9、孤児施設
太奈都の行方を追って旅立った日、雪兎は住み慣れた街を離れ、電車を二時間乗り継いだ寂れた駅に降り立った。
そこは、かつて雪兎と太奈都が幼き日の記憶を刻んだ孤児施設のある場所だった。
駅の周囲は深い森や山々に囲まれ、その反対側には冷たい海が静かに水面を広げている。ぽつりぽつりと点在する住宅の合間を抜けてくる風は、冬の予感を孕んだ刃のように冷たく、街全体がどこか時間の止まったような寂な雰囲気を纏っていた。
雪兎はかすかな記憶の糸をたどりながら一本道を歩き、やがて目的の場所にたどり着いた。年季の入った木製の看板には、少し剥げかけたフォントで「エデン・レプリカ」と記されていた。長い歳月を経て色あせたその外観を複雑な思いで見つめた後、雪兎は覚悟を決めて錆びついた門をくぐった。
手入れの行き届いた敷地内を少し歩くと、見慣れない若い男性職員が雪兎の異様な雰囲気に気づき、「どちら様ですか。どのようなご用件でしょうか」と警戒するように声をかけてくる。
雪兎は乾いた喉を鳴らし、しっかりと受け答えした。
「以前、こちらの施設にいた者です。お伺いしたいことがありまして……園長先生にお会いできますでしょうか」
「少々お待ちください」
男性職員はそう言うと、不審な目を向けながらも足早に建物の中へと消えていった。
それからしばらくして、エントランスの重い扉の向こうから、一人の女性が姿を現した。
女性は雪兎の顔をしげしげと見つめたが、すぐに「あれ?」と首を傾げた。無理もない、この施設を離れてからすでに十四年という途方もない歳月が流れているのだから。
「あの、どちら様……?」
「――っ、以前ここにいた雪兎です。覚えていらっしゃらないでしょうか」
雪兎がそう告げた瞬間、女性――園長の瞳が、信じられないものを見るように驚愕に見開かれた。次の瞬間、彼女はダムが決壊したかのように涙をいっぱいに浮かべながら雪兎へと駆け寄り、その小さな身体で力強く抱きしめてきた。
「よかった……! 本当によかった、こんなに大きい子になって……!」
その容姿は、身長百三十センチほどの少女のように小柄で、顔立ちも実にかれんだった。下手すれば、現在の雪兎よりも年下に見えるほどの幼さを残している。幼い頃の曖昧な記憶の糸をたぐっても、彼女が還暦前後の年齢であるはずなのに、見た目はあの頃から一秒たりとも老化していないかのように変わっていなかった。
――まあ、園長の相変わらずすぎる奇妙な容姿の謎については、今は一旦脳裏の隅に追いやっておこう。何よりも優先すべきは、あの日消えた太奈都の行方だ。
「園長先生、お久しぶりです。実は……太奈都のことで、どうしてもお聞きしたいことがあるんです」
痛切な真剣みを帯びた面持ちでそう切り出す雪兎を見て、園長はハッと表情を引き締め、小さく頷いた。
「立ち話もなんだから、中へお入りなさい」
促されるまま、雪兎はかつて幾度となく叱られ、そして諭された園長室へと招き入れられた。
ふかふとした椅子に腰掛けるよう勧められ、湯気の立つ温かいお茶と茶菓子が出される。促されるまま熱いお茶を口に含み、凍てついた心を落ち着かせるようにふーっと息をついた後、園長はテーブル越しにまっすぐ雪兎の瞳を見据えた。
「それで……太奈都のことで、何が聞きたいんだい?」
いよいよ話の本題に入る。雪兎の纏うただならぬ緊迫した空気から、これが平穏な日常の枠を超えた事態だと、園長も瞬時に察知したようだった。
雪兎は、あの悪夢のような夜に起きた出来事を、澱みなく淡々と語り始めた。家を飛び出した直後に背後で起きた凄まじい爆発。そして、太奈都が突如として人間を外れた異形の姿――溶岩のように赤黒い肌に、悪魔の角と血塗られた翼を持つ怪物へと変異したこと。さらに、同じような異形の姿をした謎の大柄な女が現れ、気絶した太奈都を抱えて闇へと消え去っていったこと。
「太奈都が無事なのかも分からないんです。どうしても探し出して、連れ戻さなければならないんです……!」
常人であれば一蹴するような、荒唐無稽で奇ッ怪な話の数々。しかし、園長は微塵も驚く様子を見せず、ただ深い海の底のような神妙な面持ちで聞き終えると、静かに口を開いた。
「……事情は大体わかったよ。そして、その話の前に、あなたに最初に伝えておかなければならないことがある。それは、太奈都だけじゃなく、雪兎、あなた自身にも大きく関わることだ。……すべてを聞く覚悟はあるかい?」
逃げ場のない真実を突きつけてくるような、まっすぐに見据えてくる園長の瞳に気圧されながらも、雪兎はぐっと息を呑み、力強く頷いた。
