↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
或る兄弟の絆  作者: KOYU
PR
5/23

5、不穏な影

 季節は巡り、木枯らしが肌を刺す本格的な寒さが訪れる頃。


 雪兎と優妃は人生の岐路である受験シーズンに突入し、部活動という仮面を脱ぎ捨ててからは、毎日のように図書館へこもり、机にしがみつくように勉学に励んでいた。同じ志望校という光を目指す二人は、下校の時もぴったりと肩を並べて影を重ねるように図書館へ向かう。


 そんな輝く二人を横目に、太奈都は深い孤独の底で一人、足を引きずるように帰路につくことが増えていた。


 行き場のない焦燥に駆られ、時折図書館の前に足を運んでみるものの、並んで勉強する二人の間に割り込む隙など、針の穴ほどの余裕すらない。冷たい孤独が、降り積もる雪のように胸の澱を白く染めていく。


 その日も、心のなかで渦巻く憂鬱な霧を紛らわせるために文房具店に立ち寄ったのだが、そこにはまたしても、並んで色とりどりのペンを選んでいる雪兎と優妃の姿があった。楽しげに笑い合う二人のあまりの親密さが、なぜか生傷に塩を塗り込まれるように激しく目に痛い。


 居ても立ってもいられなくなった太奈都は、鋭い刃物で刺されたような痛みを抱えながら店を飛び出し、足早に家へと逃げ帰った。


 自室の冷たいベッドに突っ伏し、ドロドロとした嫉妬の沼にもがいていると、やがて玄関のドアが無慈悲に開く音がした。


 兄が帰ってきた。その足音が階段を重くきしませ、自分達の部屋の前に近づいてくる。


 ――そして、もしやその後ろには、あの優妃が笑いながら立っているのではないか。


 そう最悪の想像を膨らませた瞬間、脳内で張り詰めていた糸がプツンと音を立てて弾けた。どうしようもない憤りと、黒く濁った激怒が全身の血管を駆け巡る。自分が入り込む余地など、この世界のどこにも最初からなかったのだという絶望が、冷徹な狂気へと姿を変えていく。


 この窒息しそうな空間にはいられない。一刻も早くここから逃げ出そうと、太奈都が勢いよく部屋のドアを乱暴に開き放った、その時。


「あ、太奈都! ちょうどよかった。これ……」


 思いがけない方向から声をかけてきた優妃の手には、小さな紙袋が握られていた。彼女の華奢な腕が、まるで蜘蛛の糸のように、太奈都のそれに軽く触れようと伸びてくる。


 ――触るな。その汚れた手で、僕に触れるな。


「……っ触るな!! 僕に近づくなっ!」


 獣の喉を裂くような絶叫と共に、太奈都はその手を力任せに、叩き落とすように振り払った。


 ガシャッ、と乾いた耳障りな音がして、優妃が大切そうに持っていた紙袋が、虚しく床の冷たいフローリングに叩きつけられる。中から音を立てて転がり出たのは、可愛らしいパステルの参考書と、手作りのあたたかみを帯びた小さなキーホルダーだった。


