8、残された者たち
太奈都が怪物の翼にさらわれ、あの地獄のような凄惨な事態から数日が過ぎ去ったころ。
消毒液の匂いが鼻をつく、無機質な白に包まれた静寂の病室で、雪兎は「うっ……」と頭蓋骨のなかでハンマーが叩かれるような鈍い痛みを抱えながら、鉛のように重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
全身の骨が軋むような気だるさを堪えながら、必死に上半身を起こす。視線の先には、同じように白いベッドのなかで微動だにせず横たわる、父と母の痛々しい姿があった。
「――父さん、母さん……っ!」
乾燥しきった喉から掠れた声を絞り出し、雪兎は自らの腕に繋がれていた点滴のチューブや、心音を測るために胸に貼られた冷たい電極シールを乱暴に引き剥がした。足元の猛烈なフラつきを意志の力で無視し、両親のベッドの間へと這うように駆け寄る。
ぐったりと眠ったままの二人の手を取り、すがるように何度も名を呼んだ。だが、全身に白い包帯や無数の擦り傷を纏った二人は、わずかな浅い寝息を立てるだけで、二度と目覚めないかのように静まり返っていた。
その時、病室の重い静寂を切り裂くように、ドアがガラッと乱暴な音を立てて開いた。
飛び込んできたのは、病院の殺風景な患者衣をまとい、頭の痛々しい怪我を隠すように大きな包帯を巻いた優妃だった。
「雪兎……っ! よかった、やっと目が覚めたんだね……」
安心感に歪んだ顔のまま、優妃は雪兎の胸へと勢いよく飛び込み、しがみつくようにその体を強く抱きしめた。
しかし、頭を支配する混乱と焦燥に駆られた雪兎は、彼女の両肩を両手で強く押し返すように掴み、引き裂かれるような切迫した声で問い詰めた。
「教えてくれ、あの夜に一体何があったんだ……!? 優妃の頭のその包帯はなんだよ、怪我はないのか。それに、父さんたちにも何があった……!」
怯えたように震える雪兎の圧倒的な気迫に押されながらも、優妃は痛む身体をかばうようにうつむいた。
「ちょ、ちょっと落ち着いて、雪兎……。あの夜、太奈都を追ってあなたが家を飛び出したあと、私もすぐに後を追ったの。そしたら突然、背筋が凍るようなものすごい爆発が起きて……外にいた私たちはその衝撃で吹き飛ばされて、気を失っちゃったの。でも、家の中にいたおじさんとおばさんは、崩れ落ちてきた天井の瓦礫の下敷きになってしまって……いまだに意識が戻らないのよ……」
途切れ途切れに紡がれる残酷すぎる真実。
それを聞いた雪兎の脳裏に、あの夜の最後に焼き付けられた、悪夢のような光景が生々しくフラッシュバックする。
はっと息を呑み、雪兎は掠れた声をさらに震わせて再び問いかけた。
「……太奈都は? 太奈都はどこにいるんだよ……っ!?」
「太奈都は……あの爆発のあと、行方不明みたいなの。警察も必死に捜索してくれてるけど、いまだに手がかりすら見つかってなくて……」
優妃は罪悪感に濡れた瞳で悲しそうに目を伏せ、小さく首を横に振った。
その絶望的な言葉を聞いた瞬間、雪兎の胸の底に、底なし沼のような重く冷たい絶望がドロリと沈み込んだ。だが――。
「そうか……。こんな最悪な状況だけど、まずは優妃が無事で……本当に、よかった」
そう絞り出すように呟くと、雪兎はそっと優妃の背中に震える腕を回し、まるで壊れ物を扱うように強く抱きしめた。
「っ……ぅ……ぐすっ……!」
今まで限界まで張り詰めていた心の糸がぷつりと切れたように、優妃は雪兎の腕の中で堰を切ったようにポロポロと涙を零し、声を殺して激しく泣き崩れた。雪兎は言葉を発することなく、ただ彼女の震える肩を不器用に撫で続けながら、脳裏の奥底で、昨日から離れないもう一つの悪夢の記憶を反芻していた。
――あの夜、自らの目で見たもの。
肌は溶岩のように赤黒く染まり、その背中にはおぞましい異形の翼と禍々しい二本の角を生やした、弟・太奈都の姿。
