4、幼き頃の記憶
キャンプの日から、太奈都の胸中にある澱は、黒い泥のように沈殿して消えることはなかった。
相変わらず残酷なまでの日常。毎朝の登校の道すがら、前を歩く雪兎と優妃が楽しげに言葉を交わす姿を、少しだけ距離を置いて見つめるだけの毎日。
あの日の不吉な確信は、確証という名の錆びたナイフへと変わりつつあった。優妃が恋い慕っているのは自分ではない。毎日顔を合わせ、同じ時間を共有する「兄」なのだと。
頭では嫌というほど理解していても、ちぎれそうな心は追いつかない。二人の前では何食わぬおどけた顔を取り繕っていたが、内側はどす黒い嫉妬心ですリ潰されそうだった。
ある日の夜。家の小さな縁側で、一人冷え切った夜空をぼんやりと見上げていた時のことだ。
お風呂上がりですっきりと髪を整えた雪兎が、タオルで頭を拭きながらひょいと声をかけてきた。
「お風呂あがったぞ。太奈都も早く入ってこいよ、風邪ひくからさ」
虚空を見つめて返事をしない弟を不審に思ったのか、雪兎がその肩にぽんと優しく手を置いた――その瞬間。
太奈都の体は思考より早く、毒蛇にでも触れたかのように、反射的にその手を激しく振り払っていた。
「っ……!」
あまりの荒々しさに、雪兎が息を呑んで驚愕に目を見開く。そして、自らがしでかした取り返しのつかない拒絶の行動に、太奈都自身が一番凍りついていた。
「ご、ごめん……ちょっとぼーっとしてて、手が滑って……。お風呂、行ってくるから」
化け物でも見たかのような視線から逃げるようにその場を立ち去り、湯気のこもる浴室へと駆け込んだ。
――そもそも、自分と雪兎は、血を分けた本当の兄弟ではない。
現在の優しい両親のもとに引き取られる前、二人はそれぞれ別の深い闇から、この家に流れ着いた「養子」だった。
【回想】
雪兎がこの家にやってきたのは、彼が五歳の時だった。
まだ物心もつかない赤ん坊の頃、雪の降り積もる凍てつく夜に、孤児院の門の前に古びた毛布に包まれて置き去りにされていたという。その冷え切った小さな包みのそばには、「この子をよろしくお願いします」という震えた手書きのメモと、白く半透明の光を宿した奇妙な石がついたネックレスが添えられていた。それが、雪兎のルーツを証明する唯一の物だった。
それから約二年後。
太奈都がその施設に来たのは、草木も枯れ落ちる肌寒い、夕暮れどきだった。
ある日、園長先生がどこかから施設に連れ帰ってきた。
施設にきた当時の太奈都は、生後間もないというのに、「ここにいるぞ、私を見てくれ」とでも訴えるように、世界が割れんばかりの悲鳴のような泣き叫び声を上げていたという。
そしてその小さな手には、雪兎が持っていたものと似ている、黒い石のついたネックレスがしっかりと握りしめられていた。
その後太奈都は、施設に来たばかりのあの凄まじい発狂が嘘のように、一切の感情を凍らせたような、気味の悪いほど静かな子供へと変貌していった。
親のいない残酷な現実を冷徹に受け入れ、どこか遠くを見つめるように達観して育っていく雪兎は、それでもその胸の奥に底知れぬ寂寥感を纏っており、なぜか新しくやってきた底知れぬ影を落とす太奈都を、どうしても放っておけなかった。いつもその小さな背中のそばに寄り添い、実の弟のように慈しみ、面倒を見続けた。
だが、運命の歯車が狂い始めたのは、太奈都が三歳を迎える頃のことだった。
薄暗い遊び場で、他の子供たちが無邪気に積み木を重ねて遊んでいた時のことだ。
突然、何の前触れもなく、太奈都のなかの何かがプツリと切れた。彼は近くにいた子供から積み木を暴力的に奪い取り、容赦なくその顔面へと叩きつけたのだ。被害にあった子供は顔面を血まみれにして阿鼻叫喚の声を上げ、周囲の職員たちは目の前で起きた異様な暴力の光景に、凍りついた木像のように硬直した。
まだ二、三歳の幼児が出せるはずもない、底知れぬ破壊衝動。
慌てた職員たちが血相を変えて二人を引き離そうと駆け寄ると、太奈都は幼児の喉とは思えないほどの、地獄の底から響くような絶叫をあげて暴れ狂った。周囲の職員たちが耐えきれずに耳を塞ぎ、恐怖に駆られて後ずさるほどの、おぞましい狂気だった。
そして――それまでの暴れぶりが嘘のように、プツリと糸が切れたように、その場でバタリと崩れ落ち、太奈都は深い、底なしの眠りに落ちていった。
それ以降、恐怖に怯える職員たちの厳重な監視の網もあり、二度とあのような暴力の牙が剥き出しになることはなかった。
それでも、雪兎だけは変わらなかった。
周囲から孤立し、部屋の暗い隅で膝を抱えてうずくまる太奈都の孤独を見過ごせず、相変わらず太陽のような笑顔で優しく声をかけ続けた。
その温もりという名の麻薬に触れるうち、心を鉄の扉で閉ざしていた幼い太奈都は、次第に雪兎という存在に狂おしいほど執着し、すがるように懐いていくようになった。二人の間には、血の繋がりという薄っぺらい鎖を超えた、引き裂くことのできない濃密な呪縛のような絆が紡がれていったのだ。
そして雪兎が五歳の時、現在の温和な両親がその施設を何度か訪れた。
夫婦は雪兎だけを養子に迎えようとしたが、その瞬間、雪兎はまるで自分の半身を奪われるかのように太奈都の手を死んでも離さないとばかりに固く握りしめ、嵐のように泣き叫んだ。
その剥き出しの兄弟愛に胸を打たれた両親は、この二人を引き離すことなど神への冒涜だと決意し、血の繋がらない双子のように、二人まとめて家族として引き取ることを選んだのだった。
【回想終わり】
静まり返った浴室の鏡の前で、太奈都は自らの震える手を、骨が鳴るほどぎゅっと強く握りしめた。
あの時、自分はなぜあんな風に、一番愛おしいはずの兄の温もりを振り払ってしまったのか。
本当は大好きなのに。世界で一番大切で、誰よりも誇らしく慕っているはずの兄なのに――。
心の奥底に巣食う澱は、今や静かな狂気へと変わり、確実に彼の内側を蝕み始めていた。




