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或る兄弟の絆  作者: KOYU
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7/23

7、羽化

 秋の足音が遠ざかり、校舎の窓を叩く木枯らしが肌を刺す寒い季節が訪れた。校舎の中は暖房の甘い温もりに満たされているが、窓側の隅の席に陣取る太奈都は、外から差し込む柔らかい陽光と温風に包まれるうち、授業という名の退屈な檻の中で何度も意識の海へと沈みかけていた。


 襲い来る強烈な睡魔の濁流に抗いながら、なんとか気力だけで一日をやり過ごす。帰り道はいつものように、どこまでも冷たい一人ぼっちだった。一年生のころ、クラスメイトの男子から「一緒に遊びに行こうぜ」と気安く声をかけられたことがあった。だが、その時の太奈都の脳内は優妃のことで埋め尽くされていて、彼女以外の人間とつるむことなど視野になく、無愛想にその誘いを突っぱね続けていた。その報いか、今では誰も彼もが声をかけてこなくなり、孤立は完璧なものとなっていた。優妃が高校を卒業してしまった今となっては、もし誘われれば喜んで乗ったかもしれないが、時はすでに遅く、それは泣いても取り返しのつかない後の祭りだった。


 そうして、青春の予定表が白紙のまま埋まらない太奈都は、一週間のうちに二、三日ほどのペースで、あの薄気味悪くも唯一の救いである大柄な女性の家へと、吸い寄せられるように足を向けていた。


 いつも庭の白いテーブルに座り、学校での他愛のない近況や、行き場のない鬱屈とした思いを途切れ途切れに話す。大柄な女性は、そのドロドロとした話に、ただひたすら深海のように優しく「うん、うん」と相槌を打つだけだった。だが、学校にも居場所がなく、誰からも必要とされない孤独な太奈都にとっては、その肯定の響きだけで、砂漠の水のように心を満たしてくれる心地よい空間だった。


 ある日の放課後、学校からの帰り道にふと激しい空腹を覚え、街の雑踏で何か胃に入れようと足を向けた。ふと目に留まった、レトロな看板を掲げる喫茶店の扉を押し開ける。


 カランコロンと鈴の音が鳴り響き、案内されたカウンターの端に腰を下ろす。分厚いメニュー表を開いてどれにしようか迷っていると、足音とともにウェイトレスが冷えたお水を運んできた。その瞬間、「あれ、太奈都じゃない!」と、耳元で鈴が鳴るような聞き覚えのある声が降ってきた。それは、日々の苦しみを忘れさせるほどよく聞き慣れ、聴くたびに胸の奥が甘く弾む声だった。聞き間違えるはずもない。はっと視線を上げると、そこには見慣れない制服にエプロンをまとった、ウェイトレス姿の優妃が立っていた。その瑞々しい姿は、荒んだ少年の目に一服の涼風のように、天使かと思えるほど可憐に映り、驚きのあまり声すらうまく出なかった。


 突然の遭遇に頭が真っ白になり、呆然と固まっている太奈都を見て、優妃はクスクスと笑いながら「おーい、生きてる?」と茶化すように声をかけてきた。現実へと引き戻され、慌てて取り繕うように、動揺を隠して口を開く。


「優妃、びっくりした……。ここでバイトしてたんだ?」


 オロオロとする太奈都の様子がおかしくてたまらないといったふうに微笑みながら、優妃は手元のメモ帳を軽く叩いて答えた。


「そう! 今月からここでバイト始めたんだよね。大学生活って、思ってたより色々と物入りでお金も飛んでいくからさぁ」


 そう言って、やれやれといった風情で小さくため息をついて見せる。その愛らしい仕草に目を奪われていると、すぐさま彼女はプロの店員モードへと表情を切り替え、「で、ご注文の方はいかがなさいますか?」と、商売人らしい笑顔を浮かべて問いかけてきた。その鮮やかな切り替えぶりに思わずこちらも笑みをこぼしながら、太奈都はメニューの写真を指差して注文を告げた。


「えーと、じゃあサンドイッチと、あとメロンソーダフロートをお願いします!」


 注文をテキパキと復唱し、「はーい、少々お待ちくださいね!」と軽やかな返事を残して、優妃はキッチンの奥へと消えていった。


 その後ろ姿を見送りながら、太奈都の胸のなかは、刹那の歓喜で花火が打ち上がったように激しく踊っていた。またこうして、あの人と日常的な関わりを持てる接点ができた。だが、直面する現実は残酷だった。自分のみすぼらしい毎月のお小遣いを思い返すと、こんな贅沢な喫茶店に毎週、いや、月に何度も通うことなど到底不可能だった。


