第4話 わたしの新しい生活
【エリアナ視点】
「エリアナ、煮込みを二つ!」
「はい!」
「それと、ダンを外へ出しとくれ!」
「そちらは、お皿に載らないと思う」
女将のハンナさんは、鍋をかき混ぜたまま笑った。
私は盆を卓へ置き、片手で押さえていた椅子を床へ戻した。その椅子を持ち上げようとしている船乗りのダンさんの腰も、つられて下がる。
「くそっ。どうなってやがる」
「そろそろ手を離しませんか。お料理が冷めてしまうので」
ダンさんは、私の右手を見つめた。椅子の背に添えているのは、少しだけ魔力を通した指が三本。両手で引っ張っても動かない理由が、分からないらしい。
私にも、分からないことがある。
なぜ、海を渡るために港町へ来た私が、エプロンを着けて酔っ払いを取り押さえているのだろう。
◇◆◇
きっかけは、前の日の昼だった。
私たちの泊まっている『潮風亭』は、一階が酒場になっている。昼は港で働く人たちに食事を出し、夜になると、船乗りたちの歌が二階の床まで震わせた。
女将のハンナさんは、赤茶色の髪を頭の上でまとめた、よく笑う人だ。鍋の蓋を取る手つきも、酔っ払いを叱る声も、少しも迷わない。
そのハンナさんが、昼食を終えた私を見て言った。
「悪いけど、その皿をこっちへ持ってきてくれるかい」
「うん。重ねても大丈夫?」
「助かるよ。空いてる卓の分も頼める?」
皿を運び、卓を拭いた。ついでに水差しを満たすと、厨房から焼き魚の皿が出てきた。
「それ、窓際へ」
「はい」
「こっちは入口の二人ね」
「分かった」
ここまでは、よかった。
昼の客が引いたころ、私はなぜか、流しの前で袖をまくっていた。湯気の中に魚の脂と石鹸の匂いが混じる。指で皿の縁を確かめていると、肩を軽くたたかれた。
「そこまで。休憩にしよう」
ハンナさんが、温かい果実茶を置いた。
「手伝わせすぎたね。これは今日の分」
茶碗の横に、銅貨が並ぶ。
「ちょっと運んだだけだよ」
「ちょっとで、これだけの皿は片づかないさ」
私は自分の手を見た。指先が、湯で少し赤くなっていた。
頼まれたことをしているうちに、いつの間にか自分の仕事になっている。前の人生でも、よくあったことだ。
けれど、休んでいいと声をかけられ、その場でお金を渡されたことは、あまり覚えがなかった。
「次の船まで、まだ何日かあるんだろう。よかったら、うちで働かないかい」
「私が?」
「ほかに誰がいるのさ」
ハンナさんは私の腰へ目を落とした。
「それに、木刀の子だろう? 漁師連中から聞いてるよ。うちは時々、酒に負けたのに勝ったつもりになる客がいてね」
「用心棒も、ということ?」
「話が早い」
提示されたのは、日当と部屋代、それに二人分の朝夕の食事だった。働くのは昼と夜の忙しい時間。間は休んでよくて、船が出る前日まで。
「皿とお客を、なるべく壊さないこと。それが条件」
「皿は分かるけど、お客さんも?」
「同じくらい大事にしておくれ」
私は条件をもう一度聞いてから、うなずいた。
「それなら、お願いします」
ハンナさんは満足そうに笑い、白いエプロンを差し出した。
「ようこそ、潮風亭へ」
泊まった日に聞いたときとは、少し違う言葉に聞こえた。
◇◆◇
そして今日、さっそく条件を守る機会が来たのだった。
ダンさんは、隣の卓の客と、どちらの船が速いかで言い争っていた。船の代わりに椅子を持ち上げ始めたので、私が止めた。
「こいつを放せ!」
「振り回さないと約束してくれたら」
「俺の腕っぷしを知らねえのか」
「いま、少し分かってきたところです」
後ろの卓で、誰かが飲み物を吹き出した。
ダンさんの耳が赤くなる。椅子から片手を離し、私の肩へ伸ばしてきたので、その手首を取った。
ひねらず、彼が体を起こす向きへ少しだけ導く。
「あれっ」
ダンさんの背筋が、すっと伸びた。空いた椅子を足で卓の下へ戻し、私は彼と並んで入口へ歩く。
「待て。おい、足が勝手に」
「歩いているのは、ご自分ですよ」
