第25話 急転
【エリアナ視点】
「煮込みを一つ。それと、麦酒を一杯な」
「はい。少々お待ちください」
いつもの声に、いつもの返事をする。
潮風亭の窓際に座っているのは、ダンさんだった。
仕事帰りらしく、上着の肩に少し埃がついている。
私は麦酒を運び、それから、煮込みをよそった木の皿を届けた。
豆と根菜に、肉の旨味が染みた煮込み。
潮風亭の中では安い料理だけれど、ハンナさんは丁寧に作っている。
「お待たせしました」
「ありがとな、ねーちゃん」
ダンさんが、匙を取った。
前なら、このあとに焼き魚を頼んだ。
麦酒をおかわりして、顔見知りのお客さんと大きな声で話し始める。
私は空いた皿を下げながら、そろそろ次の麦酒かな、と考えていた。
けれど、ダンさんは空の杯を置くと、腰を上げた。
「ごちそうさん」
「……もう、お帰りですか?」
つい、聞いてしまった。
ダンさんは苦笑した。
「今日は一杯でおしまいだ」
「そうですか」
「税の分で、しばらく余裕がなくてな。前みたいには飲んでられねえよ」
私は口を閉じた。
ダンさんが、卓に代金を置く。
いつものように指先で軽く卓を叩いた。
「煮込み、うまかったぜ」
「ありがとうございます。また、お待ちしています」
見送りの言葉は、いつもと同じだった。
扉が閉まる。
卓の上には、きれいに空になった皿と、麦酒の杯が一つだけ残っていた。
◇◆◇
ダンさんだけではなかった。
何杯も飲んでいた人が、一杯で帰るようになった。
肉や魚の料理をいくつも並べていた卓には、煮込みの皿だけが置かれる。
毎日のように顔を見せていたお客さんも、間を空けて来るようになった。
ルネ子爵の屋敷で、あの布告を聞いてから。
少しずつ、でも、確かに変わっていた。
復興のための、追加の税。言葉だけなら、立派なものだった。魔王軍との戦いで荒れた土地の復興は必要だ。
けれど今は、空いた椅子や、運ばなくなった皿たちが、目の前にある。
「伯爵様が税を軽くしてくださって、ようやく楽になったと思ったんだがねえ」
そんな声も聞いた。
師匠が半分にした税。
そのおかげで、町の人たちは少しずつ暮らしに余裕を持てるようになっていた。
そこへ、今回の追加分だ。
まとまったお金を納めれば、その分、手元に残るお金は減る。
いつものように働いていても、いつものようには使えない。
お客さんたちは、値段を確かめてから注文するようになった。
私が料理を運ぶと、ありがとうと言ってくれる。
ハンナさんも、いつもどおり大きな声で迎える。
それなのに、店の中は前より静かだった。
おかわりを呼ぶ声が少ない。
椅子を寄せて長話をする人も、少ない。
私は卓を拭き、誰も座っていない椅子を、きちんと元の場所へ戻した。
◇◆◇
「魚は、今日はこれだけにしよう」
朝の厨房で、ハンナさんが言った。
下ごしらえをする魚が、いつもより少ない。
肉を漬け込む容器も、一つ減っていた。
「お肉も、減らすんですか?」
「ああ。仕込んだ分が出なけりゃ、それだけ困るからね」
ハンナさんは、空の容器を棚へ戻した。
「煮込みは、いつもの鍋でいいよ。あれは頼んでもらえてるから」
「はい」
私は根菜の皮をむき始めた。
包丁がまな板に当たる音が、厨房に響く。
いつもなら、その間にもハンナさんから次々と仕事を頼まれる。
今日は、ひとつ終わると、少し手が空いた。
「……仕込み、早く終わりそうですね」
「そうだねえ」
ハンナさんは、煮込みの鍋を混ぜた。
ひと口、味を確かめる。
それから、ほんの少し塩を足した。
「来てくれた人には、ちゃんとうまいものを出さないとね」
「はい」
私はうなずいた。
ハンナさんの手つきは、いつもと変わらない。
減らした材料を見てため息をついても、鍋の前では、きちんと味を確かめる。
その横で、私もパンを切った。
復興のためのお金だという。
けれど、そのお金がどこで、どんな仕事に使われているのか、私にはまだ見えていなかった。
見えるのは、麦酒を一杯でやめる人の顔。
安い料理を選び、早めに帰る人の背中。
仕込みの容器を、棚へ戻すハンナさんの手だった。
◇◆◇
そんな日が、いくつか続いた。
私は料理を運び、皿を洗い、お客さんを見送った。
少なくなった注文にも、できるだけ、いつもと同じ声で返事をした。
ある日の、昼過ぎのことだった。
最後のお客さんが帰り、店の中に、煮込みの匂いが残っていた。
ハンナさんは厨房で鍋を片づけている。
私は洗い上がった木の皿を拭き、棚へ戻していた。
そのとき、扉が大きな音を立てて開いた。
思わず振り返る。
立っていたのは、ユゴーさんだった。
外套に道の埃がついている。
いつも整っている襟元が乱れ、息も、まだ落ち着いていなかった。
「ユゴーさん?」
普段なら、まず丁寧に挨拶をして、こちらの仕事が済んでいるか確かめてくれる人だ。
今日は、その余裕さえないようだった。
ユゴーさんはまっすぐ私を見ると、店の中へ入ってきた。
ハンナさんも、厨房から顔を出す。
「どうしたんですか。そんなに慌てて……」
私は、木の皿を持ったまま尋ねた。
ユゴーさんが口を開く。
「大変です、エリアナ様。副宰相が……セレスティアが、僭称者エリアナを倒すという名目で軍をおこしました!」
持っていた木の皿が、私の指から滑り落ちた。
からん、と。
床に、乾いた音が響いた。
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