第17話 師匠、年貢の納め時
【エリアナ視点】
「師匠。年貢の納め時ですよ」
私がそう言うと、師匠は難しい顔をした。
場所は潮風亭。
夕食前の、まだ客席が静かな時間だ。
卓を挟んだ向かいには師匠。
その隣には、セレナさんが座っている。
私は両手を膝に置き、背筋を伸ばした。
「セレナさんと結婚するって、言ったんですか?」
「……言った」
「約束を忘れていたんですか?」
「忘れてねえ」
「では、気が変わったんですか?」
師匠は顔を上げた。
「そういうわけじゃねえよ」
隣のセレナさんが、師匠を見た。
私も見た。
師匠は、卓の木目を見た。
「だったら、逃げないでください。お話もできないじゃないですか」
「いや、だからな」
「師匠はいつも、私にちゃんと自分で決めろって言いますよね」
「……おう」
「決めて、約束までしたなら、相手にわかるようにしてください」
言いながら、少し不思議な気分になった。
十一歳のころから剣を教わっている。
握り方も、足の運びも、旅先で困ったときのことも。
その師匠に、私がこんな話をする日が来るとは思わなかった。
師匠は後頭部をかいた。
「お前、そういうとこ、ずいぶんしっかりしたな」
「話をそらさないでください」
「へいへい」
セレナさんが、小さく笑った。
「いいお弟子さんね」
「……ああ。まったくだ」
師匠は息を吐いた。
それから、ようやくセレナさんのほうを向いた。
いつもの、面倒くさそうな顔ではなかった。
少し困ったような、それでいて、どこか腹を決めたような顔だった。
「待たせて、悪かったな」
セレナさんの笑みが消えた。
師匠を見つめたまま、静かに返事をする。
「ええ。待ったわ」
私は口を閉じた。
さっきまで、言いたいことがいくつもあったのに。
今は、二人の間に口を挟んではいけない気がした。
「約束は、覚えてる」
師匠はそう言い、一度だけ喉を鳴らした。
「俺と、結婚してくれ」
セレナさんが、ゆっくり瞬きをした。
それから、笑った。
教会で新郎新婦を祝福していたときとは、また違う笑顔だった。
唇が少し震えていて、うれしさを隠しきれていない。
「はい」
短い返事だった。
でも、それを聞いた師匠の肩が、ふっと下がった。
私まで、ほっとしてしまった。
「……というわけだ」
師匠がこちらを向く。
「はい」
「これでいいか」
「それは、私に聞くことではないと思います」
セレナさんが吹き出した。
厨房のほうでも、ハンナさんが笑っていた。
◇◆◇
それから、結婚の支度が始まった。
師匠は、大げさなのはやめろと言った。
セレナさんも、親しい人に祝ってもらえれば十分だと言った。
けれど、コエンナの人たちは、放っておかなかった。
花を持ってくる人。
祝いの酒を届ける人。
料理なら任せておきなと、腕まくりをするハンナさん。
子供たちも、花を飾る手伝いをした。
「エリアナねーちゃん、これ、どこ?」
「その籠に入れてくれる?」
「いっぱいあるね」
ミナが両手に抱えた花を、そっと置く。
トマは飾り紐を持ったまま、すでにどこかへ走っていった。
私はその背中を呼び止めながら、教会を見上げた。
少し前に、セレナさんの口から結婚の約束を聞いた場所だ。
今度は、あの人が花嫁になる。
結婚式の日は、よく晴れた。
教会の窓から、白い光が差し込んでいる。
入口の花飾りが風に揺れ、外からは港の鐘がかすかに聞こえた。
前に立つ師匠は、いつもよりきちんと髪を結んでいた。
服も、ちゃんとしている。
ただし、襟元が気になるらしい。
何度も指を入れようとして、そのたびに思い直していた。
「師匠、緊張してるのかな」
私が小声で言うと、隣のリュカがうなずいた。
「そう見えますね」
「魔物が相手のときは、あんな顔をしないのに」
「今日は、剣ではどうにもなりませんから」
それは、そうだ。
やがて、セレナさんが入ってきた。
いつもの法衣ではなく、柔らかな白い衣装。
髪には小さな花が飾られていた。
師匠の手が、襟元で止まった。
セレナさんが隣に立つまで、ずっと、その姿を見ていた。
私はそれを見て、なんとなく、うれしくなった。
式を取り仕切ったのは、教会の司祭、ロランさんだった。
穏やかな声で祝いの言葉を述べ、それから二人に問いかける。
「互いを大切にし、これからの日々を共に歩むことを誓いますか」
