第20話 エリアナ、飲む
【リュカ視点】
「今日は仕事じゃねえからな。しっかり食ってけ」
セヴラン様は、僕たちを出迎えるなり、そうおっしゃった。
領主館で暮らし始められてから、しばらく。
今日は、その新しい暮らしを祝う宴が開かれていた。
館そのものが新しくなったわけではない。
けれど、窓辺に花が置かれ、開かれた扉の向こうから人の声が聞こえると、建物まで明るくなったように見えた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます、師匠」
隣で、エリアナ様も頭を下げる。
今日は前掛けをしていない。
淡い青色の服に、銀色の髪を留める小さな髪飾り。
僕が少し見すぎてしまったのか、エリアナ様がこちらを向いた。
「何か変?」
「いえ。よくお似合いです」
「……ありがとう」
少し照れたように笑われて、今度は僕が目をそらした。
「さあ、入って」
セレナ様に促され、広間へ進む。
卓には白い布が掛けられ、磨かれた杯が並んでいた。
焼いた魚に、香草を添えた肉。小さな海老の料理や、甘い菓子もある。
近隣の領地から来た貴族たちも、すでに集まっていた。
セヴラン様は、エリアナ様を弟子として、僕を領兵の隊長として紹介してくださった。
「どうぞ、今夜は気楽に」
そう声をかけてくださったのは、隣の領地から来たルネ子爵だった。
挨拶を終えて席につくと、エリアナ様は卓上の料理を眺めた。
「……本当に、何もしなくていいんだね」
「はい。今日は僕たちも、お客ですから」
セレナ様が、それを聞いて笑った。
「お皿が空いても、運ばなくていいのよ」
「わかってます」
エリアナ様は、少しだけ口をとがらせた。
ただ、その直前まで、空いた皿を重ねようとしていたことを、僕は見ていた。
◇◆◇
乾杯の声が広間に響いた。
エリアナ様が杯を持ち上げる。
口をつけると、その目が少し丸くなった。
「これ、甘いですね」
「私の領地で作らせている果実酒です。お気に召しましたか」
ルネ子爵が尋ねると、エリアナ様はうなずいた。
「はい。とても飲みやすいです」
そのあとは、料理を食べるたびに、表情が変わった。
魚を食べて、うれしそうに目を細める。
肉を食べて、小さくうなずく。
海老を口にすると、僕の袖を引いた。
「リュカ、これ。おいしいよ」
「いただいてみます」
「パンも合うと思う」
勧められるままに食べると、たしかにおいしかった。
「どう?」
「おいしいです」
「でしょう?」
なぜか、エリアナ様が得意そうだった。
潮風亭で料理を運んでいるときとは、少し違う。
次のお客を気にせず、ゆっくり食事を楽しんでおられる。
僕も肩の力を抜き、料理に手を伸ばした。
……つもりだったのだけれど。
空いた水差しに気づいて、近くの給仕へ声をかけた。
落ちかけた布を直し、卓の端に寄りすぎていた皿を少し動かした。
すると、隣から袖を引かれた。
「リュカ」
「はい」
「今日は、何の日?」
エリアナ様の頬が、少し赤かった。
「セヴラン様とセレナ様の、新居祝いです」
「そうじゃなくて」
「……そうではなくて?」
エリアナ様は、僕をじっと見た。
「今日は、お客さんの日です」
「はい」
「なのに、働いてる」
「水差しが空いていたので」
「そういうの」
人差し指が、僕の手元を指した。
「そういうのを、今日はしなくていいんです」
口調だけは、ずいぶんしっかりしていた。
ただ、さっきよりも、言葉の間が少し長い。
「承知しました」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、食べて」
僕の皿に、肉が一切れ載せられた。
食べる。
「どう?」
「おいしいです」
「さっきも、それだった」
「ですが、おいしいので」
「もっと、ちゃんと」
困った。
どう答えれば、納得していただけるのだろう。
「香草の香りがよくて、肉も柔らかいです」
「うん」
エリアナ様は満足そうにうなずいた。
これでよかったらしい。
ほっとしていると、今度はパンが載せられた。
「エリアナ様も、僕の世話をしていらっしゃるのでは?」
「これは、仕事じゃないよ」
「そうなのですか」
「そうなの」
そこには、はっきりとした区別があるらしかった。
◇◆◇
しばらくすると、広間はさらににぎやかになった。
向こうの卓では、セヴラン様が旅先での話をしている。
セレナ様がときどき口を挟み、そのたびに周りから笑い声が上がった。
僕がそちらへ顔を向けると、また袖が引かれた。
「リュカ」
「なんでしょう、エリアナ様」
「今日は、仕事禁止だからね」
「はい。先ほども、うかがいました」
「だったら、そんなに姿勢よく座らないで」
「姿勢までですか」
思わず聞き返してしまった。
エリアナ様は、真剣な顔でうなずいた。
「いつでも立てます、っていう座り方をしてる」
「……癖だと思います」
「今日は、お休み」
言われて、僕は少し背もたれに寄りかかった。
「これでよろしいでしょうか」
「うん。それでいい」
よくはなかった。
すぐに、また顔をのぞき込まれた。
「楽しい?」
「はい」
「ほんとに?」
「本当に、楽しいです」
「ちゃんと笑って」
「笑っているつもりなのですが」
エリアナ様は僕の顔を見つめ、少し首をかしげた。
その仕草がおかしくて、今度は自然に笑ってしまった。
「あ。今の」
「今の?」
「今のほうが、いい」
そう言って、エリアナ様も笑った。
どうやら今夜の僕は、食べ方だけでなく、座り方と笑い方まで見てもらうことになったらしい。
ちょうど近くを通りかかったセレナ様が、僕たちを見た。
「あら。楽しそうね」
「……はい」
助けを求めるような顔になってしまったのだろうか。
セレナ様は小さく笑い、水の入った杯を置いてくださった。
「少し、こちらも飲んでね」
「ありがとうございます」
エリアナ様は素直に受け取り、両手で持って飲んだ。
それから、ふう、と息をつく。
「リュカも」
「僕もいただきます」
「うん」
僕が水を飲むところまで確かめてから、ようやく前を向かれた。
頬は赤い。
目元も、普段よりずっと柔らかい。
機嫌はいいのだと思う。
ただ、僕の行動が、ことごとく気になるらしかった。
「いつもね」
「はい」
「私のこと、見てるでしょう」
「……そうですね」
「今日は、リュカも楽しくしていいんだからね」
僕は返事をしかけて、少しだけ黙った。
それから、うなずく。
「はい。ありがとうございます」
エリアナ様は、満足そうに笑った。
そのまま、しばらく静かになった。
珍しく僕の袖が引かれないので、横を見る。
まぶたが、ゆっくり下がっていた。
「エリアナ様?」
「……ん」
短い返事があった。
次の瞬間、肩に、こつんと重みが乗った。
動けなくなった。
そっと顔を向けると、エリアナ様は僕の肩に頭を預け、目を閉じていた。
さっきまで、あんなに僕を見張っていたのに。
「おい。寝ちまったか」
セヴラン様の声に、僕は小さくうなずいた。
「はい」
聞こえるのは、静かな寝息だった。
◇◆◇
お礼を伝えて、先に失礼することにした。
セレナ様が、柔らかな肩掛けを持ってきてくださった。
「夜は少し冷えるから。これを使って」
「ありがとうございます」
エリアナ様の肩を包み、セヴラン様に支えていただきながら、僕は背中へおぶった。
体が傾かないように、ゆっくり立ち上がる。
エリアナ様は一度だけ小さく身じろぎしたけれど、目を覚まさなかった。
「気をつけてな」
「はい。本日は、ありがとうございました」
館の外へ出ると、夜風が頬に触れた。
後ろには、明るい窓。
人々の話し声と、食器の触れ合う音が残っている。
少し歩くと、それも遠くなった。
街道から町の通りへ。
石畳を踏む自分の足音が、いつもよりはっきり聞こえた。
背中からは、規則正しい寝息。
さっきまで、何度も袖を引かれた。
食べろと言われ、休めと言われ、姿勢まで直された。
あれだけにぎやかだった人が、今はすっかり静かだ。
「……僕も、楽しかったですよ」
小さく言ってみた。
返事はなかった。
それでよかった。
肩掛けがずれないように直し、段差の小さいところを選んで歩く。
遠くの港で、船の金具が風に鳴っていた。
潮の匂いがする。
潮風亭の明かりが見えたとき、僕は少しほっとした。
扉を開けてくれたハンナさんは、僕の背中を見て目を丸くした。
「あらまあ。よく眠ってるねえ」
「少し、お酒が進んだようで」
「楽しかったんだろうね。お帰り」
その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。
「ただいま戻りました」
ハンナさんが先に立ち、部屋の扉を開けてくれる。
僕はエリアナ様を寝台へ下ろした。
背中から重みが離れると、急に身軽になった気がした。
ハンナさんが毛布を掛ける。
エリアナ様は枕に頬を寄せ、そのまま眠り続けていた。
「おやすみなさい、エリアナ様」
明日は、今夜のことを覚えていらっしゃるだろうか。
もし覚えていなくても、姿勢まで注意された話くらいはしてみたい。
困った顔をされるか、笑われるか。
少し楽しみに思いながら、僕は静かに部屋を出た。
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