第2話 木刀と船賃
潮の匂いは、海が見えるより先に届いた。
街道の坂を上りきった私は、足を止めた。赤茶けた屋根の向こうで、青い光がどこまでも広がっている。白い帆が風をはらみ、遠くの船は、波の上に置いた木の葉ほどに小さかった。
「コエンナです。着きましたよ、エリアナ様」
リュカの声にも、息が弾んでいた。川沿いを何日も歩いてきた長靴には、街道の土がこびりついている。昨日、彼に縫い直してもらったところを指で押さえ、私は坂を下り始めた。
潮風が頬に触れた。荷車の音、船乗りの呼び声、焼けた魚の匂い。どれも私を待たずに行き交っていて、その中へ自分の足で入っていけるのが、たまらなくよかった。
港の屋台で買った魚の串焼きは、皮がパリッとしていた。熱い身をかじると、塩と脂のうまみが舌に広がる。
「慌てると骨が刺さるよ、お嬢ちゃん。勇者様みたいにね」
次のひと口をかじりかけたところで、私は顔を上げた。
「勇者様が、ここに?」
「ああ。灰色の髪を後ろでくくった、無精ひげの。去年の夏の終わりに来たよ」
「セヴラン様ですか」
「そうそう。その人。魔王を倒したお人でも、魚の骨には勝てないらしいねえ」
リュカが口元を押さえた。私は笑うより先に、師匠らしい、と思ってしまった。
「いまも、この町にいらっしゃるんですか」
「いや、海を渡ったよ。向こうの港じゃ、鍋からはみ出す魚の煮込みが食えるって聞いた途端にね」
魔王は、もう倒されている。
それを成し遂げた師匠は、城をもらって落ち着くでもなく、旅を続けていた。来月、海を渡る。林で聞いたあの言葉の先に、この波止場があったのだ。
私は水平線へ目を向けた。あの人に会えたら、まず何を話そう。木剣で王宮の門を切りました、と言ったら、直し代は払ったのかと聞かれるだろうか。
「リュカ。私も、海の向こうへ行ってみたい」
「はい。船を探しましょう」
彼は食べ終えた串を返し、当たり前のように隣へ並んだ。
その頼もしさに浮かれていた私は、船着き場の窓口で、財布の軽さを思い知ることになった。
「二人で銀貨十二枚。食事は別だよ」
財布を開く。銀貨が三枚と、銅貨が少し。リュカが自分の財布を逆さにしても、合わせて五枚に届かなかった。
「……片道で、ですか」
「帰りも乗るなら、帰りも払ってもらうね」
もっともだった。剣なら少しは使えても、海の幅を値切ることはできない。
窓口を離れ、係留用の杭に腰を下ろす。リュカは残った硬貨を数え直してから、私を見た。
「宿代と食費も残さないといけませんね」
「うん。しばらく、ここで働こう」
「僕は靴の修理をできる店を探してみます。エリアナ様は」
「私にも、何かできると思う」
そう答えたとき、倉庫の壁に張られた紙が目に入った。
北の入り江に住みついた魔物の討伐。漁船に被害あり。参加者には手当、討伐数に応じて追加の報酬。
私は最後まで読んで、腰の木剣に触れた。
「これなら、少し覚えがあるよ」
◇◆◇
翌朝、港の倉庫前には、武器を持った人たちが集まっていた。
剣も斧も、朝日に白く光っている。その中で、私の樫の木剣だけが、使い込んだ椅子の脚のような色をしていた。
「ねーちゃん、木刀で何ができるんだ?」
斧を肩に担いだ男が、私の腰を指さした。周りの何人かが笑ったが、男自身は眉を寄せていた。
「相手は大蟹だぞ。殻が硬くて、鉄の剣でも刃が欠ける」
「切れますよ」
「薪の話じゃねえって」
「蟹の話です」
男はしばらく私を見てから、リュカへ顔を向けた。
「止めなくていいのか」
「僕が止めるより、蟹を止めていただくほうが、皆さんのためかと」
真面目な顔で言うので、冗談だと思われたらしい。男はため息をつき、危なくなったら下がれよ、とだけ言った。
リュカは、取りまとめ役から借りた槍の柄を確かめていた。腰の鞘に収まっているのは、まだ折れた剣の柄だけだ。
「私だけで参加してもよかったのに」
「僕も船に乗りますから。それに、帰ってから靴屋へ行く時間はあります」
彼は穂先を人に向けないよう持ち替え、私の隣へ立った。
北の入り江へ着くと、潮の引いた岩場が現れた。打ち寄せる波の白さに交じって、割れた舟板が散らばっている。潮だまりの奥で、大きな鋏がゆっくり持ち上がった。