(そうだ……僕も、バイトを始めればいいんだ)


 電流が走ったように、その場で急にアルバイトの計画が脳裏に閃く。注文した料理が運ばれてくるまでの空白の時間、太奈都はすがるような思いでスマホを取り出し、バイトの求人アプリを必死に漁り始めた。すると、運命の悪戯か、まさに今自分がいるこの街のすぐ近くにある焼肉屋で、ホールスタッフが募集されているのが目に飛び込んできた。しかも、高校生のアルバイトとしては破格の好条件だった。迷わずその求人画面をブックマークに保存し、胸を高鳴らせながら料理を待った。


 待っている間も、ついつい視線がキッチンと客席を行き来する優妃の姿を追ってしまう。どの客に対しても愛想よく丁寧に笑顔を振りまく彼女は、どこをどう切り取っても眩しいほどに可憐だった。


 そうこうしているうちに、注文の品がテーブルに並んだ。こんがりと焼かれたサンドイッチを頬張り、その合間に鮮やかな緑色のメロンソーダを啜り、上に浮かぶバニラアイスの甘さを舌の上で転がす。思いのほか美味しくて、荒れていた心が少しだけほぐれていくのを感じた。


 食べ終えると、長居して迷惑をかけるわけにはいかないと財布を取り出し、レジへと席を立った。その動きに気づいた優妃が足早に近づいてきて、「今日はたまたま昼のシフトに入ってたんだけど、いつもは夕方以降にいるからさ、また時間があったら顔出してね!」と、とびきりの笑顔で小声でささやいてくれた。その言葉に心臓を撃ち抜かれながら、「うん、また絶対来るね」と言い残し、店を後にした。


 その日の帰り道、太奈都の行動力は恐ろしいほど加速していた。文房具店に駆け込んで履歴書を買い、駅前の写真館で慌てて証明写真を撮影し、足早に家へと帰宅する。自室の机に張り付くように先ほどの焼肉屋へ面接の電話をかけると、担当者の対応はスムーズで、数日後の面接の段取りがトントン拍子に決まり、胸をなで下ろした。その勢いのまま履歴書の空欄をペンで埋め尽くし、準備は完璧に整った。


 そして迎えた、数日後の面接当日。アルバイト経験など一切ない太奈都にとっては人生初の面接であり、最初は緊張で冷や汗が止まらなかったが、用意した言葉を必死に絞り出し、自分なりに手応えのある受け答えができたと感じて結果を待った。


 翌日の夕方、スマホが鳴り響き、面接結果を告げる電話がかかってきた。結果は、見事に「採用」だった。受話器を握りしめたまま「よっしゃ……!」と部屋の隅で小さくガッツポーズをキメて、心躍らせながら初出勤の日を指折り数えて待った。


 ついに迎えた、バイト初日。未経験の現場で次々と指示を飛ばされ、最初のうちは右も左も分からず頭が真っ白になりかけたが、必死にメモ帳にペンを走りさせ、復唱しながらも閉店の時間まで食らいつくように働き抜いた。クタクタになりながら迎えた帰り道、アスファルトを踏みしめながらふと思う。(お金を稼ぐって、こんなにも過酷で大変なんだ……。でも、これで優妃にまた会える口実ができる。その一心で、僕は頑張るんだ)そう己を鼓舞し、太奈都は過酷なシフトの渦へと身を投じていった。


 それから一ヶ月ほどが過ぎ、初めての給料日が目の前に迫ってきたある日のこと。ふと無性に優妃の姿が見たくなり、自分の帰路とは真逆の方向になるにもかかわらず、彼女が働くあの喫茶店の前へと足が勝手に向かっていた。ちょうど店の前を通りかかったまさにその時、タイミングの良すぎることに、優妃が「お疲れさまでしたー!」と可愛らしいエプロンを外しながら店から出てきたところだった。


 反射的に「優妃!」と声をかける太奈都。突然の遭遇に優妃はぎょっと目を丸くしたが、目の前の人物が太奈都だと認識した途端、警戒を解いてホッとしたように微笑み、「びっくりしたぁ、こんな時間にここで何してるの?」と小首をかしげた。


