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【長編版】王子が生まれたので、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?  作者: 塩野さち


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第16話 僧侶のおねえさんが来た

【エリアナ視点】


 潮風亭のお仕事は楽しかった。


 料理を運ぶと、お客さんがうれしそうな顔をする。

 空のお皿を下げるときに、おいしかったよと言ってもらえる。


 自分で作ったわけではないのに、こちらまでうれしくなるのだから、不思議だ。


 それから、用心棒のお仕事も。


「ダンさん。そろそろ、お水にしましょう」

「俺はまだ飲めるぞ」

「うん。でも、さっきから同じお話が三回目です」

「そうだったか?」

「はい。大きな魚を釣ったお話です」


 両腕いっぱいでも表せないほど大きな魚だったらしい。

 一回目より、二回目。二回目より、三回目。


 話を聞くたび、魚が育っていた。


「ちょっと潮風に当たりましょうか」

「おう。そりゃいいな」


 私はダンさんの腕を支え、椅子から立たせた。

 ふらつく足に合わせて、ゆっくり入口まで歩く。


 外の長椅子に座ってもらい、水の入ったカップを渡すと、ダンさんは気持ちよさそうに息を吐いた。


「ありがとな、ねーちゃん」

「どういたしまして。お水、飲んでくださいね」


 誰も怪我をしない。

 椅子も壊れない。


 こういう用心棒のお仕事なら、まあ、それなりに楽しい。


 店に戻ると、師匠が焼き魚を食べていた。


 相変わらず、潮風亭に住み込んでいる。


 コエンナ伯なのだから、もちろん領主館はある。

 一度、戻らなくていいのか尋ねてみたこともあった。


「落ち着かねえんだよ、あそこ」


 返事は、それだけだった。


 こちらでは毎朝、焼きたてのパンと魚が出てくる。

 お腹がすけば下へ降り、眠くなれば部屋へ戻る。


 師匠にとっては、ずいぶん居心地のいい暮らしらしい。


「エリアナ、そこの塩取ってくれ」

「はい。でも、かけすぎですよ」

「まだかけてねえだろ」

「いつも、もう少しって言いますから」


 師匠が、少しだけ口を曲げた。


 今日も、いつもどおり。


 そう思っていたのだけれど。


◇◆◇


 その人が来たのは、昼の混雑が一段落したころだった。


 入口の扉が開き、明るい日差しが床を横切る。


 立っていたのは、白を基調とした法衣を着た女の人だった。

 髪は後ろできちんとまとめられ、旅の荷物を肩に掛けている。


 裾には、街道を歩いてきたらしい薄い土埃。

 それでも、すっと伸びた背筋のせいか、とてもきれいな人だと思った。


「いらっしゃいませ。お食事ですか? それとも、お泊まりでしょうか」


 声をかけると、その人はにっこり笑った。


「わたし、セレナっていいます。セヴランのバカはいるかしら?」


 私は一度、瞬きをした。


 今、とても穏やかな顔で、バカと言わなかっただろうか。


「……師匠に、何の御用でしょうか?」

「あら、あなた、お弟子さん?」

「はい。エリアナといいます」

「そう。エリアナちゃんね」


 セレナさんは、私の顔を少し珍しそうに眺めた。


「あの人ったら、お弟子さんまで――」


 そこで、言葉が止まった。


 私の肩越しに、視線が動く。


 つられて振り返ると、窓の向こうに師匠がいた。


 裏庭を横切り、木戸へ向かっている。


 妙に静かだった。

 いつもなら、出かけるぞ、と一言くらい声をかけるのに。


 しかも、背中が少し丸い。


 まるで、窓から姿が見えないようにしているみたいだった。


「あ」


 私が声を漏らした瞬間、師匠と目が合った。


 師匠の足が止まる。


 セレナさんが、にっこり笑った。


「セヴラン」


 師匠が走った。


 本当に、迷いなく走った。


 木戸を開ける手間さえ惜しんだらしく、柵に片手をつき、ひょいと飛び越える。


「ちょっと、待ちなさい!」


 セレナさんも動いた。


 法衣の裾をつまみ、裏庭へ続く戸口へ。

 扉がばたんと鳴り、その姿が見えなくなる。


 私は布巾(ふきん)を持ったまま、取り残された。


 遠くから、もう一度だけ声が聞こえた。


「セヴラン!」


 ……何だったんだろう。


「エリアナ。入口、開きっぱなしだよ」

「あ、はい」


 ハンナさんに言われ、私は扉を閉めた。