師匠が、背筋を伸ばした。
「誓う」
はっきりした声だった。
セレナさんも、うなずいた。
「誓います」
二人の指に、指輪が収まる。
剣を扱うときには少しも迷わない師匠の手が、そのときだけ、やけに慎重だった。
セレナさんが、何か小さくささやいた。
師匠は眉を寄せ、それから照れたように笑った。
何を言われたのかは、聞こえなかった。
でも、いいものを見た気がした。
◇◆◇
式のあとは、潮風亭でお祝いをした。
皿が並び、酒が注がれ、あちらこちらから乾杯の声が上がる。
ハンナさんの料理は、運んだそばからなくなっていった。
私は客席と厨房を行き来しながら、何度か二人を見た。
セレナさんの椅子に、通りがかった人がぶつかりそうになる。
すると師匠が、さりげなく背もたれに手を置いた。
パンの籠が遠ければ、何も言われなくても取って渡す。
セレナさんも、師匠の取り皿が空になると、ごく自然に料理を分けていた。
ずっと一緒に旅をしてきた人たちなのだ。
並んで座っている姿が、妙にしっくりきた。
「エリアナちゃんも、少し食べたら?」
「はい。あと、これを運んだら」
セレナさんが笑う。
師匠はその横で、魚の骨を抜いていた。
なんだかんだで、幸せそうではある。
とても。
けれど、ひとつだけ、わからないことが残っていた。
結婚する気はあった。
約束も覚えていた。
そして今、こうして隣に座っているのも、うれしそうだ。
だったら、なぜ逃げたのだろう。
◇◆◇
その答えを聞いたのは、領主館へ荷物を運ぶ日だった。
師匠の荷物は、拍子抜けするほど少なかった。
旅に使う袋。
着替え。
手入れの道具。
それから、釣り竿。
リュカが荷物をまとめ、私は忘れ物がないか部屋を確認していた。
「師匠」
「なんだ」
「結局、どうしてセレナさんから逃げていたんですか?」
師匠の手が止まった。
ちょうど、旅袋の口を縛っているところだった。
「結婚するのが嫌だったわけではないんですよね」
「だから、違うって言ってんだろ」
「では、どうして?」
師匠は私を見た。
次に、廊下で待っているセレナさんを見た。
セレナさんは、黙って微笑んでいた。
師匠が頭をかいた。
そして、とうとう言った。
「定住すんのが苦手なんだよ!」
私は黙った。
リュカも、荷物を持ったまま黙った。
廊下の向こうで、セレナさんがため息をついた。
「……師匠」
「なんだよ」
「もう、ずいぶん長く潮風亭にいますけど」
「あれは泊まってるだけだ」
「毎朝、同じ席でご飯を食べてますよね」
「だから、宿だろうが」
どうやら師匠の中では、大きな違いがあるらしい。
いつでも荷物をまとめて出発できる宿。
これから暮らしていく、自分の家。
領主館は落ち着かないと言っていたのも、広さや家具の問題だけではなかったようだ。
「……ねえ、リュカ」
「なんでしょう、エリアナ様」
私は少しだけ気取った声で言った。
「わたしたち、ああはなりたくないわね」
「そうですね」
即答だった。
「おい、聞こえてるぞ」
師匠が不満そうな顔をしたので、私はリュカと顔を見合わせた。
ちなみに、リュカとは今のところ、何もない。
場のノリで話を合わせてくれたのだ。
こういうときのリュカは、とても空気の読める男であった。
セレナさんが部屋に入ってきた。
「セヴラン。まずは、住んでみましょうよ」
「……おう」
「落ち着かないところがあったら、二人で考えればいいでしょう?」
師匠は、しばらく彼女を見ていた。
それから、小さくうなずいた。
「そうだな」
旅袋を肩に掛ける。
もう、窓から逃げようとはしなかった。
階下では、ハンナさんが見送りに出てきた。
師匠は部屋の鍵を返し、少し照れくさそうに礼を言った。
「世話になったな」
「こちらこそ。二人で仲良くやるんだよ」
「おう」
セレナさんが、その隣で頭を下げる。
扉の外は、よく晴れていた。
潮風が吹き抜け、二人の髪を揺らす。
師匠は一度だけ潮風亭を振り返り、それからセレナさんと並んで歩きだした。
歩幅が、少しゆっくりになっていた。
こうして、コエンナ伯にして勇者のセヴランは、定住することになった。
引っ越し先は、ずっと前から持っていた領主館。
今度は、セレナさんも一緒である。
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