犬ほどの大きさの蟹だった。一匹ではない。灰色の殻が、岩のあちこちで動いていた。
「濡れた黒い岩は踏まないでください。海藻がついています」
リュカが近くの人たちに声をかけた。砂の詰まった隙間を靴底で確かめ、安全に通れる場所を指す。私はその先へ進み、木剣を抜いた。
最初の一匹が鋏を開いて突っ込んでくる。
踏み込む前に、木目に沿って魔力を流す。足元で波が砕け、冷たいしぶきが手の甲に散った。
鋏をよけ、甲羅へ斜めに剣を通した。
乾いた音が一つ。大蟹は、私の横を滑って止まった。割れた殻の下で脚が縮み、そのまま動かなくなる。
「……切れた?」
背後の声に答える前に、二匹目が来た。
低く払って脚を断ち、返した剣で急所を突く。左から迫った三匹目は、鋏の向きをずらして岩へぶつけた。甲羅が浮いたところへ、一振り。
木剣は折れなかった。握りに刻まれた古い傷が、いつもと同じ場所で指に触れていた。
「奥にもいます!」
リュカの声に顔を上げた。
入り江の影から、ひときわ大きな殻がせり上がる。荷車ほどもある大蟹が、他の蟹を押しのけて進んできた。
斧の男が振り向き、足を滑らせた。黒い岩の上に尻もちをついた、その頭上で鋏が開く。
リュカが男の襟をつかみ、砂地へ引きずり戻した。直前まで男のいた岩が砕ける。飛び散った欠片から、彼は腕で顔をかばった。
私は二人の前へ踏み込んだ。
もう片方の鋏が、腰の高さへ迫る。受け止めず、下をくぐった。振り抜いた木剣が鋏の付け根を断ち、重い塊が水へ落ちる。
波がはね上がった、その向こう。
持ち上がった甲羅の下に、やわらかな継ぎ目が見えた。
息を吐いて、剣先を通す。魔力を刃に沿わせたまま、横へ引き切った。
大蟹の脚が止まった。
私は二歩退いた。巨体が岩へ崩れ落ちると、足の裏まで重い震えが伝わってきた。
波の音が戻った。
「リュカ、怪我は?」
「かすっただけです。そちらは」
「大丈夫」
彼が立ち上がり、男に肩を貸した。それを確かめてから振り返ると、別の参加者が私の木剣を見つめていた。
「それ、本当に木か」
「樫です」
「木の種類を聞きたかったわけじゃねえんだが……」
そのあとも、皆で岩陰を確かめ、残った蟹を追い出した。数の多いところへ私が向かうと、今度は誰も、下がれとは言わなかった。
◇◆◇
討伐した魔物は、全部で二十三匹。
いちばん大きな一匹を含め、私が倒したのは十八匹だった。取りまとめ役は記録を二度読み返し、私の顔を見て、もう一度読み返した。
港へ戻ると、手のひらに銀貨が落ちてきた。
思っていたより、重かった。
私の剣で稼いだお金だった。リュカの参加手当も合わせ、数日分の宿代と食費を取り分ける。船賃までは、あと少しだった。
「ねーちゃん」
振り向くと、あの斧の男がいた。リュカに縫い直してもらった靴の留め革を、具合を見るように踏みしめている。
「朝は悪かった。助かったよ。兄ちゃんもな」
「歩くときに緩むようなら、また声をかけてください」
「靴だけじゃねえ。命の話だ」
リュカは目を丸くし、少し遅れて笑った。
男は私にも頭を下げた。何か返さなければと思ったのに、喉が詰まって、うまく言葉にならない。
王宮で頭を下げられたことなら、数えきれないほどあった。
けれど、襟に銀の獅子がなくても、こうして私を見てくれる人がいる。
「……無事で、よかったです」
やっと答えると、男は照れたように頬をかいた。
その日の夕方、屋台のおかみさんが、串焼きを一本ずつ余分につけてくれた。
翌朝には、港の靴屋からリュカに声がかかった。念願の船乗りの靴を見せてもらえた彼は、その日の夕食の間も、靴底の縫い目の話をしていた。
さらにその次の日、私たちが宿の階段を下りると、入口で漁師が二人、仕事の相談を待っていた。
「木刀のねーちゃんと、靴を直せる兄ちゃんってのは、あんたらかい」
リュカが私を見た。私も彼を見上げた。
海を渡るお金を、少し稼ぐだけのつもりだった。
どうやら私たちの名前より先に、木刀と靴が、町じゅうを歩き始めてしまったらしい。
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