 太奈都は少し気まずさを隠しながら、自分も最近近くでバイトを始めて、たまたま店の前を通りかかったから声をかけたんだよ、と嘘とも本当ともつかない返答をした。


 そのあとは他愛のない雑談を交わしながら、ほんの短い距離を二人並んで駅の方へと歩いて帰った。


 偶然の再会に胸を踊らせ、大好きな彼女と二人きりで並んで歩いているという事実だけで、太奈都の世界はまばゆい光に満ちあふれていた。


 それからさらに数週間が過ぎた、バイト終わりのある日のこと。「今日もまた、あの時みたいに奇跡的に会えたりしないかな」と、淡い期待を心臓の奥に飼いならしながら、無意識にまた優妃のバイト先へと向かっていた。しかし、店に近づくにつれて、なぜか胸の奥のざわざわとした嫌な予感が波立ち、嫌な汗が背中を伝うのが分かった。期待と得体の知れない不安がドロドロに入り交じり、もやもやとした感情を抱えながら歩みを進めると、やがてあの喫茶店の看板が見えてきた。その瞬間、まさに店から楽しげに連れ立って出てくる優妃の姿が目に入り、思わず駆け寄ろうと足を踏み出した――が、次の瞬間、その足がコンクリートに縫い付けられたようにピタリと止まった。


 優妃が、満面の、世界を溶かすような甘い笑顔を浮かべて、誰かに歩み寄っていく姿が見えたからだ。その視線の先には、他でもない、実の兄である雪兎が立っていた。あろうことか、二人はごく自然に、指と指をしっかりと絡ませ、手を繋ぎながら並んで歩き始めたのだ。


(神様……どうか、今のこれは僕の脳が見せた見間違いであってくれ……!)


 全身の血の気が一気に引き、脳髄が激しく揺さぶられる。やるせない絶望感が津波のように押し寄せ、胸の底から這い上がってきたどす黒い嫉妬の感情が、冷たい蛇のようにうねりながら内臓を這いずり回る。「いや、きっと見間違いだ。二人はただ一緒にいただけだ、そうだと言ってくれ」と必死に自分の理性を言い聞かせようとしたが、見せつけられた現実があまりにも残酷すぎて、どうにもこうにも居たまれなくなり、気づいた時には足が勝手に、あの不気味な大柄な女性の家へと走り出していた。


 大柄な女性の家へたどり着いたとき、いつもの緑豊かな庭の白いテーブルには彼女の姿はなく、家屋の窓から黄色い生活の明かりが漏れていた。衝動に駆られるまま、太奈都は震える指で玄関のインターホンを乱暴に押してしまった。ピンポーン、と耳障りなチャイムの音が静まり返った林道に響き渡った瞬間、冷水を浴びせられたようにハッと我に返り、「しまった……!」と激しい後悔の念に襲われた。あの人だって、もしかしたら自分以外の家族や生活があるかもしれない。こんな夜遅くに、高校生の男が押しかけたりしたら、普通の家庭なら取り返しのつかない破綻のきっかけになってしまうかもしれない。そう思い直した太奈都は、血の気ルを引いた顔でその場から逃げ出そうと身を翻した。しかし、その刹那、古いインターホンのスピーカーから、低く包み込むような大柄な女性の声が響いた。


「こんな夜遅い時間に、一体どうしたの。……外にいないで、とりあえず中に入りなさい」


 慌てふためいてパニックを起こしている太奈都をよそに、彼女の声はどこまでも冷徹で、そして不思議な強制力に満ちていた。逆らうこともできず、言われるがままに重い玄関の扉を押し開けて家の中へと足を踏み入れた。


 開け放たれた玄関の奥で、待ち受けるように大柄な女性が立っていた。深い影を落とす巨大なキャペリンハットのシルエットのまま、彼女は無言で太奈都を奥のリビングへと手招きし、柔らかいソファーの席へと腰掛けさせた。そして、震える太奈都の背中にそっと大きな手を添えて優しくさすりながら、今夜ここへやってきた理由を穏やかに問いかけた。


 太奈都は息を整えながら、まずはこの家には自分以外の家族の気配はなく、誰かの家庭を壊してしまう心配はなさそうだということに安堵の息を漏らした。そして、今日この目で目撃してしまった地獄のような光景――最愛の兄と、自分が命を削って恋い慕う女性が、恋人同士として結ばれていたかもしれないという残酷な現実を、途切れ途切れの声で零し始めた。その日はいつものように、ただ静かに「うんうん」と肯定して聞いてくれるものだとばかり思っていた。だが、返ってきた言葉は、これまでのどんな優しさとも違う、底冷えのする残酷な宣告だった。


「そう……そうね。かわいそうに、あなたは誰からも、最初から愛されない運命なのよ。きっとあなたのその優しいお兄さんも、あなたの狂おしい思い人も、あなたのドロドロとした独占欲を知りながら、心の底では滑稽だと嘲笑っているのよ。……ああ、なんて哀れで、救いのない子なのかしら」


