第15話 決断──分岐点──
【エリアナ視点】
潮風亭のお昼は、ちょっとした戦場だ。
焼いた魚を運び、空いた皿を下げ、追加のパンを届ける。厨房から呼ばれて振り返ると、別の席で手が上がっている。
最後のお客さんを見送るころには、足の裏がじんわり熱くなっていた。
「ほら、お疲れさん」
「ありがとうございます」
ハンナさんが置いてくれた皿に、私は思わず頬を緩めた。
今日はサバサンドだ。
皮をぱりっと焼いたサバと、薄く切った玉ねぎ。酸味のあるソースが、温かいパンに少し染みている。
私はこれが好きだった。
両手で持ち上げて、ひと口。
香ばしい皮の下から脂がにじみ、玉ねぎがしゃくりと鳴った。
おいしい。
リュカは領兵の見回りに出ている。帰ってきたら、今日のまかないをうらやましがるかもしれない。
そんなことを考えていたときだった。
窓際に座っていた師匠が、ふいに立ち上がった。
「エリアナ、奥に隠れていろ」
「……えっ?」
師匠はもう、入口に向かっていた。
「妙な気配がする。強さは大したことねえが、気になる」
声が低かった。
私はサバサンドを皿に戻した。
こういうときの師匠に、食べかけだからとは言えない。
厨房へ入り、戸口から客席をのぞく。
「どうしたんだい?」
「まだ、わかりません」
ハンナさんも、手にしていた布巾を止めた。
やがて、店の前で車輪の音が止まった。
窓越しに見えたのは、上等な馬車だった。
供の人数は少ない。それでも、扉の金具や磨かれた車体を見れば、裕福な家の持ち物だとわかる。
降りてきた紳士は、深い緑の礼服を着ていた。
襟元には控えめな金糸の刺繍がある。
私は、その顔を知っていた。
ブライ侯ロドニー。
王宮にいたころ、何度か言葉を交わしている。
こちらの話を最後まで聞いてくれる人だったと、記憶していた。
その隣に、ユゴーさんが降り立つ。
ああ。面会の話だ。
条件を受け入れてもらえるなら、お会いすると伝えていた。
師匠にも、そのことは話してある。
ただ、いつ来るという知らせは、まだ届いていなかった。
「人の領地に来るなら、使いぐらいよこしたらどうだ?」
師匠が戸口に立ちはだかった。
背中しか見えない。
それなのに、肌が粟立った。
空気が重い。
声に、魔力が乗っている。
討伐のときに感じるものとは違う、相手をその場から動かさないような圧力だった。
侯の足が止まった。
けれど、引き返しはしなかった。
深く頭を下げると、そのまま片膝をついた。
「勇者コエンナ伯殿。突然の来訪、失礼いたしました。ブライ侯ロドニーと申します」
「知ってる」
「到着の知らせを先に出すべきでした。私の不手際です。本日は、殿下のお話をうかがいに参りました」
殿下。
その言葉に、師匠の肩がわずかに動いた。
「……てめえ、帰れよ」
手が、剣の柄にかかる。
私は厨房から飛び出した。
「師匠、おやめください!」
師匠がこちらを見た。
侯も顔を上げる。
「おお、殿下……!」
「ロドニー様。どうか、お声を小さく」
私は慌てて言い、それから師匠を見上げた。
「私が、お話を聞くとお伝えしたんです。条件を守っていただけるなら」
「こいつが来たからって、会わなきゃならねえわけじゃねえぞ」
「はい。でも、今日は聞きます」
師匠は私の顔を見ていた。
私も、目をそらさなかった。
やがて、剣の柄から手が離れた。
「……わかった」
胸を押さえたくなるほど重かった空気が、ようやく緩んだ。
◇◆◇
ハンナさんには、隠し通せなかった。
「殿下、っていうのは?」
店の扉を閉めてから尋ねられ、私は前掛けの端を握った。
「王宮では、エリアスと名乗っていました」
「……あの、王太子様かい」
「はい」
ハンナさんは、私を見たまま黙った。
さっきまで皿を運ばせていた相手が、元王太子。
しかも、王子だと思われていた人が女だったのだ。
驚かないほうがおかしい。
「事情があって、王宮を出ました。今は、エリアナとして暮らしたいんです。だから、このことは……」
「ああ。わかったよ」
ハンナさんは、ゆっくり息を吐いた。
「人に言いふらしたりしないさ」
「ありがとうございます」
「詳しい話は、あんたが話したくなったときに聞くよ。とりあえず、今日は夕方まで貸切にしよう」
そう言って、扉に札を掛けてくれた。
その背中を見ていると、握り締めていた指から、少しずつ力が抜けた。
