頭を下げなかった。
彼は、戦場で声を荒らげない男として知られていた。その男のあごが、固く張っている。
私は紙の端をそろえた。橋を直さなければ、兵糧を積んだ馬車は遠回りをする。工事へすべて回せば、その間に砦の備蓄が尽きる。
どちらか一枚を捨てれば済む話ではなかった。
「以前は、どう決めていたのです」
私が尋ねると、閣僚たちが宰相を見た。
オスヴァルト宰相は、卓の端に置いていた薄い帳面へ手を伸ばした。いつも寸分の乱れもない襟元が、その日は少し曲がっていた。
「……こちらを、ご覧ください」
◇◆◇
帳面には、細かな字で日付と数字が並んでいた。
橋の修繕日。軍の輸送日。荷馬車を戻すまでの日数。雨で川が増水した場合の、別の道まで書き込まれている。
見覚えのある筆跡だった。
昨年、私が提出した治水工事の見積もりにも、同じ字の書き込みがあった。工事の時期を半月ずらせば、農村の馬を借りずに済む、と。
「エリアス殿下の字ですな」
「はい。王太子の執務記録です」
マティアスが身を乗り出した。
「その輸送予定表は、宰相府で作っていたのでは?」
「各部署の案を照合し、殿下が修正されていました。修正後のものを、宰相府から出しております」
紙をめくる音が、急に速くなった。
「こちらの二重払いを止めたのも?」
「殿下です」
「水害を受けた村への徴税を、救済金の支給まで止めた件は」
「内務と財務の書類を、殿下が突き合わせておられました」
エドガーが、椅子の背から体を起こした。
「では、今月の徴収簿は」
マティアスは答えず、自分の書類をめくった。やがて、その手が止まった。
「修正前のものが、出ています」
救済のために渡した金を、徴税官が取り立てに行く。
私は帳面へ目を戻した。余白に、小さな字があった。
『同じ村です。部署が違っても、受け取る人は同じです』
その下に、確認済みの印がいくつも並んでいた。
「殿下には、執務を学ばせていただけだ」
陛下が言った。
「あれが勝手に手を出していたのであろう。大げさに騒ぐことではない」
オスヴァルトは、帳面を閉じなかった。
「各省から来る不備を直し、必要な担当者を呼び、陛下が判断できる形にまとめる。その仕事を、殿下にお願いしておりました」
「ならば、次の者にやらせよ」
「後任は、置かれておりません」
窓の外で、庭師が枝を切る音がした。
「殿下を西の塔へ移す際、執務への関与をやめさせよとのご命令でした。ですが、実務はあくまで教育の一環として扱われておりました。引き継ぐべき職務として、整理されていなかったのです」
学ばせていた。
その一言で片づけていたから、失わせた仕事の量も、誰も数えなかったのか。
すでに整えられた予定や決裁があるうちは、各部署も以前のとおりに動けた。新たな調整が必要になって、初めて穴が見えたのだ。
「宰相。あなたは、ご存じだったのでしょう」
私の問いに、オスヴァルトは目を伏せた。
「……承知しておりました」
「それで、止めなかった」
「はい」
短い返事だった。私はそれ以上、追及しなかった。いま必要な言葉は、別にあった。
「この帳面を写し、各部署に渡してください。まず、止まっている仕事を拾わねばならぬ」
「記録はあります」
エドガーが、静かに言った。
「ですが、今日の川の水位も、倉庫の残りも、この帳面にはありません。誰が話を集め、どの順で動かすかを決めるのです」
全員が、卓の奥を見た。
「馬車が足りぬなら、村から集めよ」
「春の畑を耕す馬です。すでに必要な分は借りております」
「ならば橋の工事を止めろ」
「その場合、輸送日数も費用も変わります。軍令と予算の修正を、同時にお願いします」
陛下の顔が赤くなった。
「細かなことまで、いちいち余に言わせるな!」
マティアスが、ゆっくり眼鏡を外した。
「細かなことを整えたうえで、お決めいただいていたのです。その役を失ったまま、命令だけを増やされては、私どもも責任を負えません」
沈黙が落ちた。
ガスパールは二枚の命令書を、陛下の前へ押し出した。
「軍は、どちらに従えばよろしいのですか」
答えはなかった。
やがて陛下は椅子を立ち、宰相に片づけておけと言い残して、部屋を出ていった。
◇◆◇
会議は、結論の出ないまま終わった。
ガスパールは砦へ当面の配給を指示するために戻り、マティアスは支払いの確認へ走った。エドガーは誤った徴収簿を止める使者を出すと言った。
誰もが、自分の持ち場で被害を抑えようとしている。
だが、卓の上には相反する二枚の命令書が残ったままだった。
「エリアス殿下へ、連絡は取れないのですか」
私が尋ねると、残っていたオスヴァルトが扉を見た。閉じているのを確かめてから、声を落とす。
「北の離宮には、おられません」
「静養中と聞いておりますが」
「王宮を出られました。陛下の制止を振り切って」
私は宰相の顔を見た。
「では、病ではないのですな」
「ええ。……侯には、内々の捜索にお力を貸していただきたい」
オスヴァルトは指を組んだ。爪の脇の皮が、赤くむけていた。
「公には捜せない事情がございます。男の姿だけを捜しても、見つからぬかもしれません」
「どういう意味です」
「殿下は、女性です」
しばらく、言葉の意味がつかめなかった。
「本来のお名前は、エリアナ。男子のなかった王家が、生まれたときから王子として育ててきた方です」
「マルグリット王妃も、ご承知なのですか」
「はい。セレスティア王女殿下も、出生の事情はご存じです」
廊下を通る靴音が、扉の前で遠ざかった。
私は、先ほど読んだ帳面を見た。細かな字の並ぶ紙。幾度も引き直された予定。誰かの暮らしが止まらぬよう、最後までそろえられた数字。
あの方は、自分の名前さえ自由に使えないまま、これを書いていたのか。
「レオン殿下がお生まれになって、役目が終わったと?」
「陛下は、北の離宮で静かに暮らすようにと」
「本人は、それを望まなかった」
「はい」
私は手袋をはめた。
指の一本一本を直している間、オスヴァルトは黙って待っていた。
「お戻りいただければ、まだ立て直せます」
その言葉に、手が止まった。
私は宰相を見た。帳面を見つけ、仕事の山を見つけたこの男は、まだ、出ていった人間のほうを見ていない。
「先ほどの帳面は、大切に保管なされよ」
私はそれだけ言って、一礼した。
廊下では、軍の使者と内務の役人が、互いに自分の書類を先に通せと争っていた。衛兵はどちらを止めればよいか決められず、二人の間に立っている。
私はその脇を抜け、王宮を出た。
正門の鉄の横木には、新しい継ぎ目があった。そこへ一度だけ目を向けてから、待たせていた馬車へ乗り込む。
向かいの席で、配下のユゴーが膝をそろえた。
「領地へお戻りですか、ロドニー様」
「その前に、捜してほしい方がいる」
扉が閉まると、王宮のざわめきが遠のいた。
「エリアス殿下を……いや、エリアナ殿を捜せ」
「エリアナ殿、でございますか」
「ああ。それが、あの方の本当のお名前だ」
ユゴーは一度だけうなずいた。理由を尋ねるのは、指示を聞き終えてからにする男だった。
「街道の宿や渡し場で、足取りを確かめてくれ。見つかったら、私が会いたがっているとお伝えするように」
「王宮へお連れするので?」
「まず、ご本人の望みを伺う」
私は窓の外を見た。王宮の高い門が、ゆっくり後ろへ流れていく。
「今度は、こちらが話を聞く番だ」
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