 そこまで言い終えると、彼女はそれまでの聖母のような雰囲気を完全に脱ぎ捨て、見たこともないような、ねっとりと歪みきった不気味な笑みを浮かべて、クスクスと喉を鳴らして笑い出した。家の中だというのに、相変わらず頭には真っ黒でつばの巨大なキャペリンハットを深くかぶったままで、その表情の細部こそ見えないものの、部屋の空気が一瞬で凍りつくような、耐えがたい邪悪な気配が充満していた。


 背筋に氷を流し込まれたような恐怖に全身が粟立ち、太奈都は反射的に持っていた荷物をひったくると、耐えきれずにその家を飛び出すように逃げ出した。その後ろ姿を、暗いリビングの窓から見下ろしながら、大柄な女性は独りごとのように、不気味にこう呟いた。


「いよいよ……熟す時機ね」


 冷たい夜風を切って家路を急ぐ太奈都の脳裏から、先ほどの大柄な女性の不気味な哄笑と冷酷な言葉が、悪夢のようにこびりついて離れなかった。あんなにも包容力に満ち溢れていたあの優しい雰囲気が、あんなにも強烈でおぞましい恐怖感を放つなんて。いや、ひょっとすると、あの歪んだ笑顔の奥底にあったものこそが、彼女の隠しようのない本当の姿だったのではないか。


 何が何だか分からない混乱の渦に飲まれながら、どうにか自宅へとたどり着き、恐る恐る玄関の扉を開けると、待ち構えていたように母が鬼のような形相で走り寄ってきた。


「あんた、今何時だと思ってるのよ!」


 壁に掛けられた時計の針は、すでに二十三時を大きく回っていた。いくらアルバイトで帰りが遅くなった言い訳があるとはいえ、高校生が真夜中に街を徘徊していい時間ではないことは明白だった。


「ご、ごめん……バイトの先輩と店の片付けのあと話し込んでたら、すっかり時間を忘れちゃってさ」


 とっさに喉から出た苦し紛れの嘘に、母は呆れたような怒りを滲ませた顔で、「遅くなるときは必ず一本連絡しなさい! とにかく、冷めちゃうから早くご飯食べちゃいなさい!」と厳しい口調で言い残し、足早に茶の間へと引っ込んでいった。


 食卓で雪兎の姿ともちらりと目が合ったが、今の太奈都には彼と目を合わせるだけの精神的余裕など一片もなく、無言でただ冷めた夕飯を胃に流し込んだ。



 そして――すべてが崩壊へと向かう、数日後の夜。


 アルバイトを終えて疲れ果てて家に帰ると、なぜか開け放たれた茶の間の方から、父の珍しく上機嫌で陽気な笑い声が聞こえてきた。


 不審に思いながら茶の間の引き戸をガラリと開けると、そこには信じたくない光景が広がっていた。なんと、雪兎のすぐ隣の特等席に、他でもない優妃が、まるでこの家の家族であるかのように自然に腰掛けていたのだ。その只中にあって、父は酔った勢いも手伝ってか、赤ら顔で声を大にして爆弾のような事実を宣言した。


「いやぁ、聞いてくれ太奈都! なんと、雪兎と優妃が正式に付き合うことになったそうだ! 小さい頃からの幼馴染同士が、こうして見事に結ばれるなんて、父さん本当に嬉しくて涙が出ちゃうよ!」


 顔を真っ赤にして心底嬉しそうに語る父の横で、母もまた、我が子の青春の成就を心から祝福するように、これ以上ないほど温かく満面の笑みを浮かべていた。


 その残酷すぎる報告を耳に入れた瞬間、太奈都の中で張り詰めていた理性の糸が、盛大な音を立ててプツリと焼き切れた。


 脳裏の奥底で、あの日の夜に大柄な女性が放ったあの悪魔のような言葉が、鐘の音のように狂おしくリフレインし続ける。


『そう……そうね。あなたは誰にも愛されない。きっとあなたの兄も、思い人も、あなたの気持ちを知りながら本当は笑っているのよ。ああ、かわいそうな子』


 頭蓋骨の内側がぐにゃりと歪むように回転し、胸の奥底から噴き出したどす黒い憎悪のマグマが、全身の血管を焼き尽くすように駆け巡っていく。


 その異様な様子の変化に気づいた雪兎が、心配そうに「太奈都……?」と優しく声をかけながら、その温かな手を太奈都の肩にぽんと置いた――その瞬間、耐えがたき拒絶反応が爆発した。太奈都は反射的にその手を猛烈な勢いで激しく振り払い、「触るなっ……!!」と、獣の喉を抉るような狂気の怒号を茶の間に響き渡らせた。