私たちは奥の席についた。
隣には師匠。
向かいにロドニー侯とユゴーさんが座る。
「まずは、お近づきのしるしに、こちらを」
侯の合図で、卓上に小箱が置かれた。
蓋が開く。
真珠。宝石を飾った腕輪。繊細な金細工。
窓から差す光を受けて、見慣れた木の卓に、場違いなほど鮮やかな色が散った。
「ほかにも、お好みに合うものがあればと思い――」
「いりません。間に合っています」
侯の手が止まった。
少し、言い方がきつかっただろうか。
私は言葉を足した。
「お気持ちは、ありがとうございます。でも、今の暮らしに困ってはいませんから」
「……そうですか」
侯は、少しがっかりした顔で箱を閉じた。
そこへハンナさんが、大きな盆を抱えてやってきた。
「難しい話の前に、まあ食いな」
厚く切って焼いた、とっておきの豚肉。
皮に焼き目のついたサバ。
籠いっぱいのパンと、みずみずしい葉物のサラダ。
卓上が、たちまち食事の匂いで満たされた。
「おっと、お代はいただくよ」
ユゴーさんが金貨を一枚差し出した。
多い。
どう考えても、食事代だけではない。
貸切の代金と、口止め料も含んでいるのだろう。
ハンナさんは金貨を見て、それから私をちらりと見た。
「ありがとさん」
それだけ言い、厨房へ下がっていった。
◇◆◇
侯の話は、だいたい想像していたとおりだった。
軍への物資が遅れる。
部署ごとに違う指示が出る。
判断を求める書類が積み上がり、どこで止まっているのかさえわからなくなる。
私は話を聞きながら、以前使っていた執務机を思い出した。
右側に急ぎの書類。
左側に確認待ち。
返事の来ない案件は、手元の別の紙に書いておく。
ひとつ片づけても、翌朝にはまた増えていた。
「宰相オスヴァルトも、立て直しに力を尽くしております。しかし、あの方お一人では……」
侯の指が、卓上で組み合わされた。
「殿下のお力が必要なのです」
その言葉を聞くと、体が覚えていたように、背筋が伸びそうになった。
必要とされている。
ならば、やらなくては。
そこまで考えて、私は膝の上の前掛けに触れた。
違う。
今は、引き受けるかどうかを、私が決めていい。
「王宮には戻りません。それは、ユゴーさんにお伝えしたとおりです」
「承知しております。ですが、今のままでは国そのものが危うい。必要とあれば、王室典範を改めることも考えております」
「……典範を?」
「女子の継承を認め、殿下を女王としてお迎えするのです」
私は手を上げた。
「ちょ、ちょっと待って。ストップ、ストップ」
「しかし――」
「その先は、聞かなかったことにします」
隣で師匠が腕を組み直した。
侯は口を閉じたけれど、その顔に冗談の色はなかった。
本気なのだ。
この人は、必要だと思えば、そこまでやるつもりでいる。
背中に、冷たいものが伝った。
私は、ようやくここへ来た。
自分の名前で呼ばれ、働いたお金で買い物をし、休みの日に行きたい場所を考える。
そんな生活を、始めたばかりだった。
だからといって、畑を耕す人や、街道を行く人たちまで困ってしまえばいいとは思わない。
私は皿に残っていたサバサンドを見た。
少し考えたい。
できれば、何かを食べながら。
ひと口かじる。
冷めても、サバはおいしかった。
パンを飲み込むまでの間に、頭の中で話を整理する。
私を王宮へ戻したいのは、仕事が回らないから。
だったら、困っている仕事をどうにかできればいい。
私自身が、あの机に戻らなくても。
そこで、ふと前世のことを思い出した。
流行り病が広がり、会社へ通う代わりに、自宅で働くようになったころのこと。
画面を通じて話し、届いた資料を読み、仕事を返す。
私もそうやって働いていた。
結局、私はその病にかかり、前世を終えてしまったのだけれど。
あの働き方まで、忘れてしまうことはない。
「……リモートワークかぁ」
「今、なんと?」
侯が身を乗り出した。
私はサバサンドを置き、指についたパンくずを払った。
「王宮の仕事で、どうしても困ったものだけ、コエンナまで持ってきてもらえませんか」
「こちらへ、ですか?」
「はい。私が王宮へ行く代わりに、仕事のほうに来てもらうんです」
侯が、じっと私を見た。
「事情と、関係する書類をそろえてください。私が読んで、案を考えて、お返しします。それなら、ここでもできます」
