6、少しずつ離れていく距離
凍てつく季節が終わり、世界に柔らかな温もりが満ちる春。雪兎と優妃はそれぞれの志望校という険しい関門を突破し、同じ鮮やかなキャンパスへと通うこととなった。卒業という名の門出を間近に控えた二人は、世界が自分たちを中心に回っているかのような緩やかな日々を謳歌していく。部活動に名残惜しくもたまに顔を出したり、授業のない休日は連れ立って街へ出かけたり、机を並べて勉学に励んだりと、二人の影はいつも寄り添うように重なっていた。
そんな輝かしい春の片隅で、太奈都もまたいつもの日常のレールの上を歩いていたが、通学の道や帰路に感じる一人の時間は、かつてないほど重く、冷たく広がっていった。中学の頃は、誰にも邪魔されない一人の時間など息抜きでしかなかったというのに。だが今は、その静寂が耐えがたいほどにつらい。ほんの少し前まで当たり前のように響いていた二人の笑い声や話し声が聞こえないだけで、世界は色を失い、悲しいほど冷たく静まり返っていた。ただ淡々と学業の課題をこなし、誰もいない家へと孤独に帰るだけの毎日。
ある日のこと。学校から重い足取りで帰り、家の中に入ると、玄関の三和土に雪兎の使い古したスニーカーと、見慣れない女性もののパンプスが並んでいた。不審に思いながら何気なく茶の間へ足を踏み入れていると、そこには懐かしい優妃の姿があった。久しぶりにその笑顔を見られたことの純粋な嬉しさの反面、雪兎と並んで仲睦まじく会話に花を咲かえている光景を目にした瞬間、胸の奥底がドロドロと逆巻く。複雑怪奇な嫉妬の感情に、激しくさいなまれていた。
そんな淀んだ空気を切り裂くように、優妃は太奈都の姿を見つけると、ぱっと花が咲いたような笑顔で話しかけてきた。
「太奈都! なんだか数日会っていないだけで、随分と久しぶりに会う気がするね」
そう無邪気に笑うと、「おいしいお菓子を買ってきたから、一緒に食べよ!」と、太奈都を温かな食卓のほうへと手招きして引き寄せた。
数日ぶりに間近で見る優妃の横顔に、忘れたはずの心臓が激しく波を打つ。彼女に対するこの特別な、狂おしいまでの恋心を悟られないよう必死に仮面を被りながら、当たり障りのない相槌を打つ。
そうして、数日ぶりの甘美で残酷な三人でのひとときはあっという間に過ぎ去り、外の景色が薄紫色から夜の帳へと溶け出していくころ、両親が仕事の疲れを滲ませながら帰宅してきた。親たちの顔を見て礼儀正しく挨拶をする優妃。「そろそろ晩御飯の時間になっちゃうから、帰るね」と、名残惜しそうに微笑みながら家路につく。久しぶりに焦がれる人と過ごした時間は、砂時計の砂がこぼれ落ちるように、あまりに儚く、あっという間に終わってしまった。
翌日からも、息の詰まる学校に行き、ただ冷たい一人きりの部屋へと帰るだけの退屈な日々が過ぎ去っていく。耐えかねたある日、どうしても優妃の声を聴きたくなり、帰り道の雑踏の中で、震える指でメールの画面を叩いた。
(優妃、今日って少し時間ある? もしよかったら、街に出かけたりできないかな)
送信ボタンを押した直後、返信は驚くほど素早く戻ってきた。
(ちょうど今、街にいるよ! どこかで待ち合わせする?)
思いがけずすぐに返信が来たことが純粋に嬉しかったが、何より大好きな優妃に今すぐ会えるという高揚感に背中を押され、太奈都は足早に電車に飛び乗り、ネオンが灯り始める街へと向かった。電車を乗り継ぎ、目的地の駅に降り立ったあと、胸を高鳴らせながら指定された待ち合わせ場所へと急ぐ。
待ち合わせの相手が見える距離まで近づいたとき、ふと視界に飛び込んできた優妃の姿に、思わずその名前を愛おしく叫びそうになったが、喉元で必死に飲み込んだ。そのすぐ隣に、見慣れた雪兎の姿があったからだ。おそらく同じ大学に通う二人、今日も講義の帰りに一緒に勉強でもしていたのだろう。だが、毎日ただ一人の孤独を噛みしめながら寂しく日々を過ごしている自分と、自分が命を削るほど恋い焦がれる人といつでも隣り合っていられる雪兎という存在が、たまらなく羨ましく、そして剥き出しの憎悪を覚えるほどに妬ましく思えてしまった。
その瞬間、胸の奥の澱が一気に決壊し、どす黒い感情が激しく渦巻いていく。こんな汚れた醜い精神のままで、二人の前に笑顔で歩み寄ることなど到底できない。絶望に飲まれ、太奈都は冷たい指先で優妃へと急ぎのメールを打ち込んだ。
(ごめん、急用が入っちゃって行けなくなった。自分から誘っといて本当にごめんね、また今度!)
送信すると同時に、まるで背後から追っ手にでも狙われているかのように、来た道を逃げるように引き返した。途中、スマホがブルブルと震えて返信が届いていることに気づいたが、画面を見る勇気など一片もなく、そのまま冷え切った帰路についた。
その日は、どうしてもまっすぐ家族の待つ家へ帰る気になれず、街外れの誰もいない寂れた公園のベンチで、夜の底が深くなるまで何時間もただ呆然と座り込んで時間をつぶした。冷たい夜風が吹き抜ける中、膝を抱えてうずくまっていると、唐突に柔らかい女性の声が降ってきた。
「こんな夜遅くに、一人でどうしたの?」
はっとして顔を上げると、そこには目を疑うほどに背が高く、おそらく身長は2メートルはあるだろうか、圧倒的な存在感を放つ大柄な女性が立っていた。頭には真っ黒でつばの広い大きなキャペリンハットを深くかぶっており、その影に隠れて顔の表情は窺えない。服装は、夜の闇に溶け込むような真っ黒な色合いながら、すらりとした体躯の美しさを際立たせる豪華なワンピースドレスだった。
何時間も冷たいベンチに座り込んでうなだれている姿を、遠くから見かねて心配になり、声をかけてくれたのだという。
なぜだかその圧倒的な包容力、そして底知れぬ母性を纏った佇まいに心を許してしまい、太奈都は堰を切ったように、最近自分の内側で暴れ回っている歪んだ感情や苦悩について、ぽつりぽつりと話し始めてしまった。大柄な女性は、途中で遮ることもなく、終始「うん、うん」と慈愛に満ちた相槌を打ちながら、その澱んだ告白を聞き続けてくれた。そうして心の内をすべて吐き出しているうちに、辺りはすっかり漆黒の夜の闇に包まれており、大柄な女性は優しく話を区切ると、ふっと微笑むように提案した。
「もうすっかり遅くなってしまったから、今日はもうおうちへ帰りなさい。……また私に話を聞いてほしいときは、いつでもこの家に来るといいわ」
そう告げると、彼女は優雅な手つきでバッグの中から小さなメモ帳を取り出し、何かをサラサラと書き殴った。それを一枚きれいに破り取ると、優しく太奈都の手に握らせた。
震える手で受け取ったメモには、見知らぬ街のどこかの住所がインクの滲みとともに記されていた。「ここが私の家だからね、誰にも言えない秘密をこぼしたくなったら、いつでもいらっしゃい」大柄な女性はそう言い残すと、夜の闇に吸い込まれるように、美しく静かに去っていった。
太奈都はしばらくその場に呆然と座り込んでいたが、不思議と、あの見ず知らずの大柄な女性に胸の内の毒をすべて受け止めてもらったおかげで、心の霧が晴れたような妙な軽さを覚え、重い足取りで家路についた。
それから数日の静寂を経て、ついに雪兎の卒業式の日がやってきた。
体育館のパイプ椅子に座る在校生たちが見守る中、誇らしげな表情を浮かべた卒業生たちが次々と壇上へと上がり、校長から卒業証書を受け取っていく。その列の中にいた優妃の出番が来た時、客席にいた太奈都は、その凛とした美しい姿に思わず息をのんで見入ってしまった。中学生のころのあどけなさが残る面影から、確かな大人へと変貌を遂げつつある彼女の横顔は、息をのむほど美しかった。あの日の放課後、胸の奥に小さな種として植えられたこの恋心は、幾重にも苦しみの養分を吸い上げながら、今なお歪みなく巨大に成長し続けている。そう痛感した瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられ、甘く、そしてどうしようもなく苦しい痛みが走った。
厳かな卒業式が無事に終わり、帰りは両親と雪兎を交えて、少しだけ背伸びをした豪華なレストランでささやかなお祝いの食事をとることになった。
父は、我が子が立派に成長して巣立っていく姿がよほど感慨深かったのか、最初から最後まで感極まって泣いたり笑ったりと忙しく、アルコールの勢いも手伝って、途中からは泣いているのか笑っているのか全く判別がつかないぐちゃぐちゃの表情をしていた。母もまた、普段のテキパキとした面影を消し、目頭にうっすらと涙を浮かべながら、どこまでも誇らしく、そしてこれ以上ないほど幸せに満ちた笑みを浮かべていた。
(ああ、血の繋がりなんて関係なく……この温かな家族の一員としてここにいられて、本当に、よかったんだ……)
その瞬間だけは、胸の奥の澱みが綺麗に洗い流されたような、純粋でかけがえのない幸福感に包まれていた。
しかし、季節は容赦なく巡り、初夏のむせ返るような暑さがアスファルトから立ち上るころ。太奈都は相変わらず孤独な一人の時間を過ごしていたが、彼の精神を確実に蝕む、さらなる残酷な変化が訪れていた。
同じ大学に通っているということは頭では分かっていたが、キャンパスライフが始まってからというもの、雪兎と優妃が行動を共にする時間は、以前よりも圧倒的に増え続けていた。講義の合間に大学近くのおしゃれなカフェで並んでノートを広げ、テスト勉強をしたり、休日に二人で必要な教科書を買いに出かけたり。街を歩くふとした拍子に、そんな二人のあまりにも自然で、完璧に調和した光景を偶然目撃してしまうことが何度もあり、その度に太奈都の心は生贄の肉のように引き裂かれた。その幸せそうな輪に入って声をかける勇気など臆病風に吹かれて一片もなく、ただ敗者として、その場から逃げ出すことしかできなかった。
ある日の放課後、学校からの帰り道。胸のなかに溜まりに溜まったドロドロとした黒い澱みが行き場を失い、すぐには家へ帰れないほど息が詰まっていた。
ふと、脳裏にあの日の大柄な女性の存在が、一筋の蜘蛛の糸のように鮮やかに浮かび上がった。
(また……あの人に、話をぜんぶ聞いてほしいな)
そう強く願うように思い立ち、普段は使わないカバンの小さな隠しポケットの底をまさぐると、あの日のメモ用紙が大切にしまわれていた。住所の場所はここから数駅離れた少し遠い場所だったが、今の腐りかけた精神状態に比べれば、行くことなど造作もないことだった。太奈都は電車の乗換案内も確認せず、学校帰りにそのままその目的地へと足を向けることにした。
ガタンゴトンと揺れる電車を数駅乗り継ぎ、降り立った静かな駅から、メモの住所を頼りに住宅街の細いアスファルトを歩いていく。やがて人間の気配がまばらになり、深い緑に囲まれた静寂の林道を抜けると、ぽつりと寂しげに、しかし不思議な気品を纏って佇む一軒家が見えてきた。
間違いなくここがあの日の住所だ。そう確信して敷地の柵に近づくと、緑豊かな庭が一望できた。目を凝らすと、そこに置かれた白い洋風のテーブルセットの席で、あの日の大柄な女性が優雅に一人、黒いティーカップでお茶をたしなんでいた。
その神聖ですらある後ろ姿を見た瞬間、堰を切ったように「あのっ……!」と掠れた声がこぼれ落ちる。
足音に気づいた大柄な女性は、ゆっくりとこちらを振り返ると、例の深紅のリップでも覗いているかのようにふわりと微笑み、太奈都の方へと優雅に歩み寄ってきた。
相変わらず彼女は、あの日の夜と同じように、真っ黒でつばの巨大なキャペリンハットを深くかぶっており、その黄金比の影に隠された顔の表情は一切見えない。身体のラインを美しくトレースする、すらりとしたシルエットの豪華な黒のワンピースドレスが、初夏の木漏れ日に映えていた。
「いらっしゃい、よく迷わずここまでたどり着いたわね」
ベルベットのように低い、しかしどこか母性を帯びた心地よい声で迎え入れると、彼女は太奈都を拒絶することなく、緑に囲まれた庭の敷地内へと招き入れた。
庭に置かれた白いテーブルの椅子に腰掛けた瞬間、太奈都のなかに溜まっていたダムの水が一気に決壊したかのように、最近の身を切るような思い事や、胸の内で暴れ回る歪んだ嫉妬の感情を、息も継がずに堰を切って話し始めた。大柄な女性は、あの日の約束通り、一切否定することなく優しく、まるで海のように深い「うん、うん」という相槌を打ちながら、その狂気をすべて受け止めてくれた。
どこまでも底知れぬ安心感と奇妙な温もりに満たされ、太奈都はまるで自分の帰るべき巣にたどり着いたひよこのように、日頃の鬱憤をすべて吐き出すように子供っぽく話し続けた。あまりに心地よいその空間に神経の緊張が解けたのか、話題が途切れたころ、彼女は庭の太い枝から吊るされた白いゆりかごのようなブランコへと太奈都を誘った。
二人で並んで心地よい風に揺られながら、途切れ途切れに言葉を交わす。しかし、極限までの精神的疲労と安心感が同時に押し寄せたのか、太奈都は急激な睡魔に襲われ、まぶたが鉛のように重くなっていった。
心地よく吹き抜ける初夏の涼しい風が頬をなでる中、ついに意識の糸がプツリと切れ、太奈都はそのままカクリと頭を垂れ、隣に座る大柄な女性の柔らかな体に寄りかかるようにして、深い眠りのなかに落ちていった。
少年の体重が自らの肩にかかるのを感じながら、大柄な女性は、すやすやか弱い寝息を立てて無防備に眠る太奈都の横顔をじっと見下ろした。そして、愛おしむようにその乱れた髪を太い指で優しく、まるで呪いを塗りこむように撫でつける。
その瞬間、彼女の唇の端が、得体の知れない歓喜に歪むように不気味にニヤリと持ち上がり、夜の底から這い出るような、聞き惚れるほどに甘美な声でぽつりと囁いた。
「――実りまで、もうすぐ……」