 見開かれたその目は血走り、引きつった額には青黒い血管がミミズのようにグロテスクに浮き出ている。ただならぬ事態に言葉を失う家族の視線を背中に受けながら、太奈都は尋常ではない足取りで玄関へと走り抜け、夜の闇が広がる外へと飛び出した。


 家を飛び出して近所の狭い曲がり角を猛スピードで曲がったまさにその瞬間、視界の死角から歩いてきた何者かと、激しく正面衝突した。


 強烈な衝撃に耐えきれず、アスファルトの上へ後ろ向きに派手に尻餅をつく太奈都。ふらつく頭をあげて、目の前に立つ人物を睨みつけるように見上げた瞬間、そこに立っていたのは、他でもない、あの不気味な大柄な女性だった。


 彼女は容赦なくしゃがみ込み、太奈都の胸元めがけて分厚い手を伸ばした――正確には、太奈都が幼少期から肌身離さず、首からずっと下げていた、あの禍々しい黒い宝石のついたネックレスを、冷酷な手つきでぎゅっと掴み取った。そして、狂気に満ちた眼差しでこう宣告した。


「いよいよ、長かった成熟の時機が訪れたわ! さあ、その内側に隠された本当の真価を出しなさい!」


 そう叫ぶやいなや、彼女は太奈都の首もとのネックレスを力任せにぐっと胸へと押しつけ、呪術的な念を叩き込んだ。


 次の瞬間、太奈都の喉から、人間のものではない断末魔の悲痛な叫び声が夜空を切り裂いた。


「が、ああああっ―――!!」


 その凄まじい絶叫を聞きつけ、心配して家から追いかけてきていた雪兎が、角を曲がって飛び込んできた。「弟に何をするんだ、今すぐそこから離れろ……っ!」と叫びながら、必死の形相で二人のもとへと駆け寄る。


 だが、狂気の儀式を執行する大柄な女性は、近づいてくる雪兎を一瞥し、冷ややかな嘲笑を浮かべながらこう吐き捨てた。


「あらあら、愚かねぇ……。その弟の心の澱(おり)も、歪んだ気持ちの深さも知ろうとせず、無神経に幸福のトリガーを引き続けたのは、他ならぬあなた自身じゃないの」


 次の瞬間、太奈都の全身から「あああぁぁ――ッ!」と地獄の底の業火のような咆哮が轟くと同時に、彼の肉体を中心として、周辺の家々のガラス窓を粉々に粉砕し、アスファルトをも抉り取るほどの凄まじい破壊の衝撃波が全方位へと暴発した。


 まさに雪兎の体を捉えようとしていたその衝撃波に巻き込まれ、雪兎は木の葉のように空中で吹き飛ばされ、道路脇のコンクリートの壁に激しく頭部を打ちつけた。


 遠ざかり、薄れていく意識のなかで、雪兎は血に染まる視界の端で太奈都の方へと必死に目を凝らした。そこに映っていたのは、もはや人間の形を完全に失った悪夢の光景だった。太奈都の上半身の衣服は内側からの膨張ですべて引き裂かれ、その肌は溶岩のようにドス黒い赤色に変色し、頭部からはおぞましい角がニョキニョキと生え出し、背中からは血に濡れたコウモリのような巨大な悪魔の翼がバサリと展開されていた。


 恐怖に満ちたその光景のなかで、大柄な女性は狂気に満ちた笑みを浮かべ、変貌した太奈都の額に指先をあてがうと、スパークするような強烈な電流を流し込み、その場で完全に気絶させた。


 ぐったりと意識を失った太奈都の巨体を支えながら、大柄な女性が立ち上がる。その拍子に、今まで彼女の顔を深く隠していた巨大な黒いキャペリンハットが突風に吹き飛ばされ、夜空の下にその真の姿が完全に露わになった。なんと、その頭部にも、太奈都のものと瓜二つの禍々しい角が誇らしげに生え揃っていたのだ。


 彼女は背中に生やした漆黒の大きな翼をバサリと力強く広げ、気絶して動かない太奈都を軽々とその腕に担ぎ上げると、不敵な笑みを浮かべながら、血塗られた夜闇の空の彼方へと音もなく消え去っていった。


 道路の冷たいアスファルトに投げ出された雪兎は、遠ざかる羽音を聞きながら、かすかに震える唇で「たなと……」と名を呼び、完全に暗転していく意識のなかに沈み込んでいった。

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