10、巨躯の異形
園長の巧みな――いや、もはや魔術的ですらある低身長のドライビングテクニックで保育園バスのような車を乗りこなし、一行は荒涼とした海沿いの道をひたすら進んでいく。
それにしても、園長のその小さな体格でこの大きな車を乗りこなす技術は、人間の物理法則を無視しているかのように凄まじい。運転席のシートからは目元と帽子だけがちょこんと顔を出しているだけで、車体はまるで風の精霊のように軽やかに、スイスイとコーナーを抜けていく。ただ、対向車線からパトカーとすれ違うたびに、「今すぐ職務質問でこの異常な光景を暴かれるのではないか」と、助手席の雪兎は心臓が口から飛び出るほどのひやひや感を味わわされていた。ふと気になって足元をのぞき見ると、アクセルやブレーキのペダルには、園長専用に特注されたのか、運転席の床面まで長く延長されたぶっとい継ぎ足し用の木製ブロックが、ガムテープとボルトでしっかりと固定されているのが見えた。
二、三時間ほど波飛沫の上がる海岸線を走り続けたところで、前方を見据える園長の「もうすぐ着くよ」という気の抜けた声が響いた。
――誰も近寄らないような、世界の果てのような場所にぽつんと立っている断崖絶壁の古い灯台。そこに、その「情報を持つ人物」はいるらしい。
灯台に近づくにつれてアスファルトの舗装はすっかり消え去り、むき出しの鋭い岩肌がタイヤをごつごつと叩き、車体を激しく揺らすようになった。これ以上は車で進めないと判断し、一行はエンジンを止め、車を降りて徒歩でその荒野を登ることになる。
歩き出す直前、園長から「まずは私からあの男に話をするから、後ろにいる二人は余計な口を挟まずに黙っているんだよ」と、重みのある釘を刺された。
足場が崩れるようなごつごつとした急斜面を登りきると、目的の古びた灯台が鉛色の空に向かってそびえ立っていた。冷たい潮風に何十年もさらされた外壁はどす黒く汚れ、荒涼とした景色の中に完全に置き去りにされた墓標のように佇んでいる。その麓にある重厚な木の扉の前に立つと、園長は物怖じすることなく、トントンと軽くノックした。
少しの間を置いて、分厚い扉の中央にある小さな覗き口が「ガラッ」と乱暴に開き、中の人物が外の様子をうかがい見た。しかし、建物の中は洞窟のようにひどく薄暗いようで、中の人物の表情や人相はまったく見えない。
その覗き口の高さからすると、中の人物からはちょうど雪兎と優妃の顔しか見えていないらしかった。
「……誰だ」
それは、地響きのように重く、コンクリートを削るような低い声だった。
その瞬間、覗き口からは角度的に見えていなかったはずの園長が、両手を自分の限界までまっすぐ上に突き上げ、満面の笑みを浮かべながらぴょんぴょんとその場で跳ね上がり、「私だよ! 早くその重い扉を開けおくれ!」と必死にアピールし始めた。その小柄な体でのけなげな姿は、どこかコミカルで非常に可愛らしかった。
中の人物は、ようやく下にいる園長の存在に気づいたらしい。
「……っ!」
ガチャン、と重い金属音が響き、内側の太い閂が乱暴に外され、ギィィと教会の扉のような重苦しい音を立てて扉が大きく開かれた。
開かれた闇の向こうから現れたその圧倒的な巨体に、雪兎と優妃は思わずその場で石像のようにぎょッと身を固くし、言葉を失って絶句した。
その巨躯の男――身長は、ゆうに二メートル三十センチを超えている。全身の皮膚を引き裂きそうなほど過剰に発達した筋肉の塊で、縦にも横にもとてつもなくでかい。そして、雪兎が何より衝撃を受けたのは、その巨大な男の肌が生々しい赤黒い色に変色しており、頭部からは太奈都と同じような禍々しい悪魔の角が生えている点だった。背中側はゆったりとしたポンチョ風の服に隠れているものの、背中から腰にかけて異様な盛り上がりが見える――あれは間違いなく、折りたたまれた悪魔の翼の名残に違いなかった。
先日、自宅の庭先で目の前で怪物へと変異した太奈都の姿が、生々しい悪夢として脳裏によみがえる。目の前の男は、まさにあの「異形の怪物」そのものだった。
しかし、その外見が放つ底知れぬ恐怖感とは裏腹に、巨躯の男は扉が開くやいなや、地面にひざまずくように園長を見下ろし、ガシッと両手で抱き上げた。
「園長先生……! 来てくれた、うれしい……!」
その見た目からは一滴も想像がつかないほど無邪気にはしゃぎながら、力いっぱい園長を抱きしめる。
雪兎と優妃は、園長の小柄な身体がその巨腕に握りつぶされてしまうのではないかと冷や汗を流したが、当の園長は少しも慌てず、むしろ日常の一コマのように冷静な声で淡々と諭した。
「相変わらずの激しすぎる歓迎は嬉しいけれどね……。今日はあんたに大事な話があって来たんだよ。とりあえず、中に通してくれるかい?」
その言葉に、巨躯の男は「あ……」と子供のように大人しくなり、そっと園長を床におろすと、のそのそと灯台の奥へと歩き出し、一行を室内に招き入れた。
灯台の中に入ると、高い位置に穿たれた小さなスリット窓からわずかな光が差し込んでいるだけで、室内は洞窟のように薄暗い。家具は、頑丈そうな分厚い木製の机と、ガルの巨体に合わせたサーカス用のベッドのような巨大なベッド、そしてガルの体格にはあまりにもアンバランスな、おままごと用のミニサイズのキッチンがぽつんと置かれているだけの、極めて質素な空間だった。
全員が部屋の中に足を踏み入れたのを確認すると、園長はまず、今回の同行者であるガルの素性について、顔を引きつらせている雪兎と優妃に説明し始めた。
「外見を見て驚いたろうけれど、この子の名前はガル。元々は『エデン・レプリカ』にいた子でね、太奈都と同じ『悪魔と人間の間に生まれた子』だよ。この子の場合、あの『奈落の黒曜』の力が体に拒絶反応を起こしたようでね、石をつけずにここで生活しているのさ。自分の異形の姿を隠せないこともあって、今はこの孤立した場所を拠点に、人間界と悪魔界の境界の監視人のような役割を果たしてくれているんだよ」
一通りの紹介を終えると、園長は鋭く本題へと切り替えた。雪兎から聞いた、あの夜の突然の爆発、太奈都が異形の怪物へと変貌したこと、そして謎の大柄な女に連れ去られた経緯。それらのパズルピースを踏まえ、太奈都の居場所や今回の背景について何か知っていることはないかと、ガルに問いかけた。
ガルは腕を組み、地底から響くような低く唸る声で語り始めた。
「……最近、悪魔の世界から人間の世界へと逃れてきた下級の悪魔から、奇妙な噂を聞いた。第四席悪魔の『嫉妬の悪魔』が、天使の世界を完全に乗っ取るために戦争を仕掛けようとしているらしい……。そのために、かつて魔界に存在したある『屈強な戦士』の遺伝子を使って、兵士となるクローンを大量に造り出そうとしていたそうだ」
ガルは重々しい口調で言葉を続ける。
「だが、そのクローン計画は遺伝子レベルでうまく機能しなかった。その代わり、かつて胎児の時期に『嫉妬の呪い』を直接刻み込まれた子どもが、世界に一人だけいたらしい。……『嫉妬の悪魔』は昔、そのクローンのもととなった屈強な戦士に狂おしいほど恋い焦がれていた。だが、その戦士はある日、人間の女性に心を奪われ、禁忌の子どもを身ごもらせてしまった。それを知った嫉妬の悪魔は嫉妬に狂乱し、決してそれを許さなかった……」
ガルはわずかに瞳を伏せる。
「二人は魔界の追手から人間界へと逃れ続けたが、ある日ついに居場所が見つかり、戦士は命を奪われた。女性のほうには嫉妬の呪いが深く植え付けられ、彼女は呪いに蝕まれて急速に衰弱し、子どもを産み落としたのと同時に息絶えたそうだ。……そして、その子供は嫉妬の呪いをその身に宿したまま、人間の世界で長い年月をかけて成長を遂げた。最近になって、その呪いを持った子どもが『回収』され、悪魔の世界へと連れ戻されたらしい。『これで計画の準備がすべて完了した』と、悪魔たちは狂喜乱舞しているそうだ。……もうすぐ、この世界で大いなる戦いが始まるらしい」
ガルの語る壮絶で血塗られた真実。その内容を聞いた園長は、雷に打たれたようにひどく深刻な面持ちで、ハッと思い当たる節があるように口を開いた。
「……そういうことだったのかい。あれは、太奈都がうちの施設に来た日のことだったよ……。あの日の夕方、私は外出し、施設に戻る途中の寂れた路地裏で、一人の身重の女性が血を流して倒れているのを見つけたんだ。すぐに救急車を呼んで病院へ運んだけれど、母親は出産の直後に息を引き取ってしまった。その人には身寄りが誰もいないようでね……息絶える直前、ずっと子供のことを『頼む』と繰り返していてね。その時にあの『奈落の黒曜』のネックレスを託されて、それでうちの施設で太奈都を引き取ることになったのさ……」
明かされた太奈都のあまりにも残酷な出自。それを聞いた雪兎と優妃は、胸を万力で締め付けられるような衝撃を受け、言葉を失ってその場に立ち尽くしていた。自分たちの知る平和な「日常」の裏側で、そんな過酷な運命の歯車が狂ったように回っていたなんて、どう受け止めていいのか分からない。
重く沈み込んだ空気を断ち切るように、園長は再び現実的なトーンへと戻り、言った。
「おそらく、悪魔たちは太奈都の持つ力を、あの戦士のクローン以上の――いや、それをも遥かに凌駕する最大の戦力として利用するつもりなのだろうね。……とにかく、太奈都が今どこにいるのか、その居場所ははっきりと分かった。問題は……これからどうやってあんな魔界の奥底から連れ戻すか、だね」
園長の言葉を受け、ガルは腕を組みながら、冷徹な現実を告げた。
「……今の悪魔の世界は、戦争への移行期間でかつてないほどの厳戒態勢が敷かれている。今、人間の身なりをした者が単身で乗り込んだところで、その子を救い出すのは……確率論で言えば、ゼロに等しい、ほぼ不可能だ」
「はぁ……」と、園長は頭を抱えて大きく息を吐き出す。しかし、数秒間ほど天井を見上げて考え込んだ後、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「……こうなったら、あの人に頼ってみるか」
「……! 園長、オーリに頼るのはやめておいたほうが……」
ガルが珍しく強い口調で制止しようとしたが、園長はそれを遮るように首を横に振った。
「状況が状況だからね、贅沢を選んでなんかいられないよ。ガル、あんたも一緒に来てくれるかい?」
「……分かった。協力する」
ガルは渋々といった様子ながらも、その大きな頭を縦に大きく頷いた。
怒涛のように展開する状況に必死で食らいつこうとしていた雪兎は、次の目的地が決まった安堵と決意を胸に、一歩前に出て頭を下げた。
「二人とも、本当にありがとうございます……!」
その真摯な謝意を受け止め、園長は雪兎の顔を優しく見据えて頷いた。
「さあ、モタモタしている暇はない。準備をしたらすぐに出発するよ」
しかし、その傍らでガルは、雪兎のほうへ一度たりとも視線を向けず、顔の筋肉すら微動だにさせない。
――めっちゃ無視されている……!
数分後、再び灯台を出発した一行は、ふたたびあの保育園バスに乗り込んだ。
ガルは、その常識離れした巨躯を持て余し、一番後ろの座席の天井に頭頂部をゴリゴリと押し付けながら、首を不自然に横に傾げた状態で無理やり身体を収めていた。車内はガルの圧倒的な存在感だけで、夏の満員電車のような圧迫感に包まれている。
それでも、弟の太奈都を取り戻すために命を賭して協力してくれるガルに対し、雪兎はどうしてもお礼と挨拶をしておきたかった。雪兎は振り返り、後部座席で窮屈そうにしているガルに声をかけた。
「ガルさん! 一緒に来てくれて、本当にありがとうございます。これから、よろしくお願いします!」
その感謝の言葉に対し、ガルは天井に頭をぶつけた不自然な体制のまま、微動だにせず、表情ひとつ変えずにただ前を凝視し続けている。
――やっぱり、完全に無視されている……!!