「ここ『エデン・レプリカ』はね、一般の身寄りのない子どもたちを受け入れるだけでなく、『違う世界の社会では生きられない事情を持った、異形の子どもたち』を密かに保護し、人間として穏やかに生きられるように支援するための施設でもあるのよ」
突拍子もない、現実感のない言葉に、雪兎は思わず言葉を失って困惑する。だが、園長は淀みなく話を続けた。
「本来であれば、各自が肌身離さず身につけているあの宝石――ネックレスによって、その野蛮な異形の力は深く封じ込められ、暴走することなどないはずなんだけれど……」
雪兎は無意識のうちに、服のなかから引き出すようにして、肌身離さず身につけていたネックレスのペンダントトップをぎゅっと強く握りしめた。そして、こらえきれずに喉から声を絞り出す。
「ちょ、ちょっと待ってください……! 俺たちが人間じゃなくて、そんな化け物みたいな存在だっていうんですか……?」
混乱して詰め寄る雪兎に対し、園長はまるで日常の世間話でもするかのように淡々と告げた。
「異形、それはあくまで人間の側からの偏った呼び名にすぎないけれどね。雪兎、あなたは『天使と人間の間に生まれた子』よ。あなたが持っているその白い宝石は『天律の聖石』。天使としての姿と圧倒的な力を封印し、人間としての理性を保つためのもの。そして……太奈都は、『悪魔と人間の間に生まれた子』。あの子が持っていたのは『奈落の黒曜』。悪魔の姿と力を完璧に封印する、同じ性質の石よ」
あまりにも非現実で、頭のネジが外れそうな事実の連続に、雪兎の頭脳はクラクラととめどなく眩暈を起こした。しかし、あの夜に目の当たりにした太奈都の背中の翼と額の角、そして周囲のすべてを灰にするほどの圧倒的な暴力の残像が、その残酷な真実を否定することを決して許さなかった。
深い沈黙のあと、冷たい井戸の底のような思考のなかから、雪兎はふと抱いた鋭い違和感を口にした。
「待ってください……さっき、ネックレスを持っていれば力は完全に抑えられるって言いましたよね。でも、太奈都はあの夜もずっとあのネックレスをつけていたはずです。それなのに、どうしてあんな化け物の姿に……?」
雪兎の緊迫した問いかけに、園長は少しだけ眉間を寄せ、深く考え込むように腕を組んだ。
「それについては、さっきあなたが話していた、あの夜に現れた大柄な女性が大きく関わるはずさ。そして……その女性の正体や、今回の事件の裏で何が起きているのかを知っているかもしれない人物に、私にも心当たりがあるよ」
その言葉を聞いた瞬間、雪兎は思わず椅子から立ち上がり、園長の肩をガッと両手で掴んだ。
「その人物って誰なんだ……! 手がかりがあるなら、今すぐ教えてくれ!」
燃え上がる焦燥に駆られて声を荒げる雪兎に対し、園長はあくまで冷静さを崩さず、諭すように優しく言った。
「今の、頭に血が上って冷静さを欠いた状態のあなたが一人で向かったって、話をこじらせて自滅するだけだよ。私も、長年会っていなかったし挨拶がてら一緒についていってあげる。ただ、ここから目的地までは少し距離がある。それに、外はもうすっかり遅いから、今日はこの施設に泊まっていきなさい」
一刻も早く手がかりを掴み、弟を救い出したい雪兎だったが、窓の外の景色はすでにインクを流したような完全な漆黒の闇に包まれている。当てもなく夜の田舎道を飛び出すのは無謀だと理性では理解でき、雪兎が渋々頷きかけたその時――。
「――いつまで外で聞き耳を立てているの。そろそろ、中に入っておいで」
園長が、誰もいないはずの部屋の扉の向こうに向かって、唐突に声を飛ばした。
その瞬間、ガチャリと乾いた音を立てて園長室のドアが開き、そこに立っていたのは――信じられないことに、紛れもない優妃の姿だった。
「……っ! 優妃……!? どうして、お前がこんなところにいるんだ……!」
予想外すぎる人物のあまりの登場に、雪兎は驚愕のあまり声を裏返らせた。優妃は少し気まずそうに頬を掻きながらも、まっすぐ雪兎を見据えて答えた。
「あなたを見送ったあと、雪兎が何か無茶な行動に出るんじゃないかって気がして……。それに、知り合いの家に泊まるって言ったのも、嘘だってなんとなく気づいちゃったから。だから、こっそりあとをついてきちゃったの。太奈都を無事に連れ戻すためにも、私も絶対に協力させてよ」
まさか病院のあとからここまで単身で尾行してきているとは、夢にも思わなかった。しかし、雪兎の胸に広がったのは、お約束のような驚き以上に、強い拒絶とどうしようもない焦りだった。