 魔物を前にしても、あんなふうに逃げる師匠は見たことがない。


 僧侶のお姉さんをひと目見ただけで、あの逃げ足。


 いったい、何をしたんだろう。


 なぜだか、師匠が何かしたほうなのだろうと、自然に思ってしまった。


◇◆◇


 それから数日後。


 町の教会で、結婚式があった。


 新郎のエミールさんと、新婦のクレールさん。

 二人とも潮風亭のお客さんで、式のあとの食事を、ハンナさんに頼んでいた。


 私はその料理を運ぶお手伝いだ。


 籠にはパン。

 布を掛けた大皿には、香草と一緒に焼いた肉。

 荷車が石畳の継ぎ目を越えるたび、食器が小さく鳴った。


 教会へ続く道には、白い花が飾られていた。


 潮風に揺れる細いリボン。

 晴れ着の子供たち。

 入口の前では、花嫁を見かけた人たちが、口々に祝いの言葉をかけている。


 私まで、歩くのが少し楽しくなった。


 料理を隣の広間に運び終えたころ、鐘が鳴った。


「エリアナちゃんも、よかったら見ていって」


 声をかけてもらい、私は教会の後ろに立たせてもらった。


 高い窓から入る光が、石の床を明るく照らしている。

 花の匂いの中に、磨いた木の長椅子の匂いが混じっていた。


 前方には、少し緊張した顔のエミールさん。

 その隣に、白い衣装のクレールさん。


 そして、二人の前に立っているのは――。


 セレナさんだった。


 私は思わず、目を丸くした。


 今日は旅の荷物を持っていない。

 法衣の裾もきれいに整えられていて、胸元の刺繍が光を受けていた。


 教会の人たちも、丁寧に頭を下げている。


 もしかして、偉い人なのだろうか。


「今日、お二人がこの日を迎えられたことを、心からうれしく思います」


 やわらかな声が、教会の中に広がった。


 潮風亭で聞いた声と、同じはずだった。


 でも、ずいぶん違って聞こえる。


「うれしいことは、どうか二人で分かち合ってください。困ったときには、言葉にして、相手に伝えてくださいね」


 セレナさんが微笑むと、新郎新婦の肩から、少し力が抜けた。


 クレールさんが隣を見上げる。

 エミールさんも笑い、そっと彼女の手を握った。


 その小さな仕草を見て、私の口元まで緩んだ。


 セレナさんは二人を見守りながら、祝いの言葉を続けた。


 穏やかで、温かくて。

 話しかければ、きっと親身に聞いてくれるのだろうと思える人だった。


 ……師匠は、どうして逃げたのだろう。


 考えても、やっぱりわからなかった。


◇◆◇


 式が終わると、教会の外に笑い声があふれた。


 新郎新婦を囲んで、花びらが舞う。

 子供たちが足元の花を拾い、もう一度空へ投げていた。


 私は広間へ戻り、料理を並べるのを手伝った。


 パンを配り、大皿を運び、空いた籠を重ねる。

 お祝いの席だからか、皆いつもより声が弾んでいる。


 ようやく手が空いたころ、庭先にセレナさんを見つけた。


 新婦と話していたらしい。

 クレールさんが何度も頭を下げ、夫のもとへ戻っていく。


 セレナさんは、その背中を優しい顔で見送っていた。


「あのう、セレナさん」


 声をかけると、こちらを向いた。


「あら、エリアナちゃん。お料理、ありがとう。とてもおいしかったわ」

「ありがとうございます。ハンナさんにも伝えます」


 近くで見ると、やはり穏やかな人だった。


 私は空の籠を持ち直した。


 気になる。


 あの日から、ずっと気になっていたのだ。


「ひとつ、伺ってもいいですか?」

「ええ。なあに?」

「セレナさんは、師匠とどういうご関係なのでしょうか」


 セレナさんの笑顔が止まった。


 怒らせてしまっただろうか。


 そう思ったけれど、彼女は少し考えるように私を見ただけだった。


「そうね。あなたには、説明してもいいかもしれないわ」


 庭の木が、風に揺れた。


「私、あの人と同じパーティーにいたのよ」

「師匠と? 魔王を倒しに行ったときの、ですか?」

「ええ」


 私は息をのんだ。


 師匠と一緒に旅をした人。

 あの人が魔王を倒すまで、同じ道を歩いていた人。


 それなら、私の知らない師匠の話を、たくさん知っているのかもしれない。


 そう思って、少し身を乗り出した。


 セレナさんは腕を組んだ。

 さっきまで新郎新婦へ向けていた笑顔とは、少し違う顔になった。


「それでね。あの人、私と結婚してくれるって言ったのよ!」


「えええええっ!」


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