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或る兄弟の絆  作者: KOYU
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22/23

22、嫉妬の悪魔

 園長と言葉を交わし、太奈都の方へ向かって駆け抜ける雪兎。宮殿奥の大階段を上り切った瞬間、待ちに待ったその背中が視界に飛び込んできた。


「太奈都……!」


 血に染まった回廊を進む太奈都と、エンヴィア=ジラールの背中に追いついた雪兎。だが、以前の人間の面影を失い、完全に変異してしまった弟の姿を改めて目の当たりにし、雪兎は思わず息をのむ。絶句を切り裂くように、やっと追いつけたという安堵と、それを踏みにじられた怒りが激しく沸き上がった。


「嫉妬の悪魔……お前だけは……お前だけは、絶対に許さない!」


 沸騰したような怒気が緋色の瞳に宿り、その色合いを急速に濃くしていく。逆立つ髪と、背負った二本の剣。極限の感情に呼応するように、雪兎の肉体は血管をミミズ腫れのように浮き上がらせ、爆発的な筋力を生み出した。


 次の瞬間、地面の石板が粉々に砕け散るほどの踏み込みで、雪兎はエンヴィア=ジラールへ向かって一直線に射出される。

 間合いに踏み込み、切っ先を振りかざした雪兎の視界の端で――ふと、エンヴィア=ジラールが不敵な笑みを浮かべた。

 歪む景色。その横に並び立っていた太奈都の拳が、容赦なく雪兎の顔面を打ち抜いた。


「がっ……!」


 鋼鉄のハンマーに殴打されたような衝撃に、雪兎の顔が歪み、拳が肉にめり込む。凄まじい遠心力ごと、雪兎の身体はまるで紙切れのように弾き飛ばされた。

 ドゴーンという地響きを伴って壁に激突し、崩れ落ちた瓦礫の山がその小さな体を飲み込んでいく。


「あらあら、乱暴ね。大切な弟に打ちのめされる気分はいかが?」


 瓦礫に埋もれる雪兎を嘲笑うように、エンヴィア=ジラールが艶然と微笑む。当の太奈都は表情を微塵も変えず、かつては兄と慕った人間に手を下したことなど、道端の石ころを踏みつけた程度の事としか捉えていないようだった。


 だが――。

 瓦礫が盛大に吹き飛び、鬼神の形相を浮かべた雪兎が這い出てくる。その額には青筋が血管のように脈打っていた。


「殺す……!」


 掠れた呪詛のようにつぶやくと、雪兎は再び狂気的な速度で突進する。

 しかし今度は、その直線上を塞ぐように太奈都が立ちはだかった。すっと背中の大剣を抜き放ち、冷たい刃を雪兎に向ける。

 雪兎は太奈都の間合いに飛び込むやいなや、神速の身のこなしでエンヴィア=ジラールの背後へと回り込み、その首を刎ねようと剣を一閃させた。

 だが、それすらも予期していたかのように、太奈都は瞬時に剣の軌道へと割って入り、雪兎の斬撃を力任せに薙ぎ払う。返す刀で、迷いなく雪兎の頭蓋へと剣を振り下ろした。


「くっ……!」


 間一髪で二本の剣をクロスさせ、太奈都の重撃を受け止める雪兎。しかし、その一撃の過酷な重みに、雪兎の両足はたまらず石畳へと深くめり込んだ。

 と、その背後からエンヴィア=ジラールが滑るように横へ移動し、かざした掌から黒い紋章陣を顕現させる。

 放たれた漆黒の光弾が、逃げ場のない角度から雪兎を襲う。咄嗟に身を翻して直撃を免れようとするも間に合わず、雪兎は剣の平でそれをいなしたものの、凄まじい衝撃波に巻き込まれて再び吹き飛ばされた。