すべてを灰燼に帰すほどの、凄まじい衝撃波。
そして、同じように頭に角と背中に翼を持つ謎の大柄な女が、気を失った太奈都を抱えて暗黒の夜空へと消えていった光景。
いったい、あの日の夜に何が起こったというのか。人間の常識や科学の枠組みを完全に外れた、あのおぞましい変異の正体は一体何だったのか。
自分の体に残る怪我の痛みなど、今の雪兎には砂粒ほどの価値しかなかった。彼の脳髄を占拠しているのは、行方不明となった愛する弟の安否、その一点のみだった。
「……そうだ、起きたなら一度先生にちゃんと診てもらわないと」
涙を袖で乱暴に拭った優妃が、反射的に枕元のナースコールを押し込む。
すぐに駆けつけた担当医の念入りな診察の結果、雪兎の身体機能に後遺症などの大きな異状はなく、あと数日の安静と経過観察ののちに退院できるとのことだった。
だが、両親の現在の状態を尋ねる雪兎に、医師は曇りきった顔で重々しく告げた。
「瓦礫の下敷きになっていた時間が長すぎました。奇跡的に命の危険こそ脱したものの……いつ意識が戻るのか、正直に申し上げて、現在の医学では何とも言えない状態です」
昨日までいつもの変わらない穏やかな日常のなかで笑い合っていたはずなのに、たった一晩の悪夢によって、世界のすべてが音を立てて崩れ去った。現実感を伴わないあまりの激変に、雪兎の頭脳は完全にフリーズし、その場に立ち尽くすしかなかった。
その夜、疲弊しきった脳髄を引きずるようにしてベッドに横たわった雪兎は、逃れられないように、またあの忌々しい悪夢の底へと引きずり込まれた。
(視界の果てまで緋色に染まりきった、狂おしいほどの赤い世界。自分の右手には、おぞましく鋭く尖った一振りの狂気の太刀。そして、その刃には――一人の男が深く突き刺さり、どす黒い命の液体を大量に流し出している。
男はピクリとも動かない。いったい、誰だ……? 気になってその顔を覗き込もうと震える手を伸ばした瞬間、その男がガクリと不気味に顔を上げた。
血まみれの顔で、冷たくこちらを見上げるのは――他でもない、弟の太奈都だった。
「兄ちゃん……っ……」
掠れた声でそう呟きながら、太奈都は雪兎の腕を、折れんばかりの冷たい怪力でがしっと掴み――)
「はぁっ……はぁっ……!」
喉まで出かえた悲鳴を飲み込み、雪兎はベッドの上で跳ね起きる。冷たい脂汗が背中を滝のように流れ落ち、暴れる心臓は肋骨を内側から破壊するかのように激しい音を立てていた。
あれはただの疲労による悪夢なのか、それとも魂の深部から発せられる不吉なお告げなのか。どうして自分が、心から愛する弟をその手で突き刺すような残酷な夢を何度も見なければならないのか。
両手で顔を覆い、荒れ狂う呼吸を必死に整えながら、雪兎は血が滲むほど強く歯を食いしばった。
「……関係ない。どんな気味の悪い夢を見ようと関係ない。あいつは今、どこかの暗闇で一人で苦しんでいるかもしれないんだ。放っておけるわけが……ないだろ……!」
弟を必ず連れ戻す。その執念に似た決意だけが、崩れかけた雪兎の心を辛うじて繋ぎ止める最後の錨だった。
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翌日、静まり返った病室へ、優妃の両親が見舞いのために足を運んできた。
事故当時はパニックに陥っていた二人も、数日を経てすっかり落ち着きを取り戻しており、傷ついた娘と穏やかに言葉を交わしている。その和やかな空気の隙間を縫って、優妃の父親が、何かを決意したような真剣な眼差しで雪兎へと切り出した。
「雪兎くん、もうすぐ退院できるって医者から聞いたんだが……退院したあとの住まいはどうするんだ? 実家の家があんな無残な状態じゃあ、行くところがなくて途方に暮れるだろう。よかったら、落ち着くまでしばらくうちに来るといい」