――自分が人間ですらない異形の血を引く存在だと知ってしまった今、普通の人間である優妃を、これ以上こんな底知れぬ危険な世界に巻き込むわけにはいかない。
「だめだ……! この先何が待ち受けているかなんて、俺にも分からないんだぞ。優妃に万が一のことがあったら、俺はおじさんたちに一生顔向けできない。それに、俺は……」
自分自身のなかにも人間以外の残酷な血が流れていると知ってしまった今、彼女の隣に並び立つ資格など自分にはないのではないか。そんな暗い自嘲の影が頭をよぎり、雪兎はあえて冷たい言葉で優妃を突き放そうとした。
だが、優妃はその切迫した気迫に怯むどころか、一歩、強い足取りで部屋のなかに踏み込んできた。
「私の意志で、自分の足でついていくって言ってるの! 何か危ないことがあったらすぐ逃げるし、絶対に足手まといにはならないから……! それに、あなたが人間だろうが何者だろうが、そんなの私にとっては関係ないの。このままあなたを一人で行かせたら、二度と雪兎に会えなくなっちゃう気がするのよ……お願い、私を置いていかないで!」
必死に訴えかける彼女の瞳に宿る強さに気圧され、雪兎は言葉を詰まらせた。どうにか追い返そうと必死に別の言葉を探す雪兎をよそに、今度は園長が面白そうにクスクスと喉を鳴らして口を挟む。
「まだそこまで直接的な危険地帯というわけでもないしね。話を聞くだけなら、この子を一緒に連れ行っていいんじゃないかい? それに、私がいるんだから、ある程度の安全は私が保証してあげるわよ」
「園長先生まで……っ!」
まさか味方につくはずのない園長にまで加勢され、さらに優妃の微塵も引き下がる気のない熱意に完全に押し切られる形で、雪兎はついに折れるしかなかった。この凍てつく闇夜のなかで、これ以上頑なに彼女を追い返すこともできなかったのだ。
こうして、その日の晩。
雪兎と優妃は、施設の大きな食堂で、無邪気に笑う子どもたちに混じって静かに夕食をとった。
周囲で楽しげにスプーンを動かす子どもたちの姿を見回しながら、雪兎はふと胸のなかで考える。この食堂のなかに、園長の言っていた「異形の孤児たち」も何人か混じっているのだろうか。彼らはいったい、どんな業を背負ってここに預けられたというのか――。
さまざまな思考の渦を頭のなかで巡らせながら、その夜はそれぞれ割り当てられた個別の寝室へと戻った。
ベッドの硬いマットレスに腰掛け、分厚い窓ガラスに映る不気味な夜空を見つめながら、雪兎は遠く離れた闇のなかにとらわれているであろう太奈都の身を案じた。
そして、静寂のなかでふと、今日この場所で園長と交わした会話のなかにあった、奇妙な違和感が蘇ってくる。
(そもそも、園長はどうしてあんなにも異形や聖石のことについて詳しかったんだ……? 一体、あの人は何者なんだ……)
(そういえば、物心ついた頃から自分の「本当の親」の顔なんて一度も見たことがなかったな。父さんと母さんが実の家族だと思い込んで疑わなかったからか……?)
(いや、それよりも――)
明確な答えの出ない思考の澱みに飲まれながら、いつの間にか雪兎は鉛のように重いまぶたを閉じ、浅い眠りに落ちていた。
その夜、奇妙な悪夢を見た。
まだ幼い頃、施設のプレイルームで同い年の子どもたちと積み木を重ねて遊んでいた時の記憶だ。楽しげに高く塔を組み立てていたところへ幼い太奈都がよちよちとやってきて、理由もなく突然、その積み木で他の子を容赦なく激しく殴りつけた。顔面を血だらけにして泣き叫ぶ子どもと、慌てて駆け寄った職員の大人たちに両腕を羽交い締めされながら、まるで本当の獣のような恐ろしい形相で狂ったように喚き散らす太奈都の姿。
――あれは、あの幼い頃の記憶のなかからすでに、あいつのなかに「悪魔の片鱗」がひそかに芽吹いていたということだったのだろうか。
「はっ……!」
背筋を冷たい汗が這い上がる悪寒に襲われ、ベッドの上で飛び起きる。荒い呼吸を必死に整えていると、ちょうどその絶妙なタイミングで、部屋の木の扉が「コンコン」と軽くノックされた。
「もうすぐ出発の時間だよ、準備を終わらせるんだよ」
扉の向こう側から聞こえた園長の乾いた声に、雪兎は「分かった、すぐ行く」と短く返事をした。
冷たい水道水で顔を洗い、気を引き締める。優妃という全く予想外の同行者を連れ、最愛の弟を取り戻すための、終わりなき旅はいよいよ本格的に動き出す。
すべての事情を知るかもしれない人物の元へ向けて、雪兎は冷たい廊下に踏み出し、再び歩き出した。