「なんていじらしいのかしら。だけど、今のあなたに止める力はないわ。弟のことは、さっさと諦めることね」


 見下ろす瞳に冷酷な光を宿し、エンヴィア=ジラールが嗤う。

 だが、雪兎は血走った歯で唇を噛みしめ、湧き上がる痛みを無視して地面に拳を叩きつけた。


「諦めてたまるか……! おれの、たった一人の大切な弟だ……!!」


 血を吐くような叫びが、広間にこだまする。その執念を嘲笑うかのように、エンヴィア=ジラールは冷淡に命じた。


「ふっ……それなら、愛する弟の手によって惨たらしく死ねばいいわ」


 命じられるまま、太奈都が機械人形のようにゆっくりと雪兎へ歩み寄る。間合いに入るやいなや、容赦なく大剣が振り下ろされた。

 雪兎は二本の剣を盾に防御姿勢を取るが、覚醒した太奈都の暴力的ともいえる怪力の前に、たちまち再び壁へと叩きつけられる。

 そこから始まったのは、残酷なまでの蹂躙劇だった。


 致命傷を紙一重で逸らし、攻撃をわずかにいなしてはいるものの、吹き飛ばされるたびに雪兎の肉体には深手が増えていく。壁に激突するたび、鮮血が床を汚した。


 やがて、壁際に追い詰められ、愛剣を握る腕の力すら残らなくなったとき。

 太奈都が目の前に立ち、一切の感情のない瞳で大剣を頭上へと振り上げた。――終わった、そう確信した死の淵で、雪兎のなかに眠る最後の闘志が爆発する。

 残された全霊の力を振り絞り、振り下ろされる大剣の軌道を紙一重でずらし、硬質な床へと叩き込ませた。

 生まれたほんの一瞬の隙。雪兎は太奈都の脇腹へと渾身の拳をねじ込み、そのままの勢いで顎下へと突き上げる。不意を突かれた太奈都の手から大剣が滑り落ち、たまらず数歩後ずさった。

 その好機を逃さず、雪兎はありったけの力を込めた鋭い回し蹴りを太奈都の腹部へ叩き込む。


 鈍い衝撃音とともに、太奈都の身体が後方へと大きく吹き飛んだ。

 追撃をかけるだけの体力すら残っておらず、雪兎はその場で膝をつき、荒い息を吐き出す。ほんの数秒でも体力を回復させようとしたその矢先、しびれを切らしたエンヴィア=ジラールが冷たく言い放った。


「いつまで手こずっているの、いい加減にとどめを刺しなさい!」


 その声に促されるように、太奈都は不気味なほどスムーズに立ち上がり、再び雪兎へと殺意の歩みを進める。

 限界を超えた肉体に鞭打ち、雪兎は最後の力を振り絞って跳び上がった。そのままの勢いで太奈都の右頬へと拳を叩き込む。

 しかし、太奈都は微動だにせず、虚ろな目のまま雪兎を振り返ると、無慈悲にその細い首をわしづかみにした。そのまま、雪兎の足が完全に地面から離れるほどに軽々と持ち上げる。


「ぐあっ……がっ……」


 首を締め上げられ、酸素を絶たれた雪兎の喉から苦悶のうめきが漏れる。引き剥がそうと必死に太奈都の腕にしがみつくが、呪いに縛られた怪力の前には、紙細工のように無力だった。

 ――その直後。

 容赦なく突き出された太奈都の左手が、雪兎の鳩尾を容赦なく貫いた。


「ぐあっ……た……太奈都……」


 致命的な一撃を受け、生命の灯火が消えかけながらも、雪兎の口をついて出たのは最愛の弟の名だった。

 太奈都の腕を掴んでいた雪兎の手から力が抜け、だらりと虚空へ垂れ下がる。

 その瞬間だった。

 太奈都の瞳の奥で、虚ろな闇が揺らぎ、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……ゆ……雪にい……」


 呪いの束縛がわずかに解けかけ、自我を取り戻し始める太奈都。

 その異変にいち早く気づいたエンヴィア=ジラールが、顔を歪めて舌打ちした。


「っ、鬱陶しい……!」


 冷徹に吐き捨てると、エンヴィア=ジラールは太奈都の腕から瀕死の雪兎を引きずり剥がし、そのまま無造作に壁際へ放り投げた。さらに、掌に凶悪な紋章陣を展開し、雪兎へと容赦ない黒い光弾を撃ち込む。

 爆発に巻き込まれた雪兎の身体は宮殿の壁をブチ破り、外の虚空へと放り出されて深い谷底へ向かって落下していった。


 宮殿の内部では、エンヴィア=ジラールが恐怖に満ちた手で太奈都の頭部を強くわしづかみ、さらに強烈な呪いの術式を脳髄へと流し込んでいく。


「があああああ――ッ!」


 太奈都の絶望的な悲鳴が、冷たい風にかき消されていった。


---


 闇に包まれた谷底へ、まるで木の葉のように墜ちていく雪兎。

 意識が暗黒の海へ沈みゆくその瞬間、視界の隅に巨大で純白の翼が舞い込んだ。

 次の瞬間、グラシャ=レジナが落下する雪兎を腕の中にしっかりと抱き止め、崖壁のわずかに突き出た岩棚へと着地する。血まみれの少年の状態を確認し、グラシャは鋭く叫んだ。