扉を開けると、夕方の潮風が入ってきた。外の長椅子へ座ってもらい、手を離す。
「少し、風に当たっていてください。お水を持ってきます」
「……剣は、抜かねえのか」
「お酒を飲みすぎた人に、抜かないよ」
水を渡して戻ると、店の中から拍手が起きた。
「お見事、看板娘!」
「今日も皿が無事だ!」
私は手元の盆を見た。
給仕と用心棒を引き受けた覚えはある。看板娘まで、いつ増えたのだろう。
「ハンナさん、いまの呼び方は」
「いいじゃないか。あんたが料理を運ぶと、みんな顔を上げるんだよ」
「木剣が気になるんじゃないかな」
「それも、うちの看板だねえ」
ハンナさんは笑いながら、焼き魚を盆へ載せた。
「ほら、リュカの分だよ」
窓際の卓で、リュカが小さく手を上げた。
靴屋の仕事を終えてきたところらしい。爪の端には黒い汚れが残り、近づくと、外套から革と蜜蝋の匂いがした。
「お疲れさま。今日はどうだった?」
「船乗りの靴を、三足直しました。底だけではなく、縫い目にも水を通しにくくする工夫があるんです」
「それは、あとでゆっくり聞きたいな」
皿を置くと、彼が慌てて立ち上がった。
「僕が運びます」
「もう運んだよ」
「では、何かほかに」
「座って、温かいうちに食べて」
リュカは椅子を見て、私を見た。そうして、妙に背筋を伸ばして座り直す。
「……落ち着きません」
「私も、最初はそうだった」
人に料理を出して、その人が嬉しそうに受け取る。
それだけのことなのに、皿を置くたび、胸のあたりが少しくすぐったかった。
「そのエプロン」
リュカが言いかけたので、私は裾を見下ろした。
「何かついてる?」
「いえ。似合っていると、思いまして」
忙しい店の音が、一瞬だけ遠くなった。
「……ありがとう」
返事をしてから、盆を持ち直す。どうして持ち直したのかは、自分でも分からなかった。
カウンターの向こうで、ハンナさんがわざとらしく咳をした。
「看板娘、煮込みが冷めるよ」
「いま行きます!」
私は振り返り、その勢いで危うく柱へぶつかりかけた。
魔物の鋏より、よほど避けにくかった。
◇◆◇
忙しい時間が過ぎると、ハンナさんが私の盆を取り上げた。
「はい、交代。あんたも食べな」
「でも、まだ奥の卓が」
「あたしの店だよ。任せときな」
リュカの隣へ座ると、深い皿が運ばれてきた。魚と豆の煮込みに、厚く切ったパン。匙を入れると、白い湯気が頬に触れた。
ひと口食べて、肩の力が抜けた。
塩気は少し強い。けれど、一日動いた体には、それがおいしかった。
「足は痛みませんか」
リュカが、卓の下へ目を向けた。
「少しかな。剣の稽古とは、使うところが違うみたい」
「明日、中敷きを直しましょう。ここ、石の床ですから」
「お願いしてもいい?」
「もちろんです」
彼は自分のパンを割りかけ、私の皿にも十分あるのを見て、そのまま口へ運んだ。
私は、煮込みの豆を匙ですくった。今夜はどちらも、自分の分を温かいうちに食べられる。
「エリアナ様は、この仕事、お嫌ではありませんか」
「うん。楽しいよ」
答えは、すぐに出た。
船には乗りたい。師匠にも会いたいし、海の向こうも見てみたい。
でも、船を待っている今日も、早く終わればいい一日ではなかった。
入口の扉が開き、すっかりおとなしくなったダンさんが顔を出した。手には、空の水差しと杯がある。
「さっきは、悪かった」
「もう椅子は持ち上げない?」
「ああ。……煮込みは、まだあるか」
ハンナさんが顎で席を示した。
「あるよ。食べたら今日は帰りな」
ダンさんは小さくなって座った。私は立ちかけたが、ハンナさんに指を一本立てられ、腰を戻す。
隣でリュカが笑った。
私も笑い、パンで皿の底をぬぐった。
看板娘兼用心棒。ただいま、夕食のため休憩中。
休憩が終わるまで、私はちゃんと座っていた。
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