予期せぬ、しかしあまりにも温かい申し出に、雪兎は言葉を失って絶句した。
確かに、我が家の現在の悲惨な現状を冷静に考えれば、退院と同時に自分は行くあてのない「家なし子」になるのだ。
ベッドの脇でその話を聞いていた優妃も、ぱっと顔を明るく輝かせて「そうだよ! うちに来てよ、お父さんのお墨付きなんだから!」と、嬉しそうに便乗してきた。
喉から手が出るほどありがたい、救いの手だった。だが、雪兎の心はとっくの昔に決まっていた。
退院したその足で、雪兎はたった一人で弟を探す旅に出るつもりだった。それに、今回の事件の裏には、どう見ても人間の知恵や常識の及ばない「怪異の力」が深く絡み合っている。これ以上、普通の善良な家族である優妃たちを、こんな底知れぬ泥沼に巻き込むわけにはいかない。
「ありがとうございます……でも、知り合いの伝手を頼ってしばらく別の場所に厄介になる予定ですので、本当に大丈夫です。お気遣いいただいて、感謝してもしきれません……」
震える頭を深々と下げる雪兎に、優妃の父親はそれ以上詮索することなく、「そうか、それならいいんだが……何か困ったことがあったらいつでも連絡しなさい」と、優しく微笑みながらそれ以上深くは突っ込んでこなかった。
ただ、その大人たちのやり取りを目の前で聞いていた優妃だけは、どこか納得がいかないような、胸に大きなトゲが刺さったような引っかかった表情で、じっと雪兎を見つめていた。
数日後、ついに雪兎と優妃の退院の日がやってきた。
病院を去る直前、雪兎は眠り続ける両親のベッドの脇に立ち、その冷え切った手をしっかりと、二度と離さないように握りしめた。
「父さん、母さん……必ず、太奈都を連れ戻してくるから。だから、それまで絶対に目を覚まして待っていてくれよ」
心に固い誓いを刻み込み、雪兎は病室の冷たい扉を後にした。
病院の玄関には優妃の両親が自家用車で迎えに来ており、雪兎も一緒に乗せて送ってもらえることになった。
車の窓ガラスから流れていく見慣れた街並みが、やがてあの忌まわしい「惨劇の跡地」へと変わっていく。
かつて温かな家庭があった二階建ての自宅は、あの夜の暴発的な衝撃によって無残に骨組みが剥き出しになり、半分以下の高さまで崩れ落ちていた。がれきの山と化した我が家の前で車を降り、優妃たちに礼を言って別れたあと、雪兎は立入り禁止の黄色いテープをくぐり、かつて自分と太奈都が眠っていた部屋があった場所へと足を踏み入れた。
足元に転がるコンクリートの破片やガラスの欠片をかき分け、何か手がかりになるものが残されていないか必死に探す。
崩れたがれきの山を素手で掘り返し、全身を埃まみれにしながら探し続けて、ようやく瓦礫の隙間から見つけ出したのは――ガラスのフレームがグシャリと割れ曲がった、あの家族四人で笑い合っている写真だった。
歪んだ金属の枠から写真を慎重に、破らないように取り出し、雪兎はそれをバッグの最も安全な内側のポケットに大切にしまい込んだ。
太奈都の背中に生えていた、あの不気味で禍々しい異形の翼。
そして、底冷えのする冷酷な瞳で弟を連れ去った、あの長身の女の黒い影。
分からないことばかりだ。しかし、ここで立ち止まって涙を流している暇など一秒たりともない。
雪兎は崩壊した我が家の跡地を名残惜しそうに振り返り、ぐっと両手を拳に握りしめた。
「――待ってろよ、太奈都。絶対に、どんな手を使ってでもお前を連れ戻すからな」
凍てつくような強い決意を胸に、雪兎はガレキの山を踏みしめて歩き出した。
どこに向かえばいいのかも分からない、途方に暮れるような手探りの旅だったが、最初に向かうべき目的地だけは、彼の心の中で確かな羅針盤のように定まっていた。
自分と太奈都のルーツ――二人がこの世界に流れ着き、すべての運命の歯車が回り始めた発祥の場所。
――すべての因縁が眠る、あの孤児施設へ向けて、雪兎は孤独な一歩を踏み出した。