「……死ぬなっ!」


 そう叱咤しながら、雪兎の胸元で微かに光る首飾り――『天律の聖石』に目を留めた瞬間、それがかつて自分が人間の世界に置いてきたものであることに気づく。


「我が息子よ……すまない……!」


 歯噛みしながら聖石を握りしめるグラシャ。その手に、雪兎がか弱い力で強く握り返した。


「お……お願いします……。天律の聖石を……解放して……ください……」


 消え入るような声で懇願する雪兎。グラシャは、その少年の瞳に宿る不屈の光を見つめながら、聖石にそっと手をかざし、自らの深奥に眠る天使の光を注ぎ込み始めた。


「我が息子よ、お前に話したいことは山ほどある。だが、この戦場に戻るからには、どうしても果たさねばならない理由があるのだろう……。天使の力が身体に満ちるとき、その致命傷は癒える。だが、警告しておく。その力が完全に馴染んでいない今の肉体では、全開の負荷に耐えられない……持って数分だ。そのわずかな時間の間に、すべてに決着をつけろ……! それ以上の時間が経てば、お前の命の脈動そのものが止まるだろう……!」


 聖母のような、しかし哀切を帯びた眼差しで告げるグラシャ。

 雪兎はかすかに顔を上げ、傷だらけの顔で不敵に微笑んだ。


「……充分だ。まだ、戦えるなら……!」


 我が子のあまりに強い決意に満ちた瞳を見て、グラシャはそれ以上の言葉を飲み込み、痛切な祈りを込めて光の出力を跳ね上げた。


 次の瞬間、雪兎の肉体が眩いばかりの純白の光に包まれる。

 腹部の抉れた傷が奇跡的な速さで塞がり、背中からは一対の美しい白い翼が力強くバサリと展開された。雪兎は固く拳を握り締め、荒々しい息を整えながら再び立ち上がる。

 崩壊した宮殿の上空を見据えた雪兎の背に、グラシャが静かに声をかけた。


「我が子よ……私を恨むか?」


 雪兎は振り返り、一点の曇りもない凛とした表情で言い放つ。


「……いや。おれには、守るべき大切な宝物があるから。血の繋がりなんて関係ない……本当の家族が、ここにいるから……!」


 そのまっすぐな言葉に、グラシャは胸を突かれたように目を見張り、やがて穏やかな笑みを浮かべた。


「そうか……」


 短い肯定ののち、二人は宮殿の空へ向けて一斉に翼を翻した。


 先ほどエンヴィア=ジラールによって開け放たれた大穴から、雪兎は光の翼を纏ったまま宮殿内へと舞い戻る。そして、虚ろな目で佇む太奈都へ向かって叫んだ。


「太奈都っ! 俺が必ず目を覚まさせてやる……一緒に帰るぞ!!」


 その神々しい天使の姿に、宮殿の奥へ向かおうとしていたエンヴィア=ジラールが舌打ちする。


「くっ……どこまでも邪魔くさい小蠅ね! 今度こそ、その息の根を完全に止めておしまいなさい!」


 太奈都へ冷酷な命令を下すと、エンヴィア=ジラールは単身で宮殿の最奥へと急ぎ足で消えていく。雪兎は床に落ちていた二本の剣を拾い上げ、追撃しようとするが、立ちはだかった太奈都の刃がそれを阻んだ。

 一騎打ちとなった空間。太奈都は再び感情を失った人形に戻っていたが、雪兎の胸には先ほど流した「涙の記憶」が焼き付いていた。――絶対に元に戻す。その確信を胸に、雪兎は正気を取り戻させるための過酷な激闘へと身を投じていく。


---


 その頃、喧騒を離れた宮殿の最奥にて。


「天律の右鍵……やっと、ようやく手に入れたわ……!」


 エンヴィア=ジラールは、自らが持ち込んだ『奈落の左鍵』と、奪い取った『天律の右鍵』の二つを重ね合わせ、狂喜の笑みを浮かべていた。

 彼女は巨大な宮殿の天井を見上げ、その天井をブチ抜く勢いで空高く飛び立つ。

 戦場全体を一望できる高度に達した瞬間、彼女は二つの鍵をまるで天の原罪をこじ開けるように、空間へと深く突き刺した。


 ――轟っ!!