 何が起きたのか理解できず、茫然と石像のように立ち尽くす優妃をその場に置き去りにし、太奈都は逃げ出すように家を飛び出した。


 背後から「太奈都っ!」と、血相を変えた雪兎の焦った声が響いたが、振り返るだけの理性など一片も残っていなかった。


 夜の公園の誰もいない冷たいベンチで、凍える体を丸めて膝を抱え、何時間も途方のない闇を過ごした。


 身を刺すような寒さと空腹に耐えかねて家に戻ったのは、世界がすっかり夜の底に沈みきった頃だった。


 恐る恐る玄関の扉を開けると、温かな光が漏れる茶の間から、いつもと変わらない母の声が飛んできた。


 「おかえり。もうご飯できてるから、早く手を洗ってきちゃいなさい」


 操り人形のように言われるがまま洗面台に向かい、冷たい水道水で凍えた手を洗っていると、背後から足音が忍び寄るように近づいてきた。


「さっきは一体どうしたんだよ。優妃、すごくショックを受けて泣きそうだったぞ。……明日の朝、学校でちゃんと謝れよな」


 振り返ると、雪兎が呆れたような、しかしそれ以上に痛切な心配を滲ませた顔で立っていた。


 だが、今の太奈都の耳には、その言葉はただの雑音としてしか届かない。無言で機械的に手洗いを続ける弟に、雪兎は小さく、しかし重いため息をついて続けた。


「……あのさ。もうすぐお前の誕生日だろ。だから今日は、優妃に無理を言って手伝ってもらって、お前が欲しがってたプレゼントを一緒に買いに行ってたんだよ。『久しぶりに太奈都と三人で出かけたいね』って、あいつもずっとお前の話ばかり――」


 そこまで言いかけて、雪兎はそれ以上言葉を続けることをやめ、重い足取りで茶の間へと戻っていった。


 ――なんだ、そうだったのか。


 胸の奥で、ほんのりと温かな喜火が湧き上がるはずなのに、なぜかその中心は恐ろしいほどの冷たさで凍りついていく。


 仲睦まじく並んで歩く二人の姿が、呪いのように脳裏から離れない。どうして、大好きなはずの二人をこんなにも忌々しく、呪わしく思ってしまうのか。底なし沼から湧き出るような負の感情が、とめどなく内側から溢れ出してきて、彼の理性を溶かしていく。



 翌朝。


 太陽が昇り、登校の時間になっても、太奈都は泥人形のように布団から起き上がらなかった。


 見かねた雪兎が「このままだと遅刻するぞ、早く準備しろよ」と心配そうに声をかけてくるが、太奈都は死人のように気だるげに布団を頭までかぶったまま呟いた。


 「……先に行ってよ。あとから走って追いかけるからさ。優妃を待たせたら悪いだろ」


 その言葉に少し安心したのか、「あまり無理するなよ」と言い残し、雪兎は一人で慌ただしく家を出ていった。


 ガチャンと扉が閉まり、足音が完全に遠ざかったのを確認してからゆっくりと起き上がったものの、学校へ向かう気力など砂粒ほども残っていなかった。あてどなく街の雑踏へフラフラと足を踏み出し、時間つぶしに吸い込まれるように入ったのは、たばこの煙と機械音の澱む薄暗い場末のゲームセンターだった。


 派手な電子音が鳴り響くアーケードゲームの画面を、感情の光を失った濁った目で、ただひたすらにボタンを連打して叩き続ける。


 どれくらい時間が経っただろうか。昼過ぎまで感情を殺して機械的にCPUとの対戦を繰り返していたが、さすがに息が詰まって外に出ようと出口へ向かった、その時だった。


「おい、坊主。なかなかいい身なりしてんじゃねえか。小遣いくれよ」


 背後から容赦なく浴びせられたのは、店内に蛇のようにたむろしていた不良少年三人組の嘲笑だった。ガシッと乱暴に首根っこを掴まれ、逃げる間もなく異臭の漂う薄暗い路地裏へと引きずり込まれていく。


「金になりそうなもんは、全部その場に置いていけよ、あぁ?」


 耳障りな脅し文句を吐き捨てながら、容赦なく鳩尾(みぞおち)へと突き立てられる鈍い蹴り。


 その衝撃の瞬間だった。


 ――まただ。あの感覚が、頭蓋骨の裏で目を覚ました。心の奥底に鎖で繋がれていたはずのどす黒い感情が、鎖を噛み千切るように激しく暴れ出した。


 胸の奥のざわざわが、津波のように止まらない。頭を内側からハンマーで割られるような激しい偏頭痛。痛みに耐えかねてなだめようと自分の胸に手を当てた瞬間、世界がプツリと断線したように暗転した。


 ――意識が断たれていたのは、ほんの数分間のことだったのか、それとももっと長い時間だったのか。


 再び見開いた視界に飛び込んできた地獄のような光景に、太奈都は自分の目を疑い、心臓が凍りついた。


「がっ……、うっ……ぐぅ……」


 先ほどまで牙を剥いて自分を恐喝していた不良三人組が、まるで車にでも轢かれたかのように、血まみれの見るも無残な肉塊となって路地裏のアスファルトの地面に転がっている。息こそ微かにしているようだが、全員が白目を剥き、完全に意識の彼方へと沈み込んでいた。


いったい、ここで何が起きた? 誰が、こんな短時間でこいつらを――?