少しずつ、侯の顔が明るくなった。
「おお……なるほど。殿下にこちらでお知恵をお借りし、その案を内閣で検討すればよいのですな」
「そうです。決めて、実際に動かすのは、そちらでお願いします」
そこは大事だった。
離れた場所から、現場のことまで全部わかるわけではない。
以前のように、止まっている仕事を探して回ることもできない。
「それから、何でもそのまま持ってこられても困ります。まず、そちらで整理してください。それでも判断に困るものだけです」
「承知しました」
「返事を待つ間に手遅れになるような、急ぎの仕事も無理です。往復だけで何日もかかりますから」
「はい」
ユゴーさんが、手元に書き留めていく。
私はその筆先を見てから、もうひとつ付け加えた。
「私にも、ここの仕事と生活があります。引き受けられる量と、いつまでにお返しできるかは、その都度、相談させてください」
侯は、すぐには返事をしなかった。
けれど、私を急かしもしなかった。
考えた末に、深くうなずく。
「もちろんです。お願いする側が守るべきことと心得ます」
私は少し、息をつけた。
「でも、そういうやり方を、内閣で認めてもらえるんですか?」
「宰相は、私と同じ考えです。各大臣も解決を求めております。この形なら、支持を集められるかと」
王家の方針を待つより、外に出た私の案を使いたい。
そう考える人が、多数派になりそうなのか。
王宮を支える人たちの心は、私が思っていた以上に離れているらしかった。
「わかりました。それじゃあ、仕事を持ってくるときには、報酬のお話もお願いします」
「報酬、ですな」
「はい。引き受ける仕事に見合った分を。贈り物ではなくて、働いた分のお金がほしいんです」
私は、閉じられた宝石箱を指した。
「だから、とりあえず、その財宝はしまってください」
侯は箱を見下ろし、それから、少しだけ笑った。
「心得ました」
今度は、がっかりした顔ではなかった。
◇◆◇
話を終えた侯は、来たときよりもずっと晴れやかな顔をしていた。
まずは宰相と相談し、仕事の整理と受け渡しの仕方を決めるという。
来訪の際は、今度こそ先に知らせることも約束してくれた。
「本日は、お時間をいただき、ありがとうございました」
「お気をつけて」
「はい。どうか、今後とも」
侯は何度も頭を下げ、馬車に乗り込んだ。
ユゴーさんも、最後に深く一礼する。
財宝を積んだままの馬車が、港の通りを遠ざかっていった。
車輪の音が聞こえなくなってから、師匠が口を開いた。
「いいのかよ。あんな約束して」
私は潮風亭の入口に立ったまま、少し考えた。
「何もしなくて済むなら、そのほうが楽ですけど」
「だろうな」
「でも、国が割れたら、師匠が王国軍に突っ込んでいくことになるかもしれませんよ」
師匠が、露骨に嫌そうな顔をした。
「あー……内乱とか、勘弁だわ」
「私もです」
「魔族相手ならともかく、人間相手に大地断裂とか、烈風斬とか、火炎剣とか、そういうのは使いたくねぇ」
私は師匠を見上げた。
今、さらっと、ものすごく物騒な名前が並ばなかっただろうか。
師匠の本気は、まだ見たことがない。
できれば、その三つを人間相手に使うところは、一生見たくない。
「……じゃあ、そうならないように、少しだけ働きます」
「少しだけにしとけよ」
「はい」
師匠は私の頭に手を置き、軽く髪をかき混ぜた。
「抱え込む前に、言え」
「わかってます」
店に戻ると、ハンナさんが卓を片づけていた。
私も盆を手に取り、空いた皿を重ねる。
厨房には、夕食に使う煮込みの匂いが漂っていた。
これから、まかないを食べながら考えることが、少し増えるかもしれない。
難しい書類に、眉を寄せる日もあるだろう。
それでも、夕方にはここで働く。
休みの日にはリュカや師匠と出かける。
子供たちに剣を教える約束も、森で待っている友達との約束もある。
その暮らしの中に、引き受けられる分の仕事を置くのだ。
「エリアナ。そっちの皿、頼むよ」
「はーい」
私は盆を抱え直した。
とりあえず、人間社会の平和のために。
潮風亭の看板娘は、副業でリモートワークを始めることになったのであった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