 次の瞬間、頭上の空が裂け、底知れぬ巨大な黒い渦が顕現する。

 地上の戦場で血を流し合っていたすべての戦士たちが、その圧倒的な異変に思わず手を止め、息を呑んで空を仰いだ。

 宮殿内で交戦していたグラシャ=レジナとオブスキュア=ゼノンもまた、世界の理が急激に変質していく気配に動きを止める。


「くっ……!」


 グラシャは牙を噛みしめ、事態を止められなかった己の無力を悔やんだ。

 だが、その中で――唯一、オブスキュア=ゼノンだけは、頭上の空を凝視して顔色を激しく歪めていた。


「あれは……違う……っ!?」


 オブスキュアの脳裏にある予測が打ち砕かれる。魔王への接見のために開かれるはずの『天上界の門』ではない。そこから漂うのは、かつての大罪者たちを永劫の苦しみへ閉ざすための、忌まわしき『終焉の牢獄』の波動だった。


「エンヴィア=ジラール! 一体どういうことだ!」


 地響きのような怒声を空へぶつけるオブスキュア。

 しかし、天空の渦のふちに立つエンヴィア=ジラールは、妖しく優美な笑みを浮かべたまま彼らを睥睨する。


「ごめんなさいね……『ある方』をこの世界に引き戻すために、あなたたち全員を利用させてもらったのよ」


 高笑いが空気を震わせる。

 そして、天上の渦の裂け目から、世界を凍りつかせるような底知れぬ声が響き渡った。


「――エンヴィア=ジラール、よくやった。我が依り代はどこだ……?」


 その名を聞いた瞬間、オブスキュアの瞳が驚愕に見開かれる。

 エンヴィア=ジラールは不敵に微笑み、下界を指し示した。


「アザゼル様……。あなたのための依り代は、あちらに用意してあるわ」


 指し示された先には、虚ろな目で佇む太奈都の姿があった。エンヴィア=ジラールが手招きすると、太奈都はまるで操り人形のようにその空中の渦へ向けて浮き上がり始める。

 それを目撃した雪兎は血相を変え、全力で空へ跳躍した。


「行かせるか……っ!」


 だが、それを阻むように、エンヴィア=ジラールが冷酷な笑みを浮かべて雪兎の進路へ立ちふさがる。雪兎は怒りのままに剣を振り抜いたが、エンヴィア=ジラールが伸ばした鋭い爪が剣身を受け止め、激しい火花と金属音が宙を舞った。二人が空中で鍔迫り合いを演じる間にも、太奈都の身体は容赦なく黒い渦へと吸い込まれていく。


---


 一方、下の宮殿内。

 耳を劈くその名前を聞き、オブスキュア=ゼノンは我が耳を疑った。


「アザゼルだと……っ!?」


 かつて天界と悪魔界を揺るがした大戦を引き起こした、『前』第一席にして――すべての理を絶望に染め上げる『絶望の悪魔』。

 グラシャ=レジナもまた、その禁忌の名を耳にして青ざめ、声を荒げた。


「アザゼル!? あの大戦の元凶であり、二度と開かぬはずの『終焉の牢獄』の最深部に封じられているはずの……!」


 絶望的な事実が二人の脳裏を駆け巡る。オブスキュアは歯を食いしばり、血走った目で天上の女を睨みつけた。


「エンヴィア=ジラールめ……! あの人間の子供を標的に選んだのは、すべてアザゼルをこの世界に降臨させるための布石だったというのか……!」


 自らが利用されていたことに気づいたゼノンは、アザゼルを復活させてはならないという一心で、即座に空へ向けて跳び立とうとした。しかし、あまりの距離に、今の疲弊した状態では到底間に合わない。

 咄嗟に、ゼノンは眼下のエンヴィア=ジラールへ向けて空間を縛る紋章陣を展開し、その動きを強引に縫い留めた。


 ――その一瞬の硬直を、雪兎が見逃すはずがなかった。


「……っ!」


 全霊の力を込めた雪兎の剣撃がエンヴィア=ジラールを直撃し、彼女は血を吐きながら宮殿の床へと墜落していく。

 自由の利いた雪兎は、そのままの勢いで天上の渦へ向かう太奈都の背中を追い、猛スピードで急上昇した。


 太奈都が、まさにその黒い渦へ手を差し入れた瞬間――。

 雪兎は間一髪でそのもう一方の手首を力強く掴み取った。


「太奈都っ……!」


 叫ぶ雪兎の声に導かれるように、太奈都がゆっくりと、機械のように首を巡らせて兄の顔を見た。

 だが、その瞳に浮かんでいたのは涙の色ではなく、世界を凍らせるような圧倒的な絶望の虚無だった。


「……我に触れるとは。身の程もわからぬ、愚かしい子虫めが」


 太奈都の口から発せられたのは、幼い弟のものではない――底知れぬ狂気と威圧を湛えた、異形の男の声音だった。

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