 だが、恐怖にガタガタと震えながら自分の両手を見た瞬間、全身の血の気が一気に引いて凍りついた。


 自分の両拳の皮膚は激しくめくれあがり、どす黒い鮮血に染まっている。さらに、着ていた制服の白いシャツの胸元にも、返り血が容赦なく飛び散っていた。


 ――こいつらを虫けらのように叩きのめしたのは、他の誰でもない。この自分の両手だ。


 どうやって? こんな細くてか弱い腕で、どうしてこんな悪魔のような暴力の力が……?


 混乱の渦で思考が追いつかない。自分の肉体の内側で何が起きているのか、理解の範疇を完全に超えていた。


 逃げ場のない恐怖が総身を駆け抜け、太奈都は足元をふらつかせながら、まるで何かから追われる獣のように、その場から全速力で逃げ出した。


 誰の気配もない冷たい川のほとりまでたどり着き、膝をついて荒い息を必死に整える。


 この血だらけの惨めな姿で家に帰れば、すべてが終わり、家族に本当の化け物だとバレてしまう。誰もいない昼間の静まり返った時間を狙って慌てて家に帰り、汚れきった服はゴミ袋の底深くへと隠し、熱いシャワーを浴びて皮膚にこびりついた生々しい血の匂いを必死に洗い流した。


 あまりの底知れぬ恐怖と凄まじい疲労に耐えかね、自室の布団に倒れ込むと、太奈都はそのまま泥沼に引きずり込まれるように深い眠りに落ちた。


 ――そして、再び強制的に訪れた夢の中。


 例の(何者か)が、冷徹な死刑宣告のように耳元で囁く。


――「熟す期は近い。お前の役目を果たす時に備えよ」


 その呪わしい声の直後、先ほど路地裏で起きた暴力の生々しい光景が、走馬灯のように鮮やかに脳裏に再生された。


 三人がかりで牙を剥いて襲いかかってくる不良たちを、人間離れした狂気の怪力で一人ずつ虫けらのように圧倒し、コンクリートの壁に顔面を叩きつけ、骨が粉々に砕けるのも構わずその肉を握りつぶす――そのあまりに残虐な、自分の姿。


 その凄惨な虐殺劇を、なぜか自分とは別の冷酷な第三者の視点から、まるで他人事のように冷ややかに見下ろしている。


 すると、夢の中の「もう一人の自分」が、ふとこちらを振り返り――底意地悪く、歪みきった笑顔を浮かべた。


「はっ……!」


 現実の崖から突き落とされるように、跳ね起きる形で現実の意識が引き戻される。


 喉まで出かかった悲鳴を飲み込み、荒い息を整えながら横を向くと、ベッドの隙間から、まるで母親のように心配そうな顔をした兄が、こちらをじっと覗き込んでいた。


「太奈都……お前、今日学校を一日サボったのか?」


 真っ直ぐに問いかける雪兎の声に、太奈都は引きつる頬の筋肉を必死に抑え込みながら、壊れそうなか細い声で答えた。


「……行こうとしたんだけどさ、途中で急に具合が悪くなって……家に戻ってきちゃったんだ」


 それを聞いた雪兎は、安堵したような、しかしどこか納得のいかない複雑そうな顔でため息をついた。


「……そうか。まあ、無事に家にいたならいいけどさ…。もうすぐご飯ができるから、降りてこいよ」


 そう優しく言い残し、雪兎は温かな足音を立てながら階下へと去っていく。


 今日起きたおぞましい現実の記憶と、夢の中で不気味に笑った「もう一人の自分」の残像。


 音を立てて崩れ去っていく平穏の足音を背中に聞きながら、太奈都は、二度と静まることのない胸のざわざわと恐怖に、激